訪問日:平成24年12月23日(日)
出 発:能勢電車「日生中央駅」
到 着:能勢電車「日生中央駅」
兵庫県南東部に位置する兵庫県川辺郡猪名川町。町北部は深い山間部であるが南部には里山風景が広がる。また、付近は古くから「銀」「銅」の鉱山として知られ、昭和の時代まで採掘が行われていたそうだ。そして、豊臣家の財政を支えたとも言われる「多田銀銅山」が歴史的遺産として残されている。
近年開発された大規模ニュータウンの中心である能勢電車「日生中央駅」から、多田銀銅山を訪ね、途中、一本松山を経て、名勝「屏風岩」等を訪ねながら「日生中央駅」までをぐるっと歩く。
コースの大部分は「歴史街道」として案内標識も整備されていることから道に迷うことはない。一本松山への山越えを除いて適度に自販機はあるが、トイレは結構少ない。
能勢電車「日生中央駅」。平日の通勤時間帯には阪急梅田駅からの直通特急も走るが、通常は「川西能勢口駅」で阪急宝塚線から乗り換え約50分(580円)。高度成長期の昭和40年代から開発された「日生ニュータウン」そして、平成に入ってから開発された「猪名川パークタウン」への玄関口としてショッピングセンターや銀行、大型電器店などが並ぶ。
駅構内のコンビニで給水し、午前9時30分いざ出発。
駅南西に開ける「松尾台」という住宅街を抜ける。
池のある公園なども配されたニュータウンだ。
幼稚園の角を曲がり住宅街を抜ければ、目の前に田園地帯が開けるが、その山裾に「原素盞嗚神社」。
この地域には、素盞嗚(すさのおのみこと)神社が多い。今回のコースでも3つの素盞嗚神社を訪ねるが、ここが第一番目だ。今日の無事を祈願してお参りをする。
神社を出たところには原川という川が流れ、新しく整備された川沿いの道には桜の木が植えられ春には美しい桜並木となる。
今回は、田んぼを挟んで向かい側の山沿いに走る旧道を歩くことにする。
左手に石灯篭が見えると善福寺という寺の霊園への道が現れるが、その道には入らずもう少し歩く。
すぐに右側に石段が見えるので正面から善福寺にお参りする。高野山真言宗の寺院で、平安初期、清和天皇と自然上人が開基。その後、清和源氏の祖、源満仲らが諸堂を建立したという。
旧家の残る村中を歩く。
北摂の山間部は、昔から猪が多く、猪肉は特産物で「ぼたん鍋」を食べさせる店も多い。関東地方では「しし鍋」と言うのかな。
川沿いに進んでいくと「猪名川町役場」に突き当たるので左折し、古い家が並ぶ道を少しばかり歩く。
すぐに猪名川町立「静思館」の前に出る。
ここは、資産家である「冨田氏」の旧邸宅であったが、ご子孫が町を離れたことから猪名川町が購入、午前9時30分から午後4時30分まで無料で公開されている(月曜日・祝日休館)。
立派な茅葺は、残念ながら葺き替え中で全容を望めなかったが、国登録有形文化財にも指定されている立派な建物だ。
昭和10年築と比較的新しいが、3年の歳月をかけ江戸時代の豪農の屋敷を模して建てられている。
当時のまま保存されており、見学のほかミニコンサートや寄席なども催されるそうだ。
静思館を出て右に進むとすぐに「上野素盞嗚神社」の二つ並んだ鳥居が見える。
今日2つ目の素盞嗚神社。素盞嗚(スサノオノミコト)とは、イザナギノミコトの禊払いから生まれた三貴子のうちのひとり(?)で、古事記では須佐之男命と表記される。スサノオノミコトの本地である牛頭天王が祀られている。古いいわれがあるのだろう。
神社の前にため池があり、堰堤には地蔵尊と火見櫓。
しばらく進むとニュータウンからの大きな道と合流する。三叉路で右折し、病院の前を過ぎると道が分かれるが、遠くに見える「浄土真宗本願寺派最徳寺」方向に進む。
ここからは「広根」という集落に入る。立派なお屋敷だ。
裕福な農村地帯なのだろう。
地蔵尊越しに見る田畑。
体が暖まってきた。猪名川パークタウンからの大きな道を越えたところでウィンドブレーカーを脱ぐ。そこには「多田銀銅山悠久の館」への案内板。
もうしばらく広根の集落を歩く。
旧家の軒下には、火消し用の手動ポンプが。
広根の集落を抜けると、右の山手にお寺が見えてくる。曹洞宗雲覚寺。
その奥には「広根素盞嗚神社」。
今日最後の素盞嗚神社である。
元の道に戻る。川に沿った道への入り口に「多田銀銅山」の案内板が立つ。これより多田銀銅山を訪ねる。
野尻川と呼ばれる川に沿って緩やかな坂道を歩く。
道端には古い石の道標も見られる。
かと思えば、元採石場だろうか、廃墟のようにたたずむ。
しばらく進むと「笠原」という小さな集落に。犬が侵入者(私のこと)にワンワンと吠えている。
小さな集落だが、以前訪れたことのある「木曽の妻籠宿」のような雰囲気が・・・。
村のはずれには、古民家を利用したカフェも。
銀山の公会堂と火見櫓を過ぎれば左側に「多田銀銅山悠久の館」。猪名川町立の施設で、江戸時代から今日に至るまでの多田銀銅山について数々の展示品とともにわかりやすく紹介されている。ただ、残念なことに「館内撮影禁止」ということでブログでは紹介できない。
「悠久の館」前の野尻川を隔てた山側に広い更地がある。「代官所跡」だ。豊臣政権の財政を支えたという多田銀銅山には、かつて代官所が置かれていたそうだ。代官所の復元模型が「悠久の館」に展示されていたが「撮影禁止」のため紹介できないのが残念だ。
「悠久の館」前の空き地に何やらレンガ造りの建造物が。案内板によると「明治時代の精錬所跡」らしい。私有地内にあるのだろうか、観光化されていないため周辺には、ユンボや建築資材、ブルーシートなどが無造作に放置されている。
白壁灯篭風に再現された「銀山橋」を渡る。
橋を渡ったところに「高札場跡」が。そこに代官所への案内板があったので50mほど川沿いに進む。
先ほど「悠久の館」から眺めた代官所跡に入る。屋敷の中央付近にあるので「井戸跡」だろうか。
元の道に戻り野尻川に沿って上る。小さな集落を過ぎるが、古い道なのだろうここにも道標が。「妙見山」「池田」「三田」やこれから訪れる「萬善」などの字が見える。
家並みが途切れたところに、ひときわ立派な建物が。案内板を見ると先ほど訪ねた代官所の中門を移転したものらしい(ただし伝承)。説明文を読むと元々馬に乗ったままくぐれるほどの高さだったところ現在の高さに切り取られたということだ。
代官所門を過ぎた川岸に「平炉跡」という表示板が立つ。銀、銅を精錬する「炉」があったのだろう。
平炉跡のすぐ上流に「金山彦神社」への橋が架かる。
大同2(807)年建立の1200年以上の歴史を持つ古い神社らしい。
万物の中の「鉱」の守り神なのだろう。
拝殿横の石段を下り境内を通り抜けると野尻川を渡る小さな橋があるので、橋を渡って右へ。すぐに「青木間歩」への案内板が。小さな橋を渡って「間歩(まぶ)」へと進む。
「間歩」とは鉱石を採掘するための坑道のことだ。世界遺産に登録された島根県石見銀山にも残されている。「青木間歩」は、坑道の入り口周辺に薬草の「アオキ」が茂っていたことから名付けられたとか。
約60mほどの坑道が公開(午前9時から午後5時)されている。
今でも銀や銅の鉱脈が見られる。この坑道は、昭和に入って機械掘りされた坑道の跡らしい。
坑道入り口から遊歩道に沿って山手に上がったところに、かつての手掘りによる採掘跡が見られる。
川を渡って元の道に戻り少し上流に歩くと、川越しに「水抜通風穴跡」と呼ばれる穴が見える。
しばらく川沿いに歩いていくと、突然コンクリート工場の建物が現れるが、野尻川を渡ってすぐに左に上る道があるので左折する。昭和の時代まで採掘されていたので、結構立派な道が引かれている。
すぐに「日本鉱業多田銀山事務所跡」の案内板が。昭和48年まで銀、銅の採掘が行われていたが、今はわずかに石組みと石段の跡が残るだけだ。
さらに上っていくと「台所間歩」。大坂城の台所を賄うほどの銀、銅が産出されたことから、こう呼ばれるようになったらしい。内部は公開されていない。
途中にも名もない間歩が残されている。間歩の内部は、崩落の危険があったり、急に深い縦穴が掘られたりしているので決して中に入ってはいけない。
瓢箪間歩大露頭。通常、地中にある鉱脈がここでは地表に現れている。
最も奥にあるのが「瓢箪間歩」。豊臣秀吉の馬印である「千成瓢箪」を掲げることが許されたとか。
ここも入口は埋められており、中には入れない。
元の二叉まで戻り左折する。ここにも立派な屋敷があった。
しばらくすると家並みはとぎれる。
右に広い田園地帯が現れる。15世紀ころに開発された「村上新田」。里山風景が残されている。
村上新田の突き当たりには「村上中池」。堤の下では、一人のハイカーが弁当を広げていた。
これより山に入る。村上中池の向かって左に山への入口が。案内板に従って山に入る。
先ほど言ったように北摂の山には猪が多い。まさか熊が出ることはないが、今回、モンベルで買い求めた「熊よけ鈴」を携帯した。
前日の雨のせいか少々道がぬかるんでいたが、15分ほどで峠に着く。
峠の右側に山への踏み跡がある。標識はないが一本松山への道だろう。入ってみよう。
途中からシダ系の草で道が覆われている。人がやっとすれ違える程度の道だ。夏場であれば道は草で覆われているかもしれない。
途中、何の標識もなく15分ほどで突然山頂に到着した。一本松山頂、標高301m。
4等三角点が埋められていた。私は、あまり三角点に対する征服心はない。
元来た道を峠まで戻り右折する。
しばらく進むと、この後訪れる「道の駅(万善)」方向が見える。
分かれ道ごとに案内板があるので道に迷うことはない。
途中から川沿いの道に出るので川に沿って下る。喉が渇いたので給水したが、何気なく左を見ると何やら穴が。間歩跡だろう。本当に偶然だ。ここで給水しなければ見つけられなかっただろう。それとも誰かが呼び寄せたのだろうか。
そんなことを考えながら歩いているうちに道は35~6軒ほどのミニ開発住宅街で終わる。
住宅街を抜ける。
川を渡って右折すれば、すぐに道の駅に出る。「道の駅いながわ」だ。
地元で採れた野菜や地酒などが売られている。
猪名川町のマスコット「いなぼう」が迎えてくれる。
饂飩屋や焼きたてのパン屋さん、蕎麦屋などがある。時間は、午後2時、ちょっと遅いがここで昼食としよう。
あれほど遭遇を恐れていた猪であるが、食うとなれば別だ。しし肉うどん(1380円)を注文する。
道の駅を出て南(右)へ。すぐに猪肉専門の肉屋さんが、店の前には猪の剥製が。
そのまま道を進むと「こんなところに?」という感じで、何やら旅館街(と言っても2軒だが)のような雰囲気の一角に出る。
屏風岩だ。清流に高さ30メートル、幅100メートルの岩壁が屏風のようにそびえる。
温泉が湧くわけでもなく、ほかに名所旧跡があるわけでもなく、この風景だけでこの2軒の旅館が成り立っているのだからすごい。
屏風岩を過ぎるとすぐ右にお寺が現れる。浄土宗東光寺。
木喰明満上人が90歳で掘ったと伝えられ、一度拝めば安産に、二度拝めば母乳が出、三度拝めば乳児がすくすく育つという「子安観音」。その他にも13体の「木喰仏」が安置されている。
寺を過ぎると右には「鱒釣り場」。スポーツ新聞などでも紹介されている釣り堀だ。
その前には、バス停留所。ここは、病院の跡らしい。ちょっと夜にはバス待ちはできないだろうな。
左に消防団の火見櫓が見えてくる。奥には山への入口のように「高皇産神社」の鳥居が見える。
高皇産神(タカミムスビノカミ)とは、高天原に最初に現れた「造化三神」のうちの一柱。万物を創造した神である。
脇には、多くの神々が鎮座していた。
神社の前には小さな小屋が。左は赤灯があるので消防団庫だろう。右は背が高いので御神輿庫だろうか。
神社から元の道に戻り歩く。ここらは「北田原」の集落。
懐かしい農具庫。
道からそれて集落の中に入る。立派な旧家が残る。
田んぼ越しに先ほど頂上を極めた「一本松山」。円錐形の山で「猪名川富士」とも呼ばれる。
集落を抜けると旧道とバイパスが交わる二叉交差に出るが旧道を歩く。川を挟んで右にはバイパスが。
この道は、朝訪れた「静思館」に続く道で古い家が残る。
村の集会所と消防団庫。いい風景だ。
集落の中を阪急バスが走る。
ちょっとわかりづらいが、左に浄土真宗本願寺派圓行寺の境内に続く細い路地があるので境内に入る。
境内を通り抜け左に折れると霊園に出るので、その下の道を上っていく。小さな峠を越えると舗装道に出る。「やすらぎの径」というらしいが観光的な遊歩道ではなく、健康増進やリハビリのため猪名川町立の二つ福祉施設を結ぶ道だ。右に曲がる。
町立社会福祉会館前を右に折れると白壁が。
壁に沿って行くと「天森神社」に。
ここは、加賀白山神社と同じ「白山姫命」を祀る。立派な神社だ。
神社前には、県道バイパスが走るが、左折して旧道を歩く。
庚申さんを祀った三叉路を左に行けば「阿古谷」の集落を抜けて大阪府能勢につながるが真っ直ぐ進む。
消防本部の前で先ほどの県道バイパスと合流するので左折。高校と中学校の間の小さな峠を越えると「原」という三叉路に出る。
三叉路だが、左には集落に入る小さな道があるので左折する。すぐに観音堂が見える。手前の案内板を見ると、いろいろないわれがあるようだ。十一面観世音仏は、猪名川町の重要文化財に指定されているそうだが、観音堂は鍵が閉められていた。
集落と田畑の間の道を抜ける。古い石灯籠が。
畑では、正月用の「葉ボタン」の採り入れ。
土壁の塀を通り過ぎる。
再度、県道バイパスと合流。左折する。右には今日のゴール「日生中央駅」があるショッピングセンターが。
午後4時ちょうど。朝出発した「日生中央駅」に到着。今日の歩紀「28603歩」(24.59km)。
出 発:能勢電車「日生中央駅」
到 着:能勢電車「日生中央駅」
兵庫県南東部に位置する兵庫県川辺郡猪名川町。町北部は深い山間部であるが南部には里山風景が広がる。また、付近は古くから「銀」「銅」の鉱山として知られ、昭和の時代まで採掘が行われていたそうだ。そして、豊臣家の財政を支えたとも言われる「多田銀銅山」が歴史的遺産として残されている。
近年開発された大規模ニュータウンの中心である能勢電車「日生中央駅」から、多田銀銅山を訪ね、途中、一本松山を経て、名勝「屏風岩」等を訪ねながら「日生中央駅」までをぐるっと歩く。
コースの大部分は「歴史街道」として案内標識も整備されていることから道に迷うことはない。一本松山への山越えを除いて適度に自販機はあるが、トイレは結構少ない。
能勢電車「日生中央駅」。平日の通勤時間帯には阪急梅田駅からの直通特急も走るが、通常は「川西能勢口駅」で阪急宝塚線から乗り換え約50分(580円)。高度成長期の昭和40年代から開発された「日生ニュータウン」そして、平成に入ってから開発された「猪名川パークタウン」への玄関口としてショッピングセンターや銀行、大型電器店などが並ぶ。
駅構内のコンビニで給水し、午前9時30分いざ出発。
駅南西に開ける「松尾台」という住宅街を抜ける。
池のある公園なども配されたニュータウンだ。
幼稚園の角を曲がり住宅街を抜ければ、目の前に田園地帯が開けるが、その山裾に「原素盞嗚神社」。
この地域には、素盞嗚(すさのおのみこと)神社が多い。今回のコースでも3つの素盞嗚神社を訪ねるが、ここが第一番目だ。今日の無事を祈願してお参りをする。
神社を出たところには原川という川が流れ、新しく整備された川沿いの道には桜の木が植えられ春には美しい桜並木となる。
今回は、田んぼを挟んで向かい側の山沿いに走る旧道を歩くことにする。
左手に石灯篭が見えると善福寺という寺の霊園への道が現れるが、その道には入らずもう少し歩く。
すぐに右側に石段が見えるので正面から善福寺にお参りする。高野山真言宗の寺院で、平安初期、清和天皇と自然上人が開基。その後、清和源氏の祖、源満仲らが諸堂を建立したという。
旧家の残る村中を歩く。
北摂の山間部は、昔から猪が多く、猪肉は特産物で「ぼたん鍋」を食べさせる店も多い。関東地方では「しし鍋」と言うのかな。
川沿いに進んでいくと「猪名川町役場」に突き当たるので左折し、古い家が並ぶ道を少しばかり歩く。
すぐに猪名川町立「静思館」の前に出る。
ここは、資産家である「冨田氏」の旧邸宅であったが、ご子孫が町を離れたことから猪名川町が購入、午前9時30分から午後4時30分まで無料で公開されている(月曜日・祝日休館)。
立派な茅葺は、残念ながら葺き替え中で全容を望めなかったが、国登録有形文化財にも指定されている立派な建物だ。
昭和10年築と比較的新しいが、3年の歳月をかけ江戸時代の豪農の屋敷を模して建てられている。
当時のまま保存されており、見学のほかミニコンサートや寄席なども催されるそうだ。
静思館を出て右に進むとすぐに「上野素盞嗚神社」の二つ並んだ鳥居が見える。
今日2つ目の素盞嗚神社。素盞嗚(スサノオノミコト)とは、イザナギノミコトの禊払いから生まれた三貴子のうちのひとり(?)で、古事記では須佐之男命と表記される。スサノオノミコトの本地である牛頭天王が祀られている。古いいわれがあるのだろう。
神社の前にため池があり、堰堤には地蔵尊と火見櫓。
しばらく進むとニュータウンからの大きな道と合流する。三叉路で右折し、病院の前を過ぎると道が分かれるが、遠くに見える「浄土真宗本願寺派最徳寺」方向に進む。
ここからは「広根」という集落に入る。立派なお屋敷だ。
裕福な農村地帯なのだろう。
地蔵尊越しに見る田畑。
体が暖まってきた。猪名川パークタウンからの大きな道を越えたところでウィンドブレーカーを脱ぐ。そこには「多田銀銅山悠久の館」への案内板。
もうしばらく広根の集落を歩く。
旧家の軒下には、火消し用の手動ポンプが。
広根の集落を抜けると、右の山手にお寺が見えてくる。曹洞宗雲覚寺。
その奥には「広根素盞嗚神社」。
今日最後の素盞嗚神社である。
元の道に戻る。川に沿った道への入り口に「多田銀銅山」の案内板が立つ。これより多田銀銅山を訪ねる。
野尻川と呼ばれる川に沿って緩やかな坂道を歩く。
道端には古い石の道標も見られる。
かと思えば、元採石場だろうか、廃墟のようにたたずむ。
しばらく進むと「笠原」という小さな集落に。犬が侵入者(私のこと)にワンワンと吠えている。
小さな集落だが、以前訪れたことのある「木曽の妻籠宿」のような雰囲気が・・・。
村のはずれには、古民家を利用したカフェも。
銀山の公会堂と火見櫓を過ぎれば左側に「多田銀銅山悠久の館」。猪名川町立の施設で、江戸時代から今日に至るまでの多田銀銅山について数々の展示品とともにわかりやすく紹介されている。ただ、残念なことに「館内撮影禁止」ということでブログでは紹介できない。
「悠久の館」前の野尻川を隔てた山側に広い更地がある。「代官所跡」だ。豊臣政権の財政を支えたという多田銀銅山には、かつて代官所が置かれていたそうだ。代官所の復元模型が「悠久の館」に展示されていたが「撮影禁止」のため紹介できないのが残念だ。
「悠久の館」前の空き地に何やらレンガ造りの建造物が。案内板によると「明治時代の精錬所跡」らしい。私有地内にあるのだろうか、観光化されていないため周辺には、ユンボや建築資材、ブルーシートなどが無造作に放置されている。
白壁灯篭風に再現された「銀山橋」を渡る。
橋を渡ったところに「高札場跡」が。そこに代官所への案内板があったので50mほど川沿いに進む。
先ほど「悠久の館」から眺めた代官所跡に入る。屋敷の中央付近にあるので「井戸跡」だろうか。
元の道に戻り野尻川に沿って上る。小さな集落を過ぎるが、古い道なのだろうここにも道標が。「妙見山」「池田」「三田」やこれから訪れる「萬善」などの字が見える。
家並みが途切れたところに、ひときわ立派な建物が。案内板を見ると先ほど訪ねた代官所の中門を移転したものらしい(ただし伝承)。説明文を読むと元々馬に乗ったままくぐれるほどの高さだったところ現在の高さに切り取られたということだ。
代官所門を過ぎた川岸に「平炉跡」という表示板が立つ。銀、銅を精錬する「炉」があったのだろう。
平炉跡のすぐ上流に「金山彦神社」への橋が架かる。
大同2(807)年建立の1200年以上の歴史を持つ古い神社らしい。
万物の中の「鉱」の守り神なのだろう。
拝殿横の石段を下り境内を通り抜けると野尻川を渡る小さな橋があるので、橋を渡って右へ。すぐに「青木間歩」への案内板が。小さな橋を渡って「間歩(まぶ)」へと進む。
「間歩」とは鉱石を採掘するための坑道のことだ。世界遺産に登録された島根県石見銀山にも残されている。「青木間歩」は、坑道の入り口周辺に薬草の「アオキ」が茂っていたことから名付けられたとか。
約60mほどの坑道が公開(午前9時から午後5時)されている。
今でも銀や銅の鉱脈が見られる。この坑道は、昭和に入って機械掘りされた坑道の跡らしい。
坑道入り口から遊歩道に沿って山手に上がったところに、かつての手掘りによる採掘跡が見られる。
川を渡って元の道に戻り少し上流に歩くと、川越しに「水抜通風穴跡」と呼ばれる穴が見える。
しばらく川沿いに歩いていくと、突然コンクリート工場の建物が現れるが、野尻川を渡ってすぐに左に上る道があるので左折する。昭和の時代まで採掘されていたので、結構立派な道が引かれている。
すぐに「日本鉱業多田銀山事務所跡」の案内板が。昭和48年まで銀、銅の採掘が行われていたが、今はわずかに石組みと石段の跡が残るだけだ。
さらに上っていくと「台所間歩」。大坂城の台所を賄うほどの銀、銅が産出されたことから、こう呼ばれるようになったらしい。内部は公開されていない。
途中にも名もない間歩が残されている。間歩の内部は、崩落の危険があったり、急に深い縦穴が掘られたりしているので決して中に入ってはいけない。
瓢箪間歩大露頭。通常、地中にある鉱脈がここでは地表に現れている。
最も奥にあるのが「瓢箪間歩」。豊臣秀吉の馬印である「千成瓢箪」を掲げることが許されたとか。
ここも入口は埋められており、中には入れない。
元の二叉まで戻り左折する。ここにも立派な屋敷があった。
しばらくすると家並みはとぎれる。
右に広い田園地帯が現れる。15世紀ころに開発された「村上新田」。里山風景が残されている。
村上新田の突き当たりには「村上中池」。堤の下では、一人のハイカーが弁当を広げていた。
これより山に入る。村上中池の向かって左に山への入口が。案内板に従って山に入る。
先ほど言ったように北摂の山には猪が多い。まさか熊が出ることはないが、今回、モンベルで買い求めた「熊よけ鈴」を携帯した。
前日の雨のせいか少々道がぬかるんでいたが、15分ほどで峠に着く。
峠の右側に山への踏み跡がある。標識はないが一本松山への道だろう。入ってみよう。
途中からシダ系の草で道が覆われている。人がやっとすれ違える程度の道だ。夏場であれば道は草で覆われているかもしれない。
途中、何の標識もなく15分ほどで突然山頂に到着した。一本松山頂、標高301m。
4等三角点が埋められていた。私は、あまり三角点に対する征服心はない。
元来た道を峠まで戻り右折する。
しばらく進むと、この後訪れる「道の駅(万善)」方向が見える。
分かれ道ごとに案内板があるので道に迷うことはない。
途中から川沿いの道に出るので川に沿って下る。喉が渇いたので給水したが、何気なく左を見ると何やら穴が。間歩跡だろう。本当に偶然だ。ここで給水しなければ見つけられなかっただろう。それとも誰かが呼び寄せたのだろうか。
そんなことを考えながら歩いているうちに道は35~6軒ほどのミニ開発住宅街で終わる。
住宅街を抜ける。
川を渡って右折すれば、すぐに道の駅に出る。「道の駅いながわ」だ。
地元で採れた野菜や地酒などが売られている。
猪名川町のマスコット「いなぼう」が迎えてくれる。
饂飩屋や焼きたてのパン屋さん、蕎麦屋などがある。時間は、午後2時、ちょっと遅いがここで昼食としよう。
あれほど遭遇を恐れていた猪であるが、食うとなれば別だ。しし肉うどん(1380円)を注文する。
道の駅を出て南(右)へ。すぐに猪肉専門の肉屋さんが、店の前には猪の剥製が。
そのまま道を進むと「こんなところに?」という感じで、何やら旅館街(と言っても2軒だが)のような雰囲気の一角に出る。
屏風岩だ。清流に高さ30メートル、幅100メートルの岩壁が屏風のようにそびえる。
温泉が湧くわけでもなく、ほかに名所旧跡があるわけでもなく、この風景だけでこの2軒の旅館が成り立っているのだからすごい。
屏風岩を過ぎるとすぐ右にお寺が現れる。浄土宗東光寺。
木喰明満上人が90歳で掘ったと伝えられ、一度拝めば安産に、二度拝めば母乳が出、三度拝めば乳児がすくすく育つという「子安観音」。その他にも13体の「木喰仏」が安置されている。
寺を過ぎると右には「鱒釣り場」。スポーツ新聞などでも紹介されている釣り堀だ。
その前には、バス停留所。ここは、病院の跡らしい。ちょっと夜にはバス待ちはできないだろうな。
左に消防団の火見櫓が見えてくる。奥には山への入口のように「高皇産神社」の鳥居が見える。
高皇産神(タカミムスビノカミ)とは、高天原に最初に現れた「造化三神」のうちの一柱。万物を創造した神である。
脇には、多くの神々が鎮座していた。
神社の前には小さな小屋が。左は赤灯があるので消防団庫だろう。右は背が高いので御神輿庫だろうか。
神社から元の道に戻り歩く。ここらは「北田原」の集落。
懐かしい農具庫。
道からそれて集落の中に入る。立派な旧家が残る。
田んぼ越しに先ほど頂上を極めた「一本松山」。円錐形の山で「猪名川富士」とも呼ばれる。
集落を抜けると旧道とバイパスが交わる二叉交差に出るが旧道を歩く。川を挟んで右にはバイパスが。
この道は、朝訪れた「静思館」に続く道で古い家が残る。
村の集会所と消防団庫。いい風景だ。
集落の中を阪急バスが走る。
ちょっとわかりづらいが、左に浄土真宗本願寺派圓行寺の境内に続く細い路地があるので境内に入る。
境内を通り抜け左に折れると霊園に出るので、その下の道を上っていく。小さな峠を越えると舗装道に出る。「やすらぎの径」というらしいが観光的な遊歩道ではなく、健康増進やリハビリのため猪名川町立の二つ福祉施設を結ぶ道だ。右に曲がる。
町立社会福祉会館前を右に折れると白壁が。
壁に沿って行くと「天森神社」に。
ここは、加賀白山神社と同じ「白山姫命」を祀る。立派な神社だ。
神社前には、県道バイパスが走るが、左折して旧道を歩く。
庚申さんを祀った三叉路を左に行けば「阿古谷」の集落を抜けて大阪府能勢につながるが真っ直ぐ進む。
消防本部の前で先ほどの県道バイパスと合流するので左折。高校と中学校の間の小さな峠を越えると「原」という三叉路に出る。
三叉路だが、左には集落に入る小さな道があるので左折する。すぐに観音堂が見える。手前の案内板を見ると、いろいろないわれがあるようだ。十一面観世音仏は、猪名川町の重要文化財に指定されているそうだが、観音堂は鍵が閉められていた。
集落と田畑の間の道を抜ける。古い石灯籠が。
畑では、正月用の「葉ボタン」の採り入れ。
土壁の塀を通り過ぎる。
再度、県道バイパスと合流。左折する。右には今日のゴール「日生中央駅」があるショッピングセンターが。
午後4時ちょうど。朝出発した「日生中央駅」に到着。今日の歩紀「28603歩」(24.59km)。