李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【  「長」 という漢字の意味 】

2020-12-30 23:43:07 | Weblog
ーー 李白の白髪  愁いに縁りて  
    箇くの似く長(ふえ)た、  伸びた ではない  ーー


漢語で、「長長 長長 長長長」と、七つの「長」を並べて、「常に成長し、絶え間無く成長し、永遠に成長する」 という意味を表す事が出来る。それは、発音の違い、「形容詞 副詞 動詞 名詞」としての「長」をうまく組み合わせると、そのような「字の遊戯」が出来る事を示しているわけだが、言い換えれば、「長」という漢字は、多音多義字 であるいう事を物語っているのに他ならない。

所が、極めて限られた意味しか持たない「列島の漢字」で、「唐土の漢語」を解釈すると、本来のあるべき意味から大きく逸れて、とんでもないものになって仕舞う可能性が非常に大きい。  

例を挙げてみる。

「對聯」という、中国の伝統的な建物の装飾のひとつで、門の両脇などに、上聯、下聯、と対句を記したものがある。

中國のモヤシ(豆芽)専門販売で、上聯が「長長長長長長長」,下聯も「長長長長長長長」,という「對聯」を、記した店がある。

店主に、意味する所を聞いてみたら、「店のモヤシが、一日も早く、そして、良く育つように、という願いを込めた文句」だという説明だった。

「長」という字は、多音多義字だから、「長」を chang と読めば、「常に」を意味し、zhang と読めば,「生長」の意味になる。

従い、長(常) chang 長zhang  長(常) chang 長zhang  長(常)chang 長(常)chang 長zhang と読めば、意味は、常に成長し、常に成長し、絶え間なく成長する、の意味になる。

説明されれば、成るほど、と思うのだが、矢張り、一風変わった「對聯」である。

日本語の「長」も、二通りの読み方がある。 一つは、音読で「チョウ」、今一つは、訓読みで「ナガ」、と読む。 「長」は、多音多義字だから、日本語でも、読み方の違いにより、字義も異なる。

具体的に言うと、「ナガイ」と訓読みすれば、意味は、「長い」の一つだけに絞られてしまうが、「チョウ」と音読すれば、多くの字義を持つことになる。 この場合、『広辞苑』には、七通りの意味が載っている。「ながいこと」の意味は、その六番目に出ているが、その前に、「かしら」「としうえ」「最もとしうえ」「そだつこと」「すぐれること」などが挙げられている。

旺文社『漢和辞典』は、上記の外に、「いつまでも」「おおきい」「あまる」「おおい」「はじめ」などが挙げられている。

試しに、中国の『辞海』も見てみる。そこには、次のような意味が新たに見られる。「速い」「久しい」「引く」「達する」「養う」「進む」「多い」「余り」など。

訓読みの「ナガイ」、即ち「長い」という概念に、日本人は慣れてしまっているから、『広辞苑』、旺文社『漢和辞典』、中国『辞海』の多字義解説を眼にすると、大抵の人は、大変意外に思うであろう。 人によっては、辞書はいい加減な解説をしている、と思う者も居るかも知れない。 が、何れにしても、辞書の方が、博学であるのは間違いない。

要するに、「長」という漢字は、長い、のみならず、「いつまでも」「おおきい」「あまる」「おおい」「はじめ」、「速い」「久しい」「引く」「達する」「養う」「進む」「多い」「余り」など、 極めて,多彩な字義を持っている事を、この際、頭の中に仕舞い込んでも, 損にはならない、と思うべきであろう。

李白の名詩句、白髪三千丈の原文、「白髪三千丈 縁愁似箇長 不知明鏡裏 何処得秋霜」を、日本語では、従来下記のように、読み下して来た;

   白髪三千丈
   愁いに縁 (よ ) って   箇 (かく ) の似 (ごと ) く 長(なが)し
   知らず 明鏡の 裏 (うち)
   何れの処より 秋霜を得たるかを

一見して分るように、訓読みの読み下しである。 ならば、「長」という字は、「長(なが)し」以外に読み下しようがない。

中國で、誇張だと思われていない 優雅な詩句が、列島に渡って来て、大法螺な表現だと誤解されるようになった、原点は、実に、漢詩を倭語(訓読み)で読み下した為に生じたものであった。

江戸時代、荻生徂来(おぎゅう・そらい、1666-1728)が、漢文訓読法を排斥して、漢詩文は唐音(中国語音)で音読すべきだと主張し、その弟子・太宰春台は、嘗て、漢文訓読の問題点を5つ挙げた。その一つに、「倭訓にて誦すれば字義混同す」というのがあった。荻生徂来も太宰春台も、共に正しかった、という事が、白髪三千丈の読み下しで証明された。

数多くの中日権威辞書を参照して、今一度、改めて、読み下してみるなら、極く自然に、下記の様な読み下しになる筈 。

    白髪三千丈
    愁いに縁 (よ ) って   箇 (かく ) の似 (ごと ) く 長(ふえ)た
    知らず 明鏡の 裏 (うち)
    何れの処より 秋霜を得たるかを

此れであれば、 締めくくりの「 何れの処より 秋霜を得たるかを」と綺麗に対応できる。
秋霜は、地上一面に白く降るもので、白髪が頭上一面に増えた事の、詩的表現になるが、長く伸びた白髪では、秋霜に例えようがない。

唐土では、モヤシ店のオジサンですら、「長」の多義字性格を巧みに使い、モヤシの良い育ちを詠い、引いては、 店の商売繁盛の願いを、その一句に託す、という垢抜けた思考が出来るのであれば、 知識水準の高い列島の人々も、 折角、李白詩を愛好するなら、詩的表現に則した読み方に改めるべきではないかと、思う 。








  【  「 倭 」  と い う 漢 字 の 解 釈 】 

2020-12-25 05:54:09 | Weblog

   ーー 倭 の 末 裔 は 、 自 意 ( 夷) 識 が 過 剰  ーー

 

「倭」という字は、正式に「記紀」で使われていた列島の古代名称で、古くは、列島に関する最古の文字記録として、唐土の「漢書」地理志に始まり、三海経、論衡、後漢書、三国史、晋書、好太王碑文、宋書、南斉書、梁書、南史、惰(耳偏)、北史、旧唐書、新唐書、朝鮮の三国史記、更に、列島の古事記、日本書紀、続日本紀と、八世紀に至るまで ずっと公式の史書、文書で使用されていた日本の古称であった。

所が、自分のふるさとである「倭」という「漢字名」の意味が、未だによく分からない倭人の末裔が結構多い。 意味はよくは分からないのに、不思議にも、「倭」という字には、人をバカにする意味があると思っている人が結構居る。尚且つ、面白い事に、その「卑しめられている」という意味の解釈がまちまちで、十人十色になっている。

書物やウエブなどで、目に留まった解釈の例を幾つかここに挙げて見る ;

例 一、「倭」は「背が曲がって丈(たけ)の低い人」を表し、古代中国で日本・日本人を指した字。 まあ、中華思想は昔からあって、自分たちが世界で一番素晴らしいと思っている国ですから周りの国々を常に低く見て蔑称で呼んでいたんです。

例 二、 倭というのは字義が「小さい」という意味。 古代中国人は周辺民族の呼称に何らかの悪い字を用いることが多かったようです。

例 三、 「委」(現代中国語の発音wei)はその解字が禾(曲がった稲)と,女で、「しなやかに 力なく倒れること。」

例 四、 「倭」とは遠く曲がりくねったという意味があり、中国から見て遠かったから。

例 五、 「倭」とは曲がりくねったという意味があり、倭人が腰が曲がっていて見にくかったから。

例 六、 「倭」を矮小の「矮」に通じるので、矮小化した蔑称。

例 七、 「和」とか「日本」とか名乗ること自体、嫌っていた証拠なので、当然、「倭」 という呼称 に侮辱、軽蔑の意図を感じたから嫌ったのである。

例 八, 中国語では「倭」は「醜い」「曲がってる」「歪んでる」だという意味だと聞いたことが あります。

 

以上の如く、例を挙げて行けばきりがないほど、「倭」という字にはバカにされている意味がある、と思っている。特に,「今の列島」と強調したのは、昔はそうではなかったという事実と対比する為です。

「昔の列島」はどうだったか、昔は、列島自体が、七世紀まで堂々と「倭」と自称し、他称も容れていたし、 八世紀になっても大和国の意味で使われた他、神武天皇の名の一部に使われていた。それで、数多くの漢学や歴史の権威が指摘するように、「倭」が悪い意味だから嫌ったというのは史実ではない。

 

阿部吉雄 編集の旺文社「漢和辞典」によると、「倭」という字は、形声文字で、人 と、まかせる意とともに、音を表す委とから成り、意味するのは、 (1) 従順なさま。すなをなさま。つつしむさま。 (2) まわり遠いさま という風に解説し、特に、「卑しめる」という意味があるとは言っていない。

更に、「広辞苑」を見てみる。

『倭』 (1) 中国、朝鮮で用いられた日本の古称。 (2) 日本の自称。 やまと。和。 と、たったの二行で簡単に済ましている。

このように権威辞典の解説には、前述の、背や腰が曲がっているとか、背が低い、醜い、歪んでいる、しなやかに倒れる などなどの意味はないのに、何故、今の列島で多くの人が、昔は、「倭」という字によって、卑しめられていたと思うのであろうか。臍( へそ ) 曲がり( perverseness ) だとしか思えない。

 

ここで、ウエブの「知恵袋」に出ていた現代列島人の質問例を参考までに見てみる。

質問; 「倭」と呼ぶときは、最近は日本を蔑称して使われているようですが、 「倭」は人と稲と女で作られていますよね。 なぜこの「倭」が蔑称の意味を持つのか教えてください。

 

この質問に対して、ベスト回答として掲載されたのは、次のようなものであった;

回答 ; 中華思想の表れで、野蛮な周囲のクニ(日本だけではありません) には、わざと悪い漢字を当てたそうです。発音は独自のものですが (古代中国語では「和」でもほとんど一緒らしいです)、どの字をあてるかはあちらさま次第ということです。

中国語では「倭」は「醜い」「曲がってる」「歪んでる」だという意味 だと聞いたことがあります。

この遣り取りを目にして、先ず、不可解に思うのは、質問者は、何故「倭」の意味を漢和辞典で調べようとしなかったのかという事。辞典をめくれば、一発で疑問は解消するのに、それをせずに、敢えて在野の素人に問うて、トンチンカンな知恵を得ている。 何故トンチンカンなのか、この回答者の口調は、 「、、、当てたそうです」、「、、、一緒らしいです」「、、、聞いたことがあります」というように終始して、自分でも肯定しかねる口調で答えている事。このような答えがベストであるか、トンチンカンであるか、多少漢字の知識がある人なら、一目了然です。

しかし、知恵袋で、ベスト回答と唱っているので、質問者を始め、その他不特定人数の読者は、それを真に受けて信じる可能性が大いにある。昨今、かなり多くの人が「倭」という字を目にして、バカにされたと過敏に思うのは、恐らく、このような全く「いい加減」な言い分を、そのまま鵜呑みにしているからではないだろうか。

 

「倭」という呼称が最初に記載された文書は唐土の「漢書」である。 その記載内容は次のようになっている ;

        然して東夷は天性柔順にして、三方の外に異なる。故に

     孔子、道の行なはれざるを悼み、浮を海に設け、九夷に居

     らむと欲するは以( ゆえ)有るかな。楽浪海中に倭人あり。

     分かれて百余国と為り、歳時を以て来たり献見すと云ふ。

          ( 原文は漢文)

つまり、東夷は天性柔順で、他の北狄,南蛮,西戎とは異なっており、孔子が東夷の地に渡海しようとしたのも理由のある (無理はない) ところであると記している。 これは、明らかに東夷を良く評価している記載である。その東夷の中に、倭人が含まれているのである。

この記載のどこに、「卑しめ」の意味を見つけ出すのであろうか。且つ、孔子ですら九夷の地に渡りたいと云っているのに、何故、「倭」の子孫は自ら、自分を卑下するのだろうか。それが先ず不可解である。

唐土の古書「旧唐書」に、倭国が自ら其名を悪(にく) む、 という記載がある。 その内容は次のようになっている;

      日本国は倭国の別種なり、其の国、日辺に在るを以て、

      故に日本を以て名と為す。或は曰く「倭国、自ら其の名

    の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」と。

   或は云う、「日本は旧(もと) 小国にして、倭国の地を併

   (あわ) すと」。  

      其の人、朝に入る者、自ら大を矜(ほこ)るもの多く、実を

   以て対(こた)へず。故に中国焉(これ) を疑ふ。      

         ( 原文は漢文)

 

この記載によると、列島が、名を「倭」から「日本」に変えた理由は、二つの可能性がある。

一つは、自ら其の名雅ならずを悪( いや)がり日本に改めた、というもの。

いま一つは、日本旧 ( もと) 小国にて倭国の地を併合したので、国の名も日本に変わった、というもの。

その何れが真相なのか、唐土の人にはよく分からない。しかし、入朝する者、自ら大を矜(ほこ)るものが多く、実を以て対さないので、中国はその言い分を疑問視している。さすがに、古い国だけあって、第六感は鋭い。

言い分を疑問視していたが、列島が自分の名前を変えたいというのだから、唐土は別に深く詮索もせず、また、する必要もないと思ったでしょう、その後、列島に関する記述を、「倭国伝」から「日本国伝」に書き変えた。やはり、大人の国である。

列島の使いが、「実を以て対さない」ので、唐土側は改名の真相をよく知らない。となると、改名の真相は列島自体に求める外はない。

 

列島古代史は、皇国史観のもとにずっと昔から、国民に知られないように真相を隠し続けて居た。従い、改名の理由は、前述のように、二つの可能性があるにも拘らず、列島では、ずっとそれを「倭という字は良くない意味を持つから」という言い分に絞って、庶民に説明した来た。 それがそのままずっと庶民の頭に残り、今日に至るも、日本人は自分のふるさとの名に卑しい意味が含まれていると思い込んでいるのだろう。

日本古代史の真相は、戦後、皇国史観の衰退につれ、学者達により、徐々に仮面が剥がれ、真実が明るみに出るようになった。 その結果、旧唐書に記載されていた倭国の改名は、「倭」という名を持つ九州王朝が、近畿のヤマト王朝に滅ぼされた為に、「倭」という国が無くなり、新たに、「日本」という名の国が誕生した、というのが真相である事が分かった。

つまり、「日本旧 (もと) 小国にて、倭国の地を併合したので、国の名も『日本』に変えた」 というのが真相なのである。 それは、同時に何を意味するのかというと、従来信じられて来た 「倭の名雅ならず、それで日本に改めた」という説明は事実では無かったという事である。

ところが、庶民というのは単純だから、一旦、そう教え込まれると、なかなかそのような迷信から抜け出せない。だから未だもって、多くの日本人は、立派に「人つくり」のついている「倭」という字に偏見を持ち、自国の古代の呼称を卑しいものだと思って敬遠する。

自国の歴史の虚偽記述と皇民教育により生じた迷信が、他人からバカにされた訳でもないのに、自己軽蔑と言うか、自己卑下と言うような自虐概念を齎( もた)らしたものに外ならないのである。

古代文字を持たなかった列島の呼称に、「倭」という漢字を当てたのは、文字を持った唐土である。 何故、「倭」という字 ? バカにする意図があったなら、獣辺や、虫、鬼などの付いている字を当てたであろうが、そうではなしに、ちゃんと「人辺」の字を当てている。

 

唐土の古書「旧唐書」の記載を見ると;

 「倭国、自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」   

  或は、「日本は旧(もと) 小国にして、倭国の地を併 (あわ) す

  と」云うので、  その後、列島に関する記述を、「倭国伝」

    から「日本国伝」に書き変えた。

 

この唐書の記載で分かるように、 「倭」にしても、「日本」にしても、列島が自己紹介をした「名称」をそのまま取り入れて使用している。 もし、唐土が意識的に「倭」字でもって列島をバカにしようとするなら、「日本国」に国名を変えても、唐土は依然として「倭」の名称に固執したであろう。 例えば、唐土の正式国名が「中国」であったにも拘わらず、日本はずっと『支那」で通して来たのと同じように、「倭国」で通す事も出来る。 しかし、そうしないで、ただちに、「日本国」に切り替えた。ということは、もともと 「倭」の名称でもって、列島をバカにする意図が無かった、ということの証(あか)しに他ならない。

嘗て、米国のタイム誌が、日本語の第一人称は二十以上ある、ということで特集を出した事がある。英語の一人称は一つしかないから、二十あるのは確かに不思議な事である。そのところに、列島社会の錯綜とした上下の人間関係の実態を見出す事ができる。

 

一人称が、「I」 の一つしかない英語に、バカにした、されたの問題は生じ難い。 日本語だと、俺と君、私と君、僕と君、だけで、バカにするしないの問題が生じる。 況して、 二十もあれば、人々は朝から晩まで、相手の使う言葉に神経を尖(とが)らす事になる。

「自意識過剰」という、列島で良く使われる言葉がある。

デジタル大辞泉によると、「他に対する自己を意識しすぎること。自分が他人にどう見られるかを考えすぎること。

大辞林 第三版によると、「他人が自分をどう見ているかを気にしすぎる状態」

つまり、基本的に、「他人にどう見られているを考え過ぎる」事を意味するもので、列島社会の特殊性格を表し、そして、世界に類例がない二十以上の一人称があるという事が、そのような「特殊性格」の存在を裏付けているのに他ならない。

だから、「倭」という漢字に、侮蔑の意味があると思うのは、根拠のないもので、倭人の末裔の「自意(夷)識過剰」によって生じた妄念であろう、としか解釈の仕様が無い。

 

 

 

 


 【  三 つ の 寿 命  】 ( 続 編 )

2020-12-20 01:16:15 | Weblog
 ーー 当 た る も 八 卦 、

         当 た ら ぬ も 八 卦 ーー

今を去る、十一年前の十月二十三日 日付けで、筆者は、自分の寿命について、  【  三つ の寿命  】という ブログを書いた。 

あれから、十一年の月日が、あっという間に経ってしまった。幸いに、まだ元気でr活きている。 久しぶりに、当時の ブログ内容を、今一度、読み返してみる。

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【  三 つ の 寿 命  】     2009-10-23 09:22:52 | Weblog

   ーー 当 た る も 八 卦 、
        当 た ら ぬ も 八 卦 ーー


東洋に於いても、西洋に於いても、「猫に九生あり」とよく昔から言われているようだが、それは勿論事実ではない。元は、猫の生命力のしたたかさを形容する為にある言葉だが、それが迷信に転じ、真( まこと ) のように言い伝えられたようである。

私はただの人間だが 、どうも「寿命」が三つあるようである。一つ目が「占い」による寿命、二つ目が「自分設定」の寿命、三つ目が「天命」、と三つある。

流年運気、という占い言葉がある。それは、「毎年の干支が変化する為、1年ごとに性質の違うエネルギー(運気)が我々個人個人に与えられる事によって、毎年における個人個人の運気の質や波が変化・変質する事だ」と、物の本に書いてある。

幼い時、私はこの「流年運気」というのを占って貰った事があると、中学生の時、母に知らされ、且つ、「流年運気表」というものを渡された。その表には、私の運命が年毎に列挙してあり、年により、「無事平穏」、「旭日の如く栄える」、「今年はあまり遠い所に行かない方がよいだろう」、などなど色々良言、苦言、吉報、凶報を書き連ねている。

俗に、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と謂れれているように、私は、あまりそれらの良し悪しを真剣に取り上げる性分ではない。ただ一つ、特に私の興味を引いたのは、この「流年運気」というものが、六十七歳でもって切れているという事である。

如何してだろうと思ったが、特に頭を使う程の難しい訳はない、要するに、その時点で「寿命」が尽きるのだと、すぐに気が付いた。以来、私は自分の「寿命」は恐らく「六十七歳」だろうとばかり思っていた。外に何も寿命の根拠になるものがないので、そう思うしかなかった。これが、一つ目の寿命である。

「流年運気表」というのは、他人の手によって立てられた「私の人生過程」である。それが果してどの程度当てになるのか、誰にも分かりようがない。それで、私は、大学を出て、社会入りしたと同時に、自分の手で「自分の人生計画」を立て、均整の取れた「三等分人生」を目指す事とした。

この「三等分人生」の計画は、前に外のブロッグでも書いた事があるが、簡単に言うと、この世は、常に「三」という単位が基盤になっている。朝昼晩、上中下、天地人、果ては、飲む打つ買う、右翼中間左翼に至るまで、三つ揃いになっていて、空間がそうなら、時間もそうである。この基盤の上に、私は次のように人生を三等分して、自分なりの「時間割」を作った。

成長育成 : 二十五年
社会奉仕 : 二十五年 から 三十年
余生 :  十五年 から 二十年

私は、給料取りになった時点から、定年まで勤めるつもりは無かった。会社勤めを始めて六年後に家を買ったことが一つの目安になり、私は、それから二十年後、借金の返済完了時を、自分の会社勤めの年限として目標設定をした。

つまり、社会奉仕の年限をほぼ二十五年から三十年の間に置くことにした。これで行くと、私は、五十歳から五十五歳にかけて、給料取りの生活に終止符を打つことになり、その後は、自分の好きなように余生を過ごすことが可能になる。

これなら、よしんば運拙なく六十歳でこの世を去ることになったとしても、最低五年やそこらの余生がある。もし、順調に七十歳、あるいは、七十五歳まで生きることが出来たなら、余生はたっぷり十五年から二十年ある。これだと、悔いを残して世を去るような憂き目に会わなくて済む。

この通りに行くかどうかは、神のみが知るところであるが、少なくとも、胸に成竹有れば、前向きに人生を歩むことが出来るので、何となく心強い。

この計画で、一応、「七十五歳まで生きることが出来たなら」という目安を付けている。云うなれば、自分が設定した寿命という事になる。これが、私の二つ目の寿命である。

私は、昭和ヒトケタ生まれだから、占い寿命の六十七歳は勿論、自分が設定した七十五歳も、二つ共に越してしまった。

こうなると、他に先行きどの程度生き延びるかという目途が皆目無いので、後は「天命」を待つしかない。この「天命」というのが、三つ目の寿命になるが、この「天命」というのは勿論皆目見当が付かないものである。

脳溢血で亡くなった親父の「天命」は僅かに五十歳ちょっとで、我が家の家庭医に「お母さんはすごく元気だから、百歳を越すよ」と良く言われていた母は運拙く八十で脳梗塞に倒れてしまった。一番上の姉はついこの間、「天寿」を全うして亡くなった、享年九十二歳だった。

このように、「天命」にかなりバラツキのある「家系」から、自分の「天命」を予測するのは至難であるから、温和しく「天命」を待つしかないだろうが。

今の私には、ゴルフ、園芸、読書、音楽、等の趣味の外に、「三つ目の寿命」がどの位の長さになるか、という楽しみが一つ余計に増えたので、この分だと死ぬまで、退屈な人生を過ごさなくても良いようである。
 
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昭和ヒトケタ生まれの筆者は、当年満で八十七歳になる。 幼児の「流年運気」という占いでは、六十七歳でもって、私の人生は終わる事になっている、が、それを二十年越し、 そして、大人になって、自分で設定した 七十五 歳も、十二年越してしまった。

孫相手に、時折、ゴルフを楽しむ事も、まだ出来るので、もうしばらくは生きて居られるようである。

残る限られた余生を、気楽に、好きなように、過ごすように務め、五年後、或いは、十年後に、 【 三つの寿命 】の 続々篇 ブロブを書く事を。楽しみにしている 昨日今日である。

では又 、、、、、、

【 文字に聞く   倭 と 和 の違い 】

2020-12-02 08:55:03 | Weblog
ーー  気分的な 問題 ーー

「倭」という字は、正式に「記紀」で使われていた列島の古代名称で、古くは、列島に関する最古の文字記録として、唐土の「漢書」地理志に始まり、三海経、論衡、後漢書、三国史、晋書、好太王碑文、宋書、南斉書、梁書、南史、惰(耳偏)、北史、旧唐書、新唐書、朝鮮の三国史記、更に、列島の古事記、日本書紀、続日本紀と、八世紀に至るまで ずっと公式の史書、文書で使用されていた日本の古称であった。

八世紀もの長い間使っていた「倭」を、ある日突然、日本は、「和」に書き換えた。理由は、「自ら其の名雅ならず」だと云う。

で、和に書き換えたら、列島の民草は、非常に、喜んで居る様だが、果たして、和は倭より 雅(みやび)であるのだろうか、一寸、内容を覗いてみる。

漢字は、表意文字だから、文字そのものに聞けばよく分かる。

Wiktionary によると、「倭」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形。解字は「ゆだねしたがう」「柔順なさま」「つつしむさま」。 「和」は、「口」+ 音符「禾」、「禾」は粟の穂が丸く垂れている様(藤堂)。粟の穂のように口調を「やわらげる」こと、口調を「まぜる」こと。

のように解している。 「ゆだねる」と「やわらげる」、どちらが、雅であるか、一寸見当が付き難い。

列島では、漢字に、獣(けもの)辺が付くと、人をバカにしていると思って、嫌がる。 和は、口と禾(いね)から成り立っているから、差し詰め、可も無し、不可も無し、という所でしょう。 所が、倭は、人と委(ゆだねる)から成り立っている。人辺が付いているだけでも、格は、和よりは上である。

倭という字に、人をバカにする意味多く含まれている。と列島の人々は思っている。しかし、中國の辞書にも、日本の辞書にも、そう書いてはいないから、気分次第で、勝手にそう思い込んでいる、としか考えられない。

中國の権威辞書、康熙字典によれば、魯の第21代王宣公の名は「倭」であると書かれている。又、日本初代の神武天皇の名も『古事記』では神倭伊波礼琵古命 (カムヤマトイワレヒコノミコト) で、「倭」字使用だから、倭に好ましくない意味があるとは思えない。

瀛洲(えいしゅう)という地名がある、

1. 古代中国において、1. 仙人の住むという東方の三神山(1. 蓬莱・1. 方丈 1、瀛洲)の一つ。
2. 転じて、日本を指して「 東瀛(とうえい)」ともいう。日本の雅称である。

昔の唐土が、恨みも辛みも無い遠く離れた列島に、取り立てて、蔑称を付ける必要が有るとは思わない。

知人に、にほんを漢字で日本と書かずに、カタカナで「二ホン」と書く人がいる。訳を聞いてみると、太陽は間断なくぐるぐる地球を回っているから、二ホンを「日の本」と書くのは、バカバカしいからだという。もっともな話である。

似たような事で、私は、倭という字を好んで使う。飛騨高山に、「倭の里」という名の立派な旅館が有る。格式の高い事で有名である。「和の里」では、いま一つ、やまとのふるさと、という感じに欠ける。そう思わないだろうか。

嘗て、二ホンは、中國という格好の良い名に惚れ、「倭」も「日本」も止めて、「中つ国」に改称した事があった。そして、大国の中國を「支那」に格下げした。今、お隣は、お金持ちになり、東京秋葉原の大得意様になったので、急遽、支那を引っ込め、「中國」「中華」に大幅格上げした。

この間、両国の実体に、何の変化があったのかというと、それは無い。列島民草の気分的な変化に依るものであった。

古代から霊峰として「不二の山」という名が付いていた「フジサン」を、「富士山」に書き換えたのも、実体には、何ら変化は見られない。しかし、霊峰を、「武士の富める山」に換えて、何の自慢になる。自慢になるとすれば、鎌倉武士だが、鎌倉武士は、とうに居なくなったから、又、現在でも、「フジ山」と書く人が居るから、何れ、「不二山」に言い戻す人が居ても, 可笑しくない。何れにしても、富士であろうと、不二であろうと、全世界には、「Mt. Fuji 」でしか通じないから、変名は日本の浮気っぽい遊びにしか過ぎない。

「倭」を「和」に、「ゆだねる」を「やわらげる」、に書き換えたのも、気分的な要素以外に、実体の違いはみられない。

東アジアの代表的な三國、中國、朝鮮,日本は、古くから、漢, 韓、倭、の略称で、親しまれて来た。漢, 韓 は変わらず、倭だけ変わった。 文化気質の違いによるものであろう。

二ホンは、これからも、気分次第で、物事をひょこひょこと換える事を続けて行くのだろうか。