北ユーラシアの歴史
貂主の国
トゥーランドット再考
◆前回「荒川静香とツラン」の続き:
「トゥーランドット物語の起源」をよく読むと、「Tourandocte、またはPourandocte は
王妃の名前、ササン朝末期の王の一人であるKhosrov Perviz の娘」とあります。
この辺をもう少し追いかけてみましょう。
Khosrov Perviz、即ちホスロー2世パルヴィーズはササン朝ペルシア末期の
590年から628年にかけて在位した王でした。
ササン朝系図
この時期、ササン朝ペルシャはその最後の輝きを見せるかのようにビザンツ帝国に激しい攻勢をかけ
614年にはエルサレムを占領。以降シリア、エジプト、パレスティナを手中に収め、
617年にはついに帝都コンスタンティノープルに迫ります。
こうした情勢下、
「この時エルサレムからキリストが磔になったという「真なる十字架」を奪って持ち帰ったという。」
サーサーン朝@Wikipedia
といった事件が起きます。
その後情勢は逆転し、ビザンツ帝国に首都クテシフォン付近にまで攻め込まれてしまいます。
混乱の中、クーデターによりホスロー2世は息子のカワード2世により殺され、カワード2世自身も
まもなく病死。ササン朝は混沌の淵に沈みます。
この政治的錯綜状態の中、即位した王の一人がホスロー2世の娘、ボーラーンでした。
女帝ボーラーン
ボーラーンの名がトゥーランドットに変化していく過程は下記に簡潔にまとめられています。
「トゥーランドット」への長い道のり
後世にこうした形で名前が伝えられた必然性についてはよくわかりませんが。
この説が正しければツランとトゥーランドットとは手違いで混同されただけ、
無関係ということになりますね。
それにしてもキリストが張りつけにされたという「真なる十字架」、今どこにあるんでしょうか・・・
#北ユーラシアとは全く関係の無い話になってしまいました・・・
「トゥーランドット物語の起源」をよく読むと、「Tourandocte、またはPourandocte は
王妃の名前、ササン朝末期の王の一人であるKhosrov Perviz の娘」とあります。
この辺をもう少し追いかけてみましょう。
Khosrov Perviz、即ちホスロー2世パルヴィーズはササン朝ペルシア末期の
590年から628年にかけて在位した王でした。
ササン朝系図
この時期、ササン朝ペルシャはその最後の輝きを見せるかのようにビザンツ帝国に激しい攻勢をかけ
614年にはエルサレムを占領。以降シリア、エジプト、パレスティナを手中に収め、
617年にはついに帝都コンスタンティノープルに迫ります。
こうした情勢下、
「この時エルサレムからキリストが磔になったという「真なる十字架」を奪って持ち帰ったという。」
サーサーン朝@Wikipedia
といった事件が起きます。
その後情勢は逆転し、ビザンツ帝国に首都クテシフォン付近にまで攻め込まれてしまいます。
混乱の中、クーデターによりホスロー2世は息子のカワード2世により殺され、カワード2世自身も
まもなく病死。ササン朝は混沌の淵に沈みます。
この政治的錯綜状態の中、即位した王の一人がホスロー2世の娘、ボーラーンでした。
女帝ボーラーン
ボーラーンの名がトゥーランドットに変化していく過程は下記に簡潔にまとめられています。
「トゥーランドット」への長い道のり
後世にこうした形で名前が伝えられた必然性についてはよくわかりませんが。
この説が正しければツランとトゥーランドットとは手違いで混同されただけ、
無関係ということになりますね。
それにしてもキリストが張りつけにされたという「真なる十字架」、今どこにあるんでしょうか・・・
#北ユーラシアとは全く関係の無い話になってしまいました・・・
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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『ビザンツ帝国史』によると「真の十字架」は、630年にビザンツ帝国に奪還され、エルサレムに戻されました。アラブ軍がやってくると、637(638)年にコンスタンティノープルへと運ばれたみたいです。
リンク先のボーラーンの記録によればこの十字架はボーラーンが返したことになってますね。これをそのまま事実とするわけにはいかないですが、「返した」というからには背景が何かあるのかもしれませんね・・・
何分、南過ぎてよくわかりません(笑)
文字通りの地平線の彼方。