李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【 「 李白 と 南京 」 を 考える 】   (下)  

2013-10-12 19:23:14 | Weblog

                 ーー  歴史見方  ーー

 

『抜粋』

日本国の将来にとっての大きな問題は、家の外でも抑制があ

り、家のなかでも単に従順ではない個人を、いかにして育て

か、ということに係っている。その「いかにして」は、ま

に、自国の歴史をつき離して客観的に評価し且つ批判する

知的誠実さから、始めるほかはないだろう。

文化的成熟とは、みずからを批判し、みずからを笑うことの

る能力である。徳川時代の狂歌師にはそれがあった。い

つの世の中でも、大真面目の自慢話ほど、幼稚で、愚劣で、

しかも危険なものはない。

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『本文』     

 

加藤周一、と云えば、日本の「知性」の代表として、世界に広く知られた人である。

1986年に、氏は「歴史としての20世紀を語る」という著書を出している。その中で、加藤氏は、「歴史見方」について、下記のように、語っていた。

 

 みずから成功を称え、失敗を隠す。善事を誇張し、悪事をご まかす。これは自慢話である。自慢話の用途は多く、世に広く行われて久しい。たとえば商品の売りこみであり、政治家の、殊に選挙前の、演説である。しかし一国の歴史の叙述を自慢話に還元しようとするのは、その国の文化の未熟さを示す。

不幸にして文部省による学校教科書の検閲には、その傾向が著しい。軍国日本の大きな政治的失敗は、中国侵略であったが、それを「進出」といいつくろって、中国政府から抗議された。悪事の際立ったものは、日本軍の残虐行為であったが、それをあいまいにしようとして、再び中国側から警告された。

日本軍の残虐行為の集中的表現は、いわゆる「南京虐殺」である。1937年、激戦の後、上海を抜いた日本軍は、はじめの「不拡大方針」を変更して、そのまま南京へ向かい、南京を占領した。それと同時に、多数の捕虜と中国人の非戦闘員、女や子供を含めての市民を、南京市の内外で虐殺したのである。

この事件は、戦時中の日本では報道されず、大部分の日本人は知らなかったが、被害者の中国人はもとより世界中の多くの人々は知っていた。

虐殺が行われたか、行われなかったかは、問題とするに足らない(それが行われたとする当事者の証言は、十分に多い)。被害者の数については異説がある。南京市文史資料研究会編の『証言 南京大虐殺』(日本語訳)によれば、「三十余万」、それよりも早く大戦後の戦争裁判法廷によれば、「二十万以上」である。

 

最近私は三人の著名なジャーナリストの回想録を読んだ。すなわちエドガー・スノウ『抗日解放の中国』(サイマル出版会、1986。原題Edgar Snow's China , ed. by Lois Wheeler Snow)、松本重治(聞き手・国弘正雄)『昭和史への一証言』(毎日新聞社、1986)、ロベール・ギラン『極東』(Robert Guillain , Orient Extreme , Une Vie en Asie , Le Seuil ,1986)である。

いずれも「南京虐殺」に触れる。『中国の赤い星』の著者スノウは、中国側からみて、「日本軍は南京だけで42000人以上の中国人を殺害したが、そのかなりが女子供であった」といい、1937年当時同盟通信社の上海支局長で、占領の五日後に南京に入った松本重治氏は、日本側からみて、捕虜と一般市民を併せた犠牲者の数を、「三万人ぐらい」と推定している。ギラン氏は、数の推定はしていない。しかし残虐行為の存在については、三人のうちの誰も疑っていない。

犠牲者の正確な数を知ることは、おそらく不可能であり、それを議論することには、あまり意味がないだろう。しかしその規模について、虐殺が数百人程度のことか、万あるいは十万単位のことか、およその推定には意味がある。エドガー・スノウが故意に犠牲者の数を低く見積もる理由は考えられず、松本重治氏が故意に高く見積もる可能性も考えられない。両者が万を以って数えているとすれば、虐殺の規模を「少なくとも数万」として大過あるまい。これは戦闘の目的を離れた「大量殺人」である。

かくして日本人が、過去において、大した悪事を働かなかったという話は、中国人はもとより、どういう外国人に対しても全く説得的でないだろう。そればかりでなく、その話を聞く側の関心は、過去の誤りに対して現在の日本人がどういう態度をとるか、ということである。誤りを隠し、ごまかし、いいつくろう態度から、彼らがどういう結論を抽きだすかは、政府の公式抗議があろうとなかろうと、あまりにもあきらかである。立場を換えて、たとえばヴィエトナム戦争当時、われわれ外国人が米国に対する敬意を失わなかったのは、ヴィエトナム戦争を弁護する米国人の議論に説得されたからではなく、自国の戦争を批判する米国人の存在に、米国の文化の成熟をみたからである。

逆に米国人が日本の文化に敬意をもつとすれば、日本国では何もかもめでたい、という話に説得されるからではなく、自国の侵略戦争をそういうものとして直視し、弾劾し、そこから教訓を抽きだそうとする日本人の存在によってのみであろう。

日本国内で、中学生や高校生に、日本国の過去には何も悪いことがなかったという話を聞かせたら、「愛国心」の涵養に役立つだろうか。彼らに対してもそういう話が説得的であるかどうかは、大いに疑わしい。もし彼らがそう簡単にだまされぬとすれば、必ずや学校に対する不信感を強める効果しかないだろう。もし彼らがその話を真に受けるとすれば、「愛国心」の涵養に役立つかもしれない。しかしその「愛国心」は、事実をふまえず、批判精神を媒介としない盲目的な感情にすぎないだろう。盲目的「愛国心」が、国をどこへ導いてゆくかは、軍国日本の近い歴史が教える通りではなかろうか。

私は昔フランスに住んでいた頃、同じ事件を、政治的傾向を異にする新聞が、いかに異なって報道するか、例を示して高校生に教えている教師に出会ったことがある。その教師は、どれが正しいかを教えず、どれが正しいかを生徒自ら『考える』ことを、教えていた。けだし盲目的「愛国心」の涵養は、考えるための教育の反対物であり、つまるところ愚民政策の一つの形式にすぎない。

ギラン氏は、その回想録のなかで、中国における日本兵の残虐さに触れ、「日本の外で、敵に対しては、すべてが許されていたのだ」と書き、16世紀のキリスト教宣教師が日本人を定義した「家の外では虎、家のなかでは羊」という言葉を引いている。「20世紀のまっただ中でも、その定義は正しかった」と。

ヨーロッパのジャーナリストのなかで、ギラン氏ほどの親日家はおそらく少ない。そのギラン氏にして、この言あり。

日本国の将来にとっての大きな問題は、家の外でも抑制があり、家のなかでも単に従順ではない個人を、いかにして育てるか、ということに係っている。その「いかにして」は、まさに、自国の歴史をつき離して客観的に評価し且つ批判する知的誠実さから、始めるほかはないだろう。

文化的成熟とは、みずからを批判し、みずからを笑うことのできる能力である。徳川時代の狂歌師にはそれがあった。いつの世の中でも、大真面目の自慢話ほど、幼稚で、愚劣で、しかも危険なものはない。》》

 

 

さすがに、国際的な知識人として認められている 加藤氏の言である。真に国を愛する人とは、この人の事であろう。

 

南京虐殺に限らず、物事の真実を究めようとする「論議」はあって然るべき事であるが、ただ、論議の為にする論議では、感情的な「欝憤晴らし」に走る場合が多く、然程の意味を成さない。

近年に始まった、列島に於ける南京虐殺論議に、そのような傾向が強く感じられる。一介の、平凡ではあるが、常識のある市井人、そして、又、昭和ヒトケタ生まれで先の戦争を体験した者の角度から、南京事件について、書き残しておきたいという考えのもとに、本文を書いたもので、心ある人の、なにがしかの参考になれば、幸いだと思う。


【 「 李白 と 南京 」 を 考える 】   (中)  

2013-10-12 19:04:12 | Weblog

    ーー  論 争 は 変 質 の 手 段  ーー

 

近年になって、「虐殺三十万人だと言うのは、中国が今になって数字をデッチ上げたものである」と言って反論する声が列島で聞こえて来るようになった。可笑しいと思はないのだろうか。既に、数十年前から、日本のサンケイ新聞にも、「三十万か、四十万か」という数字は出ていたのである。

私は、この数字が正しいと言うのではない。如何に、今日の反論者の論理が貧弱であるかを指摘しているだけである。

 

井上  ( 19132001) と言えば、元京大教授、日本歴史の泰斗として、知らない人は居ないであろう。

井上教授に岩波書店発行、「日本の歴史上、中、下」三巻からなる有名な著書がある。その下巻に「大日本帝国の時代」が入っている。

この下巻は、一九六六年六月に初版発行され、一九九○三月でもって、第三十八刷の発行を見た、売行きの好い「日本歴史」の名著である。

そのページ 192 から 193 にかけて、日中の全面戦争に触れ、その中で、「南京事件」については、次のように書いてあった。

 

《 増援部隊が到着した七月二日、日本軍は北京、天津地区で総攻撃を開始し、翌日にはそこを占領した。八月十三日、日本海軍は上海でも戦闘を挑発した。十五日政府は、「支那軍の暴戻を膺懲する」と宣言、華中へも陸軍大部隊の派遺を決定し、全面戦争にふみきった。

年末までに、日本は当時の陸軍全兵力の三分の二に当る十六師団を中国に投入し、華北の要地と上海、杭州、南京を占領した。南京入城のさいには、日本軍は男女二十数万人を虐殺した。「重大決意」を示して一撃を加えれば、中国の抗日はやまるだろうという、軍部や政府の考えは、あまりにもあさはかであった。》

 

一九一三年に生まれ、二○○一年に八十七歳で亡くなった井上教授は、戦前、戦中、戦後と日本の現代史を自分の眼で実際に見証( 検証 ) した歴史学者である。教授の著作資料は、直接入手の資料であって、巷間の本や言い伝えに頼るものでは無かった。

南京虐殺に関する叙述の最後を、井上教授は、「軍部や政府の考えは、あまりにもあさはかであった」と締めくくっていた。

 

以上で、私の知る列島で伝えられている「南京事件」に関する数字を三つ挙げた。

一つは、戦後間もない連合国の「東京裁判」判決;それには、被虐殺者少なくとも二十万人以上と出ている。

二つは、一九四七年に始まったサンケイ新聞の連載「蒋介石秘録」;そこには、既に、三十万人とも四十万人ともいわれている数字が出ていた。

三つは、一九六六年に発行された、京大井上教授の「日本の歴史下巻」;それに、日本軍は男女二十数万人を虐殺した、と記載されている。

このような数字の例を挙げて、これを根拠にして、実際に何人殺したのか、という事を論じようとするつもりは、私は毛頭ない。

これらの数字例を挙げたのは、「三十万というのは、最近になって、中国がウソ偽りをついて増やした数字である」という、今時の日本に於ける反論者の言い分が、必ずしも事実ではない、貧弱な論点である事を指摘したいが為である。

今一つの動機は、以上挙げた三つの例は、全て、日本の新聞、書籍や東京裁判に、終戦直後から一九七○年代の半ば以前に、日本で発表されたものであるのに、その時分に於いて、それらに対する反論はずっと一切されていなかった。何故か、という事を考えて貰う為である。

 

ともかく、戦後、国際間に於いても、はたまた日本に於いても、虐殺の数、二、三十万人というのは、当時の「常識」であった。それが、八○年代に入ったあとに、一部の若手国粋論客により、急に突然思い出したように、「中国捏造論」が主張し始められるようになった。

しかも、その論拠は、実際の数字の裏付が新たに見付かった訳でもなく、ただ、「中国人は『白髪三千丈』の国柄で、物事を大げさに誇張する習性がある」という論旨の主軸にして、否定論を展開している。

李白を引き出して、南京事件の是非を論じる。ちぐはぐもよい所ではないだろうか。

 

列島の民は、兎角エライ人には昔から頭が上がらず、また、上げられないように、昔からよく躾けられているから、ある日突然、人間が神様に成った、と騙されても、「ハイハイ」と言って、素直に騙される人の多い国である。

その素直さを利用して、虐殺否定論者は可笑しな理屈を展開しているようだが、僅か、六十年余り前に、迂闊にも人間を神様と信じて、嫌という程酷い目に遭わされた列島庶民の子孫達は、昔ほど素直ではないから、多くの人は、その裏表を見抜く事ができる筈だし、況して、そのような姑息な手段で、国際社会の洗脳が出来ると、仮にも思うのであれば、これはもう救いようの無い「幼稚さ」だと結論付ける以外には、外に説明の仕様はない。

 

 「南京の人口は二十万しか無かったのに、三十万虐殺とは真っ赤なウソ」だという反論がある、もっとひどいのになると、「南京は人口三万しかないのに、三十万虐殺は真っ赤な嘘」だという反論もある。もしそれが事実なら、東京裁判の「少なくとも二十万人以上虐殺された」という判決は、盲人の裁判に等しい。尚且つ、日本政府はこの東京裁判の結果をサンフランシスコ条約で受け入れたのである。つまり日本政府は公式に承認したということである。ならば、日本の政府は盲人よりも一段と低い「幼児」並みの頭脳しか持って居なかった事になる。そうであろうか?

南京は、当時の中国の首都であった。当時、四、五億という厖大な人口を有する国の首都の人口が「二十万しか無かった」、或いは、「三万しか無かった」という主張を、そのまま鵜呑みにする人は、戦時中、「大本営発表」の豪華版戦果に、相次ぐ提灯行列に浮かれていたのと、殆んど違いはない。

 

戦時南京にどくらいの人口があったのか、中国人の言う事は全く信用出来ないと思う人達の為に、当時の南京の人口の実体に関する、大谷 猛夫という日本人の手による資料をついでに引用しておく。

 

《 南京市は「城区」(市部)と「近郊区」(県部)にわかれる。城区に限っても1937年11月23日(日本軍制圧直前)に南京市政府が作った文書には人口約50万人となっている。さらにこの後、避難民の流入もあり、日本軍に包囲された中国軍の兵士も15万人いた。

戦前、城区の人口は約100万人、近郊区の人口は約130万人という数字がでている。》

 

このような数字がちゃんと日本側の記録に残っている。それが、違うというのなら、反論の対象は、中国ではなしに、先ず日本に残っている記録から始めるべきであろう。

その次に反論すべき対象は、日本の、戦中の新聞、政府の戦果発表、教科書、終戦直後の「一億総懺悔」の記録内容、教科書、歴史書、更に、東京裁判の記録、などなど、、、日本人はそれらによって、始めて「南京虐殺」の実態を知ったのであって、中国側が慰霊塔を建てたから初めて知ったのではない。

 

それらの日本側記録、且つ、世界に広く知られている貴重な資料を抹殺しない限り、幾ら、大声で中国のデッチ上げだと騒いだ所で、アウシュビッツ原爆投下の「歴史の事実」と同様に、口先だけで叫(わめ) いて消し去る事が出来る筈もない。

 

前文 ( ) の冒頭で引用した質問投稿で、質問者は開口一番中学、高校と、日本軍が南京で大虐殺を行ったと習ってきた」と言明している通り、南京虐殺を日本人が初めて知ったのは、戦争を体験した自分の父兄や祖父などの口から、政府の戦時報道、戦後の厖大な数の戦記出版物、などからである。

 

南京に千古の汚点を残したのは戦時の一部少数の日本人である。それを自分の同胞に「戦果」として、真っ先に知らせたのも日本人である彼等である。

六、七十余年後の今日に至り、突然、李白の詩句「白髪三千丈」を借りて、全てを被害者側の中国人の「ウソ付き」として、擦( なす) り付けようとする。

 

李白の詩を愛する者として、「白髪三千丈」の風雅な詩句を、南京虐殺否定の論拠として悪用されるいるのを、目にして知らないふりをする訳にいかない。それで、この記事を書いた次第。

( 重ねて言うが、真偽を論じるつもりは毛頭ない、その必要はない、と思うからである)


【 「 李白  と  南京 」 を 考える 】   (上)

2013-10-12 18:22:30 | Weblog

        ーー   序   ーー

 

衆知のように、本来、なんの係わりもない筈の李白の詩句「白髪三千丈」が、列島で、頻繁に南京虐殺論争に引き出されている。

試しに、ウエブで、「李白と南京虐殺」を検索してみたら、何と、223000 件もあった。

南京事件論争そのもの記事が302000 件だったのに、李白を抱き込んだ記事が 223000 件もあるとは、如何にも多い。極論すると、唐土に、李白という詩人がもし居なかったなら、列島に於ける事件有無の論争も、一寸成立ち難いのではないか、と云えなくもない。

その 223000 筆頭記事が、Yahoo ブログ『「李白と南京」前篇』で、二番記事がその続きの『「李白南京」後篇』となっている。

この二つのブログは , 筆者が、二○○七年のYahoo ブログ「閑談白髪三千丈」で発表したもので、既に六年の月日が経った。

その間、筆者は 新たに、goo ブログで「李白白髪」を作ったので、この際、当該記事を「閑談白髪三千丈」から「李白白髪」に移す事に決めた。

当該記事の内容は「南京事件」に関するものだが、敬愛する李白を事件に巻き込まないように、筆者は、議論や論争から一歩離れ、傍観者の立場で具体的な資料を元にして、事件のありのままの姿を述べる事に終始しようとするものである。

 

又、今回の引っ越しに当たり、本文の題名、内容構成、にある程度の修正を加え、不足を補うこととした。

 

 

   ーー    推移 すなわち 変質  ーー

 

「南京虐殺」、あった、なかった、あったが死者数、数千から数万、中国が云う三十万はデッチあげ、などなど、この所、列島で「韓流」並みの論議が賑わっているが、記紀邪馬台国の論争を思わせるような、雰囲気であり、例によって、論旨、論点、論拠、の内容は、十人十色である。

その中で、中国捏造論の主張に、「白髪三千丈」という詩句を論拠に挙げているのがやたら多く目につく。このブログは「李白の白髪」を主題にした記事なので、今回は、これについて考えてみようと思う。

 

『南京゛大虐殺゛の本』という題目で、ウエブに次のような質問を出した人が居た。

 

<<  中学、高校と、日本軍が南京で大虐殺を行ったと習ってきたので、最近までそれを「史実」だと思ってきたのですが、産経新聞を読み、初めて疑問を持ちました。

とっかかりが産経新聞だったので、正論や小林よしのりさんらの著作など、左寄りのものを多く読みましたが、それらを読めば、大虐殺肯定派の論拠はことごとく破綻しています。肯定派の著作物も読んで、自分なりに考えをまとめたいのですが、論破されてないものがないぐらいなので、何を読めばいいか悩みます。ここ数年で出版された肯定派の本、または、大虐殺肯定派と否定派の対談集みたいなものってないでしょうか? >>

 

 

質問期日は、二○○五年五月だが、一寸面白いので、取り上げてみる事にした。

何が面白いのかと言うと、この人は、「中学、高校と、日本軍が南京で大虐殺を行ったと習ってきた」「最近まで『史実』だと思ってきた」とはっきり言っているのに、産経新聞という、僅か一つの媒体による報道で、疑問を持ち始めた点です。面白い質問だが、考えさせられる質問でもあった。

 

南京虐殺は、先の侵略戦争の主役を演じた明治や大正生まれなど、戦争を起こし、参与した世代の残した「汚点」である。戦時中、国の媒体はそれを「戦果」として宣伝さえした。明治は勿論、大正生まれが殆んど居なくなった今となっては、先の戦争を知っているのは、残り少ない昭和ヒトケタ生まれのみである。

南京虐殺の否定は、近年に至り、若手世代の論客によって火が付けられた。彼等は昭和世代であるけれども、戦後生まれだから、昭和年代の初め頃に起きた戦争の体験者ではなく、勿論、戦時の事もよく知らない。

その昭和世代である彼等の中で、評論関係に携わっている者が、

<< 「明治大正世代が残した『汚点』は、昭和年代の『汚点』として残る。

戦争を知らない我々が、この『汚点』を背負う必要はない。だから、何とかして、この『汚点』を消すように頑張ろうではないか」 >>

 

と、ある雑誌座談会で意気投合して論じていたのを、誌上で読んだ事がある。

先代の残した負債を、過ちの無い後代に責任を負わせるのはおかしい。これは、分からない話ではない。

だが、現実に『汚点』はあるから、それを消すという事は、国を愛するが為だと言うより、単に、「臭いものに蓋をしよう」とするだけの事に等しい。また、事実、その程度の事しか出来ないのが現実である。

にも拘らず、それでもって、「臭いものが消えて無くなる」という願望思考( wishful thinking ) の元に、論争や洗脳を繰り返している訳だが、勿論、無くなる訳はない。出来る事は、ただ、その「臭いもの」を自分や他人の目に見えないようにする、ただ、それだけである。太陽がまぶしいからと手でさえぎったとして、それで、太陽の存在が消えるというものではあるまい。

 

冒頭の質問者が、「中学、高校と、日本軍が南京で大虐殺を行ったと習ってきた」というのは、日本という国で習ったものである。それに基づいて、「最近まで『史実』だと思ってきた」。それは、戦後からずっと近年まで、数十年間、殆んどの日本人が、そして国際的に、事実あったものだとして認識されて来た事なのです。それを、質問者は、産経新聞という、僅か一つの媒体による報道で、疑問を持ち始めたと言う。

 

ここで、振り返って終戦間もない頃のサンケイ新聞を見てみる。

昭和四十九年八月十五日からサンケイ新聞で連載開始した『蒋介石秘録』という記事がある。その記事は、後日単行本となって、昭和50 228日から 52430日にかけ、十五巻に分け、サンケイ新聞社より発行された。

その第十二巻「日中全面戦争」の第一章十二節に南京事件が出ている。見出しは『南京大虐殺の悲劇』となっており、「全世界を震え上がらせた蛮行」という小見出しで、次のように書かれていた。

 

<日本軍はまず、撤退が間に合わなかった中国軍部隊を武装解除したあと、長江 ( 揚子江) 岸に整列させ、これに機銃掃射を浴びせてみな殺しにした。虐殺の対象は軍隊だけではなく、一般の婦女子にも及んだ。金陵女子大学内に設置された国際難民委員会の婦女収容所にいた七千余人の婦人が、大型トラックで運び出され、暴行のあと、殺害された。

日本将校二人が、百人斬り、百五十人斬りを競い合ったというニュースが、日本の新聞に大きく報道された .  >>     (後略

 

この一巻のカバー裏に、当時の明大教授 吉田忠雄の寸評が載っていたので、ついでに要約して下記する。

<本巻は日中戦争の悲劇を、被侵略者の側から明らかにした証言である。淡々とした文章で描かれているだけに、日本人として胸痛む思いである。( 中略 )

だが、ここで叙述されている南京大虐殺ほど胸痛むものはない。" 、、、刑 " " 、、、の刑 " 、、、などなどと呼ばれた眼をおおう残虐行為が記るされている。本シリーズのクライマックスともいえる、必読の一巻である  >>

 

サンケイの本が発行された昭和五十年、既に、明大教授であった吉田忠雄氏は、勿論戦時をよく知っている世代に入る。

もし、南京虐殺が全くの事実無根であるなら、教授は、何故胸が痛む。被侵略側の証言であるにせよ、有ると知っているから、これほど胸痛むものはないと言い、必読の一巻であると推薦しているのでは無いだろうか。

サンケイの本文では、そのあと犠牲者の数にも触れている。次のように記述している。

<こうした戦闘員、非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は二カ月に及んだ。 犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである。( 中略 )

南京に住む外国人たちで組織された難民救済のための国際委員会は、日本軍第六師団長 寿夫にたいし、放火、略奪、暴行、殺人など計百十三件の具体的事例を指摘して、前後十二回にわたって厳重な抗議を提出したが、谷寿夫は一顧だにしないばかりか、逆に、血塗られた南京の状況を映画やフイルムに収め、日本軍の " 戦果 " としてほめたたえたのである。>>

 

南京大虐殺の本文は、ここで終っているが、サンケイの記者( 著者 ) は、本文のあとに、次のような「注」も付け加えている。

 <東京裁判の判決によると、南京で虐殺されたものは、一般人、中国兵合わせて少なくとも二十万人以上、略奪放火された家屋は、全市の三分の一とされている。また, 寿夫は一九四六年三月、南京郊外の雨花台で、戦犯として処刑された.  >>

 

このように、三十年前、サンケイ新聞により取り上げられた「南京大虐殺」の叙述と、今日の産経新聞による「南京事件」の論調に、天壌ほどの違いがある。

サンケイ新聞の記事は、蒋介石側より提供された資料に基いて書いたものだと断わっている。しかし、全く根も葉もない「ウソ」であれば、しかも、それが日本の大悪行を暴露する「ウソ」であるなら、それをそのまま記事にして、自国民向けに、新聞に連載し、且つ単行本の発行までするサンケイの姿勢というか、魂胆というのは何であるか。今になってみると、大なる疑問の残る所である。

 

何事によらず、何が真相に近いか、常に、読む人の観念或いは、意識形態 ( I d e o l o g y ) にもよるが、時が経つ程に、真相はぼやけて来るのは古今を通じての真実である。それは、時が経つ程に、記憶の薄れ、記録、物証、証人の消失、などにより、人為的、恣意的な作り替えが容易になるというのが、最大の原因であろう。

ご覧のように、三十年前のサンケイにより、当事の犠牲者の数は、既に大まかな数の叙述がなされていた。三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである。

 

この叙述に加えて、サンケイ記者は、東京裁判の「少なくとも二十万人以上」という判決内容をも併せ、「注」として付け加えていた。

という事は、大まかながらも、二、三十万というのが、当時、世に広く認識されていた数字である事を裏付けている事に外ならないだろう。

 

冒頭の質問者が、「中学、高校と、日本軍が南京で大虐殺を行ったと習ってきた」と言っているのは、明らかに、根も葉も無いものでは無かったのである。