ーー 物にならなかった、列島の「漢字文化」 ーー
ーー 加えて、思考論理の錯乱が 目立つ ーー
明治以降、「白髪三千丈」を列島で、字面通りに、「シラガが三千丈の長さ」と算術並みに解する人が多く現われ、李白は、詩仙から法螺吹きに、一挙に格下げされたのは、維新に依る、列島漢字文化の急激な衰退が元兇であるのは間違い無い。 何故なら、維新以前の、漢字文化の栄えていた列島で「白髪三千丈」は詩句であり、表現が「誇張」だという人は居なかった、という事実に照らして、如何に、列島の漢字文化が衰えて仕舞ったかが分かる。
さる、中国人の有名な先生に北京語を教わっているという当世の人が、ウエブに次のような学習感想日記を書いていた;
《《 中国人は、言葉の表現がオーバーだと言はれる。北京語を習って、形容詞に「非常に」という副詞を付ける事が多いな、と思った。 ( 筆者註 : この人は、なぜ、日本語の「大変」ありがとう、や英語の thank you 「very much 」が気にならない ? )
中国人の大げさな表現は、口語に始まったものではない。中国の古典を知っている外国人なら、その詩文の想像を絶する誇大な比喩に苦笑したことが多分誰にもあるだろうと思う。
中国人のオーバーな表現の代表は「白髪三千丈」である。出典は、言うまでもなく、大げさな表現の代表選手、李白だ。
僕は、唐詩の中で、李白が大好きで、幾つかは今でも暗誦している。
有名な、僕の北京語の先生に、「外国人はよく『白髪三千丈』を使って、中国人の大げさな表現をからかいますよ」と言ったら、先生は全然知らなかった。
どうも、中国人は自分達の表現が大げさだと思われている事を気にしていないらしい 》》
この日記の主は、文中で、「三」についても、色々と論じた結果、出した結論は、
《《 「三」は「大」で、「九」は「大の大」だが、これが「三千」になると「数え切れない程多い」という意味になる 》》、という結論を出した。
その結論を「白髪三千丈」に当て嵌(はめ) れば、「白髪が数え切れない程に増えた」という解釈になるから、ちっとも「オーバー」ではないのに、この人は、同じ日記の中で、《《 中国人のオーバーな表現の代表は「白髪三千丈」である。出典は、言うまでもなく、大げさな表現の代表選手、李白だ 》》、と、言っている。
極端な言い方をすれば、この日記の主は「思考論理の錯乱」した感想を、公然と公 ( おおやけ) にしているようなものである。 彼は、「 中国人の大げさな表現の代表選手は李白だ、僕は、唐詩の中で、李白が大好きで、幾つかは今でも暗誦している 」 と自慢している 。
それでいて、「非常に」を始めに、中国人の大袈裟を散々貶し、李白を巻き込んでいる。 これを、論理的に整理すると、’この日記の主こそが、大袈裟な表現の代表選手になる、のではなかろうか。
『 北京語を習って、形容詞に「非常に」という副詞を付ける事が多いな、と思った』、と、日記の冒頭に書いたこの学習子は、明らかに、北京語に、某かの「偏見」や「畏怖」を感じている、神経の持ち主である。 彼は、《《 中国の古典を知っている外国人なら、その詩文の想像を絶する誇大な比喩に苦笑したことが多分誰にもあるだろうと思う。》》、 あたかも、自分は中国の古典を知っているように法螺を吹いている、が、彼は、「三千」の一言ですら、解し得ない。 この人は、一体、有名な北京語の先生から何を習おうとしているのか、甚( はなは) だ気に掛かる。月謝が勿体ないとも思う。
唐土に、「腰纏十萬貫」という表現がある。「腰纏萬貫」とも言う 。意味するのは、( 腰に金万貫を纏うお金持ち) のような誇飾法の運用であり、最大の重点は、単に、形容する目標を強調しようとする為に過ぎない。 この文句は、列島に伝わった形跡が無い。
「腰纏萬貫」とは、単純に字面で解すると、重さ三万七千五百キロの銭貨を腰にぶら下げる、という事になり、その成語の元である「腰纏十萬貫」に至っては、三十七万五千キロという、気の遠くなるような重さになる。が、「大変なお金持ち」の事を、このように、文学的に形容する事が出来る。さすが、古い文化の国である。
その昔、もし、この文句が、列島に伝わっていたなら、列島から見た唐土の人は、「誇張好き」に留まらず、「気違い」のように見えたであろう。言葉の奥行きの深さを知らないという事は、恐ろしいものである。
兎に角、列島には、「誇張」という事に、極めて敏感である、という事を思わせる文章記事の氾濫に良く驚く。そして、その「誇張」の主を、殆んど例外無く、中国人に絞るという論調に、無上の怪奇と深い戸惑いを感じる。 要するに、漢字文化を解しない、という事に他ならない。
列島に、古くから伝えられている、古代歴史の「竹内文献」というのがある。
その記述によると、列島の歴史は、神武天皇以前にウガヤ・フキアエズ朝72代、それ以前に25代・436世にわたる上古代があり、さらにその前にも天神7代の神の時代があったという、過去3000億年にさかのぼる奇怪な歴史が語られていた。そして、今から数十万年前の超古代の日本列島は世界の政治・文化の中心地であった、とも言う。
この「 過去3000億年にさかのぼる歴史」は、紛れも無く、世界空前絶後の世界一「大袈裟」であり、「三」が「誇張の元」になっている。世界一を好み, 「三」が誇張の元であると決め付ける日本人は多い。しかし、自国の「3000億年にさかのぼる歴史」を、誇張の例として、引合いに出す者は見当たらず、もっぱら、李白に焦点を絞るのは何故か?
列島の古い事は知らないのであれば、現代の女性名「三千代」、京都の「三千院」、高杉晋作の「三千世界のカラス」などなど、それに、「大本営発表」と、幾らでもあるのでないか、明らかに、誇張を好む点に於いて、そして、誇張の実例の多さを見ても、列島は、遥かに唐土を超している。 誇張の例に、唐土の李白を借用する必要が何処にある?
「 白髪三千丈とかいいますが、なぜ中国語では3がつくと、誇張の表現になるんですか? あと、中国人はなぜ誇張癖があるんですか? 」というウエブ上の質問があった。
閲覧者は数百人居たが、バカバカしいからであろう、回答は僅か三つしかなかった。
一つ目の回答要約;「確かに三千丈は大袈裟です。しかし、三で以って誇張表現となるのではなく、千とか万とか、日本語にもあるような数で誇張します。文意を面白くし、退屈にしないための中国の修辞学上の技法なのです」
二つ目の回答;「中国語の三は、例えば、「木」「林」「森」のように、一般に大中小の概念を表わします。しかし、三千丈の三は偶然の一致であると思います。中国人だけでなく私たちも、多分想像ですが、地球上の人間は誰しも大きいことに憧れるのではないでしょうか。誇張は中国人だけのものではないと思っています」
三つ目の回答;「日本語がうまく出来ませんので、中国語で説明してもいいですか」、という断わりを付けた、中国語の回答で、次のように述べていた。
( 中国語の修辞学には 譬喩 誇飾 對比 映襯 等の用法がある。最終目的は、文章を退屈に感じさせない為に過ぎないものである ) 。
三つ目の中国人回答も、一と二の日本人回答同様、質問者の「誤解」を指摘しているものだが、反発をしないで、説明の内容が、かなり「きめ細かい」点で異なり、漢字の「本場の人」である事を実感させる。三人の回答者、共に一致して、質問者の「無知」を指摘している。
漢字文化を取り入れて千六百年、列島ついにこれを、物に為る事が出来なかった。その、心の底に潜む無念と自己卑下が、反撥して、浅はかな、逆に相手を見下そうとする「形」になって現われたものだと、見る識者に時々お目にかかる。 正しく、その通りだと思う。
ーー 加えて、思考論理の錯乱が 目立つ ーー
明治以降、「白髪三千丈」を列島で、字面通りに、「シラガが三千丈の長さ」と算術並みに解する人が多く現われ、李白は、詩仙から法螺吹きに、一挙に格下げされたのは、維新に依る、列島漢字文化の急激な衰退が元兇であるのは間違い無い。 何故なら、維新以前の、漢字文化の栄えていた列島で「白髪三千丈」は詩句であり、表現が「誇張」だという人は居なかった、という事実に照らして、如何に、列島の漢字文化が衰えて仕舞ったかが分かる。
さる、中国人の有名な先生に北京語を教わっているという当世の人が、ウエブに次のような学習感想日記を書いていた;
《《 中国人は、言葉の表現がオーバーだと言はれる。北京語を習って、形容詞に「非常に」という副詞を付ける事が多いな、と思った。 ( 筆者註 : この人は、なぜ、日本語の「大変」ありがとう、や英語の thank you 「very much 」が気にならない ? )
中国人の大げさな表現は、口語に始まったものではない。中国の古典を知っている外国人なら、その詩文の想像を絶する誇大な比喩に苦笑したことが多分誰にもあるだろうと思う。
中国人のオーバーな表現の代表は「白髪三千丈」である。出典は、言うまでもなく、大げさな表現の代表選手、李白だ。
僕は、唐詩の中で、李白が大好きで、幾つかは今でも暗誦している。
有名な、僕の北京語の先生に、「外国人はよく『白髪三千丈』を使って、中国人の大げさな表現をからかいますよ」と言ったら、先生は全然知らなかった。
どうも、中国人は自分達の表現が大げさだと思われている事を気にしていないらしい 》》
この日記の主は、文中で、「三」についても、色々と論じた結果、出した結論は、
《《 「三」は「大」で、「九」は「大の大」だが、これが「三千」になると「数え切れない程多い」という意味になる 》》、という結論を出した。
その結論を「白髪三千丈」に当て嵌(はめ) れば、「白髪が数え切れない程に増えた」という解釈になるから、ちっとも「オーバー」ではないのに、この人は、同じ日記の中で、《《 中国人のオーバーな表現の代表は「白髪三千丈」である。出典は、言うまでもなく、大げさな表現の代表選手、李白だ 》》、と、言っている。
極端な言い方をすれば、この日記の主は「思考論理の錯乱」した感想を、公然と公 ( おおやけ) にしているようなものである。 彼は、「 中国人の大げさな表現の代表選手は李白だ、僕は、唐詩の中で、李白が大好きで、幾つかは今でも暗誦している 」 と自慢している 。
それでいて、「非常に」を始めに、中国人の大袈裟を散々貶し、李白を巻き込んでいる。 これを、論理的に整理すると、’この日記の主こそが、大袈裟な表現の代表選手になる、のではなかろうか。
『 北京語を習って、形容詞に「非常に」という副詞を付ける事が多いな、と思った』、と、日記の冒頭に書いたこの学習子は、明らかに、北京語に、某かの「偏見」や「畏怖」を感じている、神経の持ち主である。 彼は、《《 中国の古典を知っている外国人なら、その詩文の想像を絶する誇大な比喩に苦笑したことが多分誰にもあるだろうと思う。》》、 あたかも、自分は中国の古典を知っているように法螺を吹いている、が、彼は、「三千」の一言ですら、解し得ない。 この人は、一体、有名な北京語の先生から何を習おうとしているのか、甚( はなは) だ気に掛かる。月謝が勿体ないとも思う。
唐土に、「腰纏十萬貫」という表現がある。「腰纏萬貫」とも言う 。意味するのは、( 腰に金万貫を纏うお金持ち) のような誇飾法の運用であり、最大の重点は、単に、形容する目標を強調しようとする為に過ぎない。 この文句は、列島に伝わった形跡が無い。
「腰纏萬貫」とは、単純に字面で解すると、重さ三万七千五百キロの銭貨を腰にぶら下げる、という事になり、その成語の元である「腰纏十萬貫」に至っては、三十七万五千キロという、気の遠くなるような重さになる。が、「大変なお金持ち」の事を、このように、文学的に形容する事が出来る。さすが、古い文化の国である。
その昔、もし、この文句が、列島に伝わっていたなら、列島から見た唐土の人は、「誇張好き」に留まらず、「気違い」のように見えたであろう。言葉の奥行きの深さを知らないという事は、恐ろしいものである。
兎に角、列島には、「誇張」という事に、極めて敏感である、という事を思わせる文章記事の氾濫に良く驚く。そして、その「誇張」の主を、殆んど例外無く、中国人に絞るという論調に、無上の怪奇と深い戸惑いを感じる。 要するに、漢字文化を解しない、という事に他ならない。
列島に、古くから伝えられている、古代歴史の「竹内文献」というのがある。
その記述によると、列島の歴史は、神武天皇以前にウガヤ・フキアエズ朝72代、それ以前に25代・436世にわたる上古代があり、さらにその前にも天神7代の神の時代があったという、過去3000億年にさかのぼる奇怪な歴史が語られていた。そして、今から数十万年前の超古代の日本列島は世界の政治・文化の中心地であった、とも言う。
この「 過去3000億年にさかのぼる歴史」は、紛れも無く、世界空前絶後の世界一「大袈裟」であり、「三」が「誇張の元」になっている。世界一を好み, 「三」が誇張の元であると決め付ける日本人は多い。しかし、自国の「3000億年にさかのぼる歴史」を、誇張の例として、引合いに出す者は見当たらず、もっぱら、李白に焦点を絞るのは何故か?
列島の古い事は知らないのであれば、現代の女性名「三千代」、京都の「三千院」、高杉晋作の「三千世界のカラス」などなど、それに、「大本営発表」と、幾らでもあるのでないか、明らかに、誇張を好む点に於いて、そして、誇張の実例の多さを見ても、列島は、遥かに唐土を超している。 誇張の例に、唐土の李白を借用する必要が何処にある?
「 白髪三千丈とかいいますが、なぜ中国語では3がつくと、誇張の表現になるんですか? あと、中国人はなぜ誇張癖があるんですか? 」というウエブ上の質問があった。
閲覧者は数百人居たが、バカバカしいからであろう、回答は僅か三つしかなかった。
一つ目の回答要約;「確かに三千丈は大袈裟です。しかし、三で以って誇張表現となるのではなく、千とか万とか、日本語にもあるような数で誇張します。文意を面白くし、退屈にしないための中国の修辞学上の技法なのです」
二つ目の回答;「中国語の三は、例えば、「木」「林」「森」のように、一般に大中小の概念を表わします。しかし、三千丈の三は偶然の一致であると思います。中国人だけでなく私たちも、多分想像ですが、地球上の人間は誰しも大きいことに憧れるのではないでしょうか。誇張は中国人だけのものではないと思っています」
三つ目の回答;「日本語がうまく出来ませんので、中国語で説明してもいいですか」、という断わりを付けた、中国語の回答で、次のように述べていた。
( 中国語の修辞学には 譬喩 誇飾 對比 映襯 等の用法がある。最終目的は、文章を退屈に感じさせない為に過ぎないものである ) 。
三つ目の中国人回答も、一と二の日本人回答同様、質問者の「誤解」を指摘しているものだが、反発をしないで、説明の内容が、かなり「きめ細かい」点で異なり、漢字の「本場の人」である事を実感させる。三人の回答者、共に一致して、質問者の「無知」を指摘している。
漢字文化を取り入れて千六百年、列島ついにこれを、物に為る事が出来なかった。その、心の底に潜む無念と自己卑下が、反撥して、浅はかな、逆に相手を見下そうとする「形」になって現われたものだと、見る識者に時々お目にかかる。 正しく、その通りだと思う。