李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【  漱石の雲雀  「日本」 という 世間を詠う 】   仁目子

2022-05-18 16:31:40 | Weblog
     ーー  前を見ては、後(しりえ) を見ては、
           物欲しと、あこがるるかなわれ  --

今から109 年前の西暦1906年 に、出版された「草枕」の、非人情の旅の始めに、漱石は、シェレーの雲雀の詩を引き出している。

     We look before and after   
      And pine for what is not:  
      Our sincerest laughter    
      With some pain is fraught;
      Our sweetest songs are those
      that tell of saddest thought.


   「 前をみては、後(しりえ) を見ては、
      物欲しと、あこがるるかなわれ。
      腹からの、笑といえど、
      苦しみの、そこにあるべし。
      うつくしき、極みの歌に、悲しさの、
      極みの想い、籠るとぞ知れ 」


シェレーの「雲雀に寄せる」( To the skylark ) 詩は、全文二十一首の長篇詩だが、漱石が思い出したのは、そのうちの第十八首だけである。この第十八首の邦訳は、通常、分かり易いように、次のように訳されている。

     前をみたり後ろを見たりして
      我々はないものを探し求める
      心から笑っているときも
      我々は不安から逃れられない
      どんなにやさしい歌の中にも
      悲しい思いが潜んでいる

この二つの訳を較べてみれば、意味は同じでも、漱石の方が凝っていて、より文学的である事に気が付く。


『 春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒さめる。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然(はんぜん) する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。

たちまちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ暗誦して見たが、覚えているところは二三句しかなかった。その二三句のなかにこんなのがある 』

という前口上を述べて、漱石は、シェレーの雲雀を引出したわけだが、『口のうちで覚えたところだけ暗誦して見たが、覚えているところは二三句しかなかった。その二三句のなかにこんなのがある』と言いながら、実際に引用したのは、二三句ではなしに、第十八首全文の五句を、一字の洩れ無く書き出している。


長年、漱石作品に親しんで来た感覚から、これは、漱石の単なる思い付きの暗誦ではなしに、彼が、この第十八首に、何らかの「文明批評」の意味を含ませ、独特の「当たり障りのない」ような調子で、意識的に「思い出して」書いたもの、であるという気がしてならない。

「漱石」という、日本稀代の文豪は、単に文豪であるのみならず、「文明批評家」としても一流である事は、「猫」という作品で、遺憾なく立証されている。

日本に、漱石という作家が居なかったなら、列島の文学はずっと「侘しい」ものであったのだろう。その意味で、漱石の「国に対する」貢献度は非凡である。

その貢献度は、彼が国を愛(いと) しく思うだけでなく、国の弱点に対して、忌憚なく「苦言」を敢えて述べる勇気、或いは、強い個性 (カリスマ) がある所に、その「非凡」な特質を見る事が出来る。


明治以降の「強国」政策で、流行り言葉となった「大和魂」を、彼は、「猫」を借りて、それは「天狗の類か?」と決め付けたのは、時代が時代だけに、誰にも出来る事ではない。又、有名な「皮相上滑り」の近代日本開化論は、百年後の今日に至るも、列島の有識者に良く引用されている。

作品「三四郎」の中に、次のような一節がある;

『 熊本の田舎から東京大学に入学することになった三四郎は、その東京に向かう汽車の中で広田先生という一風変わった人物に出くわす。広田先生はこれから東海道線の車窓から眺められるはずの富士を話題にして、次のように煙に巻く。

   「あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」 』

このように三四郎を煙に巻いた広田先生は、即ち漱石だから、漱石という人物が「狭い島国」には珍しい、如何にゆとりのある、幅広い気質を備えて居る人物であるかということが分かる。


明治日本の開化は、俗っぽい言い方で譬えるなら、「田舎者」が、ある日突然艶やかな美人「西洋」に邂逅し、すっかり気を呑まれてしまい、しゃにむに「西洋」を追求し始めたようなもので、表面的な真似ごとに終る場合が多かった。それは、昨今の「茶髪」染めの流行りを見れば良く分かる。

このような真似事は、何も「明治」に始まったものではない。

飛鳥時代から平安朝末にかけての期間に、日本は言葉のみならず、宗教も、建築も、哲学、美術、文学、算法、法律、さては政府機構に至るまで、お隣の唐土の事物をとりいれ、そのうち、われも「中華」なり、と自負していた。

明治に到り、西洋摸倣に切り換えたのは、中華という古典美人に厭きて、西洋という近代美人に魅力を感じたからに他ならない。

正しく、「前を見ては、後( しりえ) を見ては、物欲しとあこがるるかなわれ」である。

「前をみたり後ろを見たりして我々はないものを探し求める」の「我々」とは、単なる一羽の雲雀ではなしに、日本という原生文化に乏しい国の歴史的宿命を言い表しているのではなかろうか。

「日本」の歴史は、3000 年、2600 年、2000 年などと、時代によって、異なる説が過去にあったが、今は、「記紀」を基点として、1300 年というのが通説になっているようである。

米国独立後の歴史は僅か二百数十年で、英国の殖民地時代を入れても四百余年にしかならない。

それに比べると、1300 年というのは、結構長い歴史である。

所が、歴史の短い米国に「I d e n t i t y」の問題が無いのに、六倍以上の長い歴史を有する日本は未だに「I d e n t i t y」が問題になっており、「日本人は何処から来た」、「日本は何処へ行く」、などのような論議、書籍が後を断たない。

「I d e n t i t y」は日本で、原語を使わずに、「アイデンティティ」というカタカナで表示している。元々、英語の I d e n t i t y とは、〔人やものの〕正体、身元、身分証明という意味ではっきりしているが、カタカナの「アイデンティティー」に変わった途端に、意味がすっきりしないようになり、「東洋でもなければ、西洋でもない日本」、しからば、「日本とは何か?」というのが、列島でのカタカナ「アイデンテイテイ」の模索対象になっているわけだが、詰めて言うと、「皮相上滑り」の開化がもたらした「迷い」という後遺症である。

漱石は、シェレーの雲雀の詩を思い出し引き出して暗誦した後に、次のような感想を述べている;

『 なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳わけには行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛の愁いなどと云う字がある。詩人だから万斛で素人なら一合で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲しみも多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ 』

この一節の中の、「詩人」を「文明開化」に書き換えると、一心不乱に前後を忘却して進めた「明治の開化」は、形ばかりの「一等国」になった喜びをもたらしたが、同時に、無量の「迷い」を今日の列島にもたらした事を意味するものだということが言える。


作品「それから」で、無職で、家を構え、書生と、おばあさんをおいて暮らしている 30歳の長井代助と友人平岡との会話を借りて、漱石は、痛烈な「日本批判」を述べている。

『「何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の仲が悪いのだ。もつと大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。

第一、日本程借金を拵らへて、貧乏震ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許(ばか)りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。

さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ 』


このような批判を含め、漱石作品を通じて、彼の「文明に対する思考形態」を辿ってみると、彼が、シェレー二十一首の詩から、第十八首を、特に選んで「思い出した」のは、日本の「何でも欲しがる」習癖によって生じる「文化の迷い」を、雲雀の歌に寄せて書いたものだというふうに読めるのではないか、と思う。

雲雀は、歌に託して喜怒哀楽を表現する事は勿論出来ない。だとすれば、シェレーが「雲雀に寄せる」詩を作ったのは、そして、漱石がその詩を引用したのも、「雲雀の擬人化」、つまり、雲雀を人間に見立てて書いたものであるのはほぼ間違いないと言える。

なぜならば、

    We look before and after
     And pine for what is not:

    前をみては、後(しりえ) を見ては、
     物欲しと、あこがるるかなわれ。

は、感情動物の人間だけが独占する「情緒」だからである。そして、シェレーの原文

 We look before and after

主語が「We」、つまり「我ら」で始まっている。従い、漱石訳文

     物欲しと、あこがるるかなわれ

の「われ」は、一人称複数の「我ら」に解するのが正しい事になる。明らかに、シェレーの雲雀は、自分を歌っているのではなく、「世間」を歌っている事が分かる。

漱石に取っての「世間」というのは、「日本」に他ならない。

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