ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

ビールと読書好きだった原節子の引退の理由はやっぱり分からない

2010年08月18日 | 
 貴田庄・著「原節子 あるがままに生きて」(朝日文庫)を読む。原節子は、本名会田昌江、1920年(大正9年)生まれ、今年90歳ということになる。その消息は不明だが、死亡したとの記事も見られないから、まだ、元気だと思いたい。亡くなった僕の父は大正8年生まれなので、一つ違い。だから、生きる世界は違ってもほぼ同じような時代を生きてきた人としてその歩みは何となくイメージしやすい。この本は、42歳で銀幕を去り引退した伝説の女優の人生を、関わった人たちの証言や本人の言葉を紡いで再構成しようという試み。何しろ引退して半世紀近く、一切人を避けて暮らしているのだから、最近の証言を集めるわけにもいかないのだろう。週刊誌の「あの人はいま」的な盆暮の企画にときどき噂が散見されるが、その後の消息がさっぱり分からないのが伝説の女優たる所以といえば所以だが。

 さて、この伝説の女優の引退作品が「忠臣蔵」(1962年・稲垣浩監督)の大石の妻役というのはいささか寂しいものがある。とりわけ1950年代(1949年の「晩春」から始まるが)の、すなわち30代の原節子は、小津映画のヒロインとして出色だっただけに、もっといろいろな役を見たかった。個人的には「東京暮色」の暗さと、喪服姿が好きだけれど、今回この本を読むと、「晩春」「麦秋」「東京物語」の紀子3部作の紀子役が本人に最も近いのではないかと想像してみたのだった。映画は見ていても女優本人の人となりについては、あまり知らなかった。実際、その日本人離れした顔立ちから北欧系の血が入ったハーフだか、クウォーターらしいと言った母の言葉をずっと信じていたくらいなので、そういう事実はないということも含め、ビールと読書が好きだという原節子の入門として面白く読めたのだった。
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誤読も楽し。三島由紀夫「午後の曳航」は反米愛国小説?。

2010年08月17日 | 
 三島由紀夫「午後の曳航」を読む。中学生の子供をもつ未亡人が、偶然知り合った2等航海士の船員と恋に陥りやがて再婚する、という物語はよくあるラブストーリーだ。だが、その関係が中学生の一人息子が目をこらすのぞき穴の向こうの寝室で繰り広げられ、その少年の瞳に映じた物語として語られるとき、にわかにそれはスキャンダラスで背徳的な匂いを漂わせる。

 三島由紀夫の小説は、しばしば未亡人とマドロスの恋といったきわめて通俗的な物語の枠組みを借りながら、聖と俗、生と死について語る。「午後の曳航」では、予め堕落することを決定づけられた、大人になりたくない少年たちの生に対する復讐の営みと、母と船乗りの、とりわけ船乗りの堕落という大人の世界が対比的に描かれ、母親の再婚と船乗りの処刑という終末に向かって物語は加速していく。「午後の曳航」は、未亡人と船乗りの恋という通俗性と、13歳にして人生に絶望した少年たちの虚無と狂気を描く哲学が融合した実に完璧な物語だと思う。しかし、それは少年たちの性を隠ぺいすることで、歌謡ドラマの意匠の上に形而上学的な物語を構築することに成功したのだ。この物語は、少年たちの性を巧妙に回避することで、成り立っているのではないか。

 竜二と情交した翌朝店に出た母房子の官能と動揺を、倒れるパラソルできわめて映像的に描いてみせているのに、例えば少年登が、初めてのぞき穴から母の裸体を見たときの性的な興奮の証しは語られない。房子と船乗り竜二との情交についても、窓際に裸で佇む竜二の裸体が天に向かって屹立する一物をもったシルエットとして描かれることはあっても、それを覗き見る登の変化や性的興奮は素通りされる。母親と船乗りとの肉の交わりの音や喘ぎや咆哮を少年はどう感じたのだろうか。あるいは、登たち少年グループが猫を殺して、その腹を裂き、小さな心臓を引きずり出して手で握りつぶすときの官能や性的興奮。果たしてこの13歳の少年たちは、勃起したり射精することはなかったのだろうか。

 こうした殺生が性的な代替え行為であることは、酒鬼薔薇事件などの少年犯罪や連続少女殺しなどの犯罪でも語られている。「午後の曳航」の少年たちの処刑という行為が、その後起きる数多の少年による猟奇的犯罪や連続殺人などを予見していると述べるのは早計だろう。なぜなら、登たちの少年グループの行為は、性的な衝動とは無関係な形而上的な行為であって、大人になることを拒否するための、あるいは、大人になることを拒絶できない自らへの生に対する絶望と復讐という極めて観念的な営みとして描かれているからだ。

 だから、少年たちにとって本来、肉体の中身は空虚であるべきなのだが、処刑した猫の腹からは赤い臓物が飛び出す。そのことを少年たちがどうとらえたかが描かれていない。登が所属する優等生のグループは、堕落した海の男である竜二を処刑するためおびき出し、睡眠薬入りの紅茶を飲ませて、それぞれが持ち寄った刃物で、猫のように切り刻んで処刑することを暗示して物語は終わる。だが、猫がそうであったように、竜二の肉体も、腹を裂けば臓物が飛び出す生き物であり、決して肉の皮だけに包まれた空虚な伽藍堂ではないということを、どう理解するのだろうか。人間はただの糞袋だとでもいうのだろうか。

 それにしても、なぜ少年は13歳だったのか。小説では刑事罰を免れるからと暗示されるが、むしろ8月に読むと、マッカーサーが日本人は12歳並みだといった言葉を思い出す。外国航路の2等航海士竜二は進駐軍。輸入洋品店の母は外国人に国を売った日本人。堕落を憎む少年たちは、さながら12歳と揶揄された聖なるものを貴ぶ日本人と読めないか。すなわち、これは、反米愛国小説であると。誤読もまた楽しい。





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『マルガリータ』を読み、やはり天草四郎は千々石ミゲルの子と思いたい。

2010年08月09日 | 
 以前、若桑みどりさんの「クアトロ・ラガッツィ」を読んだとき、天正少年使節のうち唯一棄教した千々石ミゲルについて、天草の乱があったとき、天草四郎はミゲルの隠し子ではないかという噂が、天草や周辺のキリシタンが多くいた地域でまことしやかにささやかれたというエピソードが紹介されていて、もしそれが本当だったらおもしろいのにと思っていた。まるで、山田風太郎の世界ではないかと。

 新人の村木嵐・著『マルガリータ』は、そんな伝承を巧みに入れながら、千々石ミゲルの帰国後の人生を描いた小説だ。棄教したミゲルに関しては、他の3人の消息がイエズス会の記録に残っているのに対し、清左衛門となって結婚し、2人の子供をもうけ、大村や有馬に仕官していたというくらいしか分かっていない。ミゲルはなぜ棄教したのか。これは最大の謎だ。「クアトロ・ラガッツイ」でも、よく分からないとされている。この謎に挑みながら、「マルガリータ」は見事な愛の物語を紡ぎ、幼くしてローマを見た、キリシタン少年4人の心の絆の深さを描いている。

 問題は、ミゲルの棄教が、神への絶望や憎しみによるものだったのか。別の理由があるとすればそれは何が推測されるかということだ。

『マルガリータ』では、帰国後4人が秀吉と謁見したことでその後の運命が決まる。一般的には、秀吉との謁見で4人は、リュート、チェンバロなどの楽器を演奏して聞かせ、秀吉から仕官の勧めを受けるが断ったとされている。小説では、そこで何があったかは次第に明かにされるのだが、果たして天下人の勧誘をことわれたのかということは素朴な疑問として残ろう。この小説では次のような仮説を展開する。少年使節4人の目的は日本人の司祭になるということだ。出発前と違い、秀吉による禁教令と迫害の中で、いかにすればその目的を達成できるか。全員仕官の誘いを断れば、相手は天下人だ、何をするか分からない。ならば、ミゲル一人が棄教することで、他の3人が司祭になる道を残そうとしたというわけだ。一方の秀吉は、棄教者ミゲルほど反キリシタンの最良の広告塔はないと思ったはずだ。これはあり得る。だが、ミゲルは本当に信仰も棄てたのか。なぜミゲルだったかは、『マルガリータ』を読まれよ。

 天草の乱は1637年、中浦ジュリアンが長崎で逆さ吊りの刑にあって死んだのが1633年。ミゲルの死は不明だが、ジュリアンと同じ頃という説があり、この小説もそれを踏まえている。ミゲルは棄教者としてキリシタンからは悪魔扱いされたという。さながらルシファーのごとくである。天草四郎=ミゲルの隠し子説は、島原一体のキリシタンたちの3大天使を見るがごとき天正少年使節の少年たちへの強い憧れと表裏ではないだろうか。少年天草四郎のなかに、ローマを見た少年たちの伝説が蘇り、4人の少年のなかで唯一子供をもうけることができたミゲルへの屈折した期待(それは棄教者として迫害した己の所業への懺悔の念も含めて)が立ち上っても不思議ではないだろう。

 マカオへ追放になり、彼の地で司祭として生涯を終えた原マルチノの望郷、キリシタン拷問の中でも最も残酷といわれる逆さ吊りの刑で死んだ中浦ジュリアンの殉教、司祭として布教の途上で倒れた使節の正使・伊東マンショの無念、いずれも悲劇だが、千々石ミゲルの棄教ほど、想像力をかきたてられるものはない。「マルガリータ」を知った時、あっ、やられたと思った。すばらしい仮説が美しい物語として紡がれた。冒頭、清左衛門の妻珠の独白によってミゲルの子=天草四朗説は、年齢を理由に否定されるが、それでもミゲルの隠し子こそ天草四朗であると思いたい。
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映画にはない将軍たちの戦後が描かれているH.H.キルスト「将軍たちの夜」

2010年08月09日 | 
 ハンス・ヘルムート・キルスト著『将軍たちの夜』(角川文庫)を読む。この原作がなぜ今新訳なのか不明だが、そしてもちろん、これを原作としたアナトール・リトヴァク監督、ピーター・オトゥール主演の「将軍たちの夜」がよく知られており、原作を読めば読むほどタンツ将軍役はピーター・オトゥール以外にないと思ってしまうのだが、こちらも、つい「新訳」の惹句に釣られて読んでしまった。

 映画と小説との違い、小説では戦後の物語があるということが大きな違い。小説自体が戦後になって当時の事件を回想するという構成で、裁判記録だとか、当事者の回想録の抜粋やコメント、日記などがたびたび引用されるのだが、果たしてこういう手の込んだ手法が煩わしい。そうした意味で、映画は原作の無駄な部分を排除して実にうまくまとめている。さらにいえば、ここに登場するタンツを除く将軍たちがヒトラー暗殺計画、件の「ワルキューレ」にかかわっているというサブストーリーも邪魔といえば邪魔で、映画くらいあっさり扱った方がよかった。

 では、原作の面白さはどこにあるのか。あたかも、映画にはない、戦後のお話が本当はあったのですよということを喧伝するために、この新訳を出したのではないかと思われる終章の部分だ。将軍たちは、皆戦後も生き延びていたのだ。タンツに至っては東ドイツで軍事顧問をし、権勢をふるっている。この小説はここがポイントだ。うまく立ち回ったものは戦犯にもならず戦後も生きていたという点だ。そして、東ドイツの都市ドレスデンで、ワルシャワやパリと同じような娼婦殺人事件が起きる。ここからいかに犯人を追いつめるかが面白さだが、ひとまず、面白さは映画に軍配をあげよう。
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超混雑「オルセー美術館展」よりきっと楽しい「マン・レイ展」

2010年08月09日 | 絵画
 六本木の新国立美術館で開催されている「マン・レイ展 知られざる創作の秘密」を観てきた。夏休みの日曜日、同じ場所で「オルセー美術館展」も開催されていて、こちらは入場するのに45分~1時間待ちという状況。印象派好き日本人の長蛇の列を横目に見ながら、「マン・レイ展」の方は楽々入場、余裕で鑑賞できることの幸福感を味わったのだった。

 アンディ・ウォーホルがシルクスクリーンで著名人のポートレートを制作したとき、マン・レイのポートレート写真のことが頭にあったのではないだろうか。二人のアーチストの成功のきっかけはポートレートであったが、マン・レイは当時の先端技術である写真、しかもわれわれが、ついこの間まで写真プリントとして使っていたゼラチン・シルバー・プリント、いわゆる銀塩写真で制作していたという点で、先端技術とアートを融合させたモダンアートの先駆者なのだ。そもそも、絵画作品の記録のため写真を撮っていたのだから、写真で売れるようになっても本人は、あくまでも絵画がアートで、写真は生活の糧と思っていたらしい。1920年代のパリ、当時、カフェにたむろしていた数多の芸術家と接し、そのポートレートを撮るうちに、不本意かどうか分からないが、あれよあれよと第一線のカメラマンとして賞揚されてしまった。だが、生活の糧としての写真ではなく、偶然できたレイヨグラフなど新たな技術で絵画としての写真を追求し始める。マン・レイの加工写真は、写真のリアリズムを追求する人たちからは批判も受けただろうが、むしろ、今日の画像処理につながる写真の新たな可能性を開いた。結局、そして実際、マン・レイの作品は絵画より写真の方がはるかに魅力的だし、自身その技術の開発にも貪欲だった。

 今回の「マン・レイ展」では、代表作といわれる著名人のポートレートやヌード写真はあまり含まれていない。「恋人たち」の空中の唇は、写真として、さらに金のオブジェとなって再生産されている。これまでとは違った「マン・レイ」を紹介するのがねらいのようだ。実に多作の人だったことに驚く。マン・レイは、自ら作品をカード形式で記録しており、これらをもとに写真という複製技術を使って、かつての作品を再構築している。レイヨグラフ、ソラリゼーションなどの技法を駆使した前衛的な作品、晩年の伴侶となったジュリエット・ブラウナーをモデルとしたプライベートな写真、立体のオブジェ、自らデザインしたチェス盤と駒、スケッチ、下絵、油絵、さらに実験的な映画などなど、実に400点に及ぶ作品が展示されている。

 展示は、ニューヨーク、パリ、ロサンゼルス、パリと居住していた場所で4期に分けてその創作活動を紹介している。やはり、シュールレアリストたちとコラボしたパリ時代の作品は圧巻だ。1920年代のパリで活躍していたアーチストのほとんどをカメラに収めたといわれるが、その一瞬の表情をとらえる知性と技術はやはりしばらしい。ピカソ、マックス・エルンストらとのコラボ。なかでも、詩人ポール・エリュアールの詩と、その妻ヌッシュのヌードをマン・レイが撮影した写真とで構成された詩集が美しい。晩年に取り組んだポラロイド写真や独自の色彩定着技法によるカラーポジフィルムによる作品もあり、これらは本邦初公開だ。ジュリエット・グレコのポートレートは、マイルス・デイヴィスが惚れたというその魅力を十分伝えている。写真に関しては実に多彩な技法を試みており、前衛の名に恥じないし、独自の色彩定着方もカラープリントの退色を防ぐための方法だったというから、フォトアーチストの先駆者としての面目躍如だ。

 図録3,000円、青いハートのストラップを購入。見ごたえもあり楽しい展覧会だった。

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幼いころの記憶には日常や娯楽の風景の中に戦争があふれている。

2010年08月06日 | アフター・アワーズ
 毎年、8月15日が近づくと本屋の店頭に戦争関係の本が目立つようになる。日本で、かつての戦争について一番考えているのはもしかしたら本屋かもしれない。そんなわけで、僕もこの時期になると戦争について考えることが少なくない。

 小学生のころ、風邪で熱を出して寝込むと戦争の夢をよく見た。特攻でアメリカの軍艦にゼロ戦や回天で突っ込む夢、赤紙が来たと聞き、逃亡して憲兵に追いかけられる夢。これらの夢の映像のもとは、グロテスクな貸本漫画の戦争ものの絵だった。僕が生まれたのは、GHQの占領が終わった後、TV放送が始まった年なので、それまでGHQに禁止されていたチャンバラ映画、黄金バットのようなキャラクターが解禁され、「月光仮面」「赤胴鈴之助」などの漫画が流行った。貸本漫画では、戦記物の漫画があふれていた。家には田河水泡の漫画「のらくろ」が数冊あって、絵本がわりによく読んでいた。少年マガジン連載のちば・てつや「紫電改のタカ」を夢中で読んだのは10歳くらいだろうか。漫画、映画、TV、娯楽の中に戦争があふれていたのだった。

 家のアルバムを見ると、誰彼といわず必ず軍服を着た写真がある。飛行服を着た写真の人は特攻隊だったが出陣しないまま終戦になったという話だった。戦争未亡人から再婚した叔母(伯母)。叔母の家に遊びに行くと、近所に住む、戦死した前夫の実家にも連れて行かれた。小学校に上がった頃では、まだその関係がよく分からなかった。

 赤紙が来て逃げたらどうなるのと母に聞くと、銃殺されると脅された。それでも戦争に行くのは嫌だと思った。どこまで逃げれば銃殺されずに済むだろうと、奥秩父山中での逃亡生活を思い描いたことがあった。母の話では、徴兵を拒否して逃亡してきた男が山狩りで捕まったことがあったという。

 僕の田舎では、終戦間際のある日グラマンが一機飛んできて、機銃掃射をし、町の人が一人亡くなったという話を聞いたことがある。もしかしたらほかの町の話かもしれないが、もう少しで戦争が終わったのにと、幼いながら空しさを感じたことがあった。

 昭和30年代、小学生のころ、田舎の冬祭りに来る見世物小屋には、蛇女などと一緒に原爆で被害を受けたというふれ込みの人が体を晒していた。まだ、そんな時代だった。

 こんなことを思い出していると切がない。でも、今度のお盆では母に昔の話をきいておこう。

 今日は、広島の原爆記念日。僕の母は、昭和20年、18歳の夏、姉を訪ねて広島へ旅行する予定があったという。義兄が広島の高等師範で教員をしていた関係だが、直前に金沢に転勤になったので、その計画は中止になったらしい。もっとも金沢も広島や長崎と並び、原爆投下の有力候補地だったらしいが。もし、転勤せずにいたら母も被爆していたかもしれないと話していた。もし、そうだったら僕も生まれていなかったかもしれない。幸い僕は生まれ、母はまだ元気でいる。
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