李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【 語学音痴 の 恥さらし 】  仁目子

2022-04-30 23:32:56 | Weblog
ーー  物にならなかった、列島の「漢字文化」 ーー     
ーー  加えて、思考論理の錯乱が 目立つ  ーー


明治以降、「白髪三千丈」を列島で、字面通りに、「シラガが三千丈の長さ」と算術並みに解する人が多く現われ、李白は、詩仙から法螺吹きに、一挙に格下げされたのは、維新に依る、列島漢字文化の急激な衰退が元兇であるのは間違い無い。 何故なら、維新以前の、漢字文化の栄えていた列島で「白髪三千丈」は詩句であり、表現が「誇張」だという人は居なかった、という事実に照らして、如何に、列島の漢字文化が衰えて仕舞ったかが分かる。

さる、中国人の有名な先生に北京語を教わっているという当世の人が、ウエブに次のような学習感想日記を書いていた;

《《  中国人は、言葉の表現がオーバーだと言はれる。北京語を習って、形容詞に「非常に」という副詞を付ける事が多いな、と思った。 ( 筆者註 : この人は、なぜ、日本語の「大変」ありがとう、や英語の thank you 「very much 」が気にならない ? )

中国人の大げさな表現は、口語に始まったものではない。中国の古典を知っている外国人なら、その詩文の想像を絶する誇大な比喩に苦笑したことが多分誰にもあるだろうと思う。
中国人のオーバーな表現の代表は「白髪三千丈」である。出典は、言うまでもなく、大げさな表現の代表選手、李白だ。
僕は、唐詩の中で、李白が大好きで、幾つかは今でも暗誦している。
有名な、僕の北京語の先生に、「外国人はよく『白髪三千丈』を使って、中国人の大げさな表現をからかいますよ」と言ったら、先生は全然知らなかった。
どうも、中国人は自分達の表現が大げさだと思われている事を気にしていないらしい  》》

この日記の主は、文中で、「三」についても、色々と論じた結果、出した結論は、

《《 「三」は「大」で、「九」は「大の大」だが、これが「三千」になると「数え切れない程多い」という意味になる 》》、という結論を出した。

その結論を「白髪三千丈」に当て嵌(はめ) れば、「白髪が数え切れない程に増えた」という解釈になるから、ちっとも「オーバー」ではないのに、この人は、同じ日記の中で、《《 中国人のオーバーな表現の代表は「白髪三千丈」である。出典は、言うまでもなく、大げさな表現の代表選手、李白だ 》》、と、言っている。

極端な言い方をすれば、この日記の主は「思考論理の錯乱」した感想を、公然と公 ( おおやけ) にしているようなものである。 彼は、「 中国人の大げさな表現の代表選手は李白だ、僕は、唐詩の中で、李白が大好きで、幾つかは今でも暗誦している 」 と自慢している 。
それでいて、「非常に」を始めに、中国人の大袈裟を散々貶し、李白を巻き込んでいる。 これを、論理的に整理すると、’この日記の主こそが、大袈裟な表現の代表選手になる、のではなかろうか。

『 北京語を習って、形容詞に「非常に」という副詞を付ける事が多いな、と思った』、と、日記の冒頭に書いたこの学習子は、明らかに、北京語に、某かの「偏見」や「畏怖」を感じている、神経の持ち主である。 彼は、《《 中国の古典を知っている外国人なら、その詩文の想像を絶する誇大な比喩に苦笑したことが多分誰にもあるだろうと思う。》》、 あたかも、自分は中国の古典を知っているように法螺を吹いている、が、彼は、「三千」の一言ですら、解し得ない。 この人は、一体、有名な北京語の先生から何を習おうとしているのか、甚( はなは) だ気に掛かる。月謝が勿体ないとも思う。

唐土に、「腰纏十萬貫」という表現がある。「腰纏萬貫」とも言う 。意味するのは、( 腰に金万貫を纏うお金持ち) のような誇飾法の運用であり、最大の重点は、単に、形容する目標を強調しようとする為に過ぎない。 この文句は、列島に伝わった形跡が無い。

「腰纏萬貫」とは、単純に字面で解すると、重さ三万七千五百キロの銭貨を腰にぶら下げる、という事になり、その成語の元である「腰纏十萬貫」に至っては、三十七万五千キロという、気の遠くなるような重さになる。が、「大変なお金持ち」の事を、このように、文学的に形容する事が出来る。さすが、古い文化の国である。

その昔、もし、この文句が、列島に伝わっていたなら、列島から見た唐土の人は、「誇張好き」に留まらず、「気違い」のように見えたであろう。言葉の奥行きの深さを知らないという事は、恐ろしいものである。

兎に角、列島には、「誇張」という事に、極めて敏感である、という事を思わせる文章記事の氾濫に良く驚く。そして、その「誇張」の主を、殆んど例外無く、中国人に絞るという論調に、無上の怪奇と深い戸惑いを感じる。 要するに、漢字文化を解しない、という事に他ならない。

列島に、古くから伝えられている、古代歴史の「竹内文献」というのがある。

その記述によると、列島の歴史は、神武天皇以前にウガヤ・フキアエズ朝72代、それ以前に25代・436世にわたる上古代があり、さらにその前にも天神7代の神の時代があったという、過去3000億年にさかのぼる奇怪な歴史が語られていた。そして、今から数十万年前の超古代の日本列島は世界の政治・文化の中心地であった、とも言う。 

この「 過去3000億年にさかのぼる歴史」は、紛れも無く、世界空前絶後の世界一「大袈裟」であり、「三」が「誇張の元」になっている。世界一を好み, 「三」が誇張の元であると決め付ける日本人は多い。しかし、自国の「3000億年にさかのぼる歴史」を、誇張の例として、引合いに出す者は見当たらず、もっぱら、李白に焦点を絞るのは何故か?

列島の古い事は知らないのであれば、現代の女性名「三千代」、京都の「三千院」、高杉晋作の「三千世界のカラス」などなど、それに、「大本営発表」と、幾らでもあるのでないか、明らかに、誇張を好む点に於いて、そして、誇張の実例の多さを見ても、列島は、遥かに唐土を超している。 誇張の例に、唐土の李白を借用する必要が何処にある?


「 白髪三千丈とかいいますが、なぜ中国語では3がつくと、誇張の表現になるんですか? あと、中国人はなぜ誇張癖があるんですか? 」というウエブ上の質問があった。

閲覧者は数百人居たが、バカバカしいからであろう、回答は僅か三つしかなかった。

一つ目の回答要約;「確かに三千丈は大袈裟です。しかし、三で以って誇張表現となるのではなく、千とか万とか、日本語にもあるような数で誇張します。文意を面白くし、退屈にしないための中国の修辞学上の技法なのです」
二つ目の回答;「中国語の三は、例えば、「木」「林」「森」のように、一般に大中小の概念を表わします。しかし、三千丈の三は偶然の一致であると思います。中国人だけでなく私たちも、多分想像ですが、地球上の人間は誰しも大きいことに憧れるのではないでしょうか。誇張は中国人だけのものではないと思っています」
三つ目の回答;「日本語がうまく出来ませんので、中国語で説明してもいいですか」、という断わりを付けた、中国語の回答で、次のように述べていた。
( 中国語の修辞学には 譬喩 誇飾 對比 映襯 等の用法がある。最終目的は、文章を退屈に感じさせない為に過ぎないものである ) 。 

三つ目の中国人回答も、一と二の日本人回答同様、質問者の「誤解」を指摘しているものだが、反発をしないで、説明の内容が、かなり「きめ細かい」点で異なり、漢字の「本場の人」である事を実感させる。三人の回答者、共に一致して、質問者の「無知」を指摘している。

漢字文化を取り入れて千六百年、列島ついにこれを、物に為る事が出来なかった。その、心の底に潜む無念と自己卑下が、反撥して、浅はかな、逆に相手を見下そうとする「形」になって現われたものだと、見る識者に時々お目にかかる。 正しく、その通りだと思う。


【 wikipedia 「白髪三千丈」仁目記事 の 遭難と終焉  】    (三) 仁目子

2022-04-30 04:37:08 | Weblog
  ーー  Wiki の船頭達よ、 相手は李白だよ  ーー
ーー  ウイキ駄目なら、ウエブサイト で生き返させる ーー

白髪三千丈、この五つの文字を見て、列島では、「あれは、大袈裟な表現だ」或いは、「法螺吹きだ」と云う人が多い。その程度の文句なら、そんなに難しいものではない。
所が、「仁目」という利用者が、ウイキペディアに一文を投じたら、それが、大きな波紋になって広がり、それまで、何事もなく水の上に浮いていた白髪 三千丈という「船」が、突然、多数の「船頭達」によって、山の上に押し上げられてしまった。
という事は、この文句は、「あれは法螺吹きだ」の一言で済ませる文句ではない事を意味する。何故?
それは 天下の李白の「詩句」だからである。

ウエブに、崎田和香子のホームページ「御意見無用」がある。今から二十二年前の2000年9月28日に、下記のような「御意見」が書いてあった。さすが、「御意見無用」と銘打つだけあって、誠に洒落なブログである。
《《  李白の「秋浦の歌」についてバイトの M 田さんから質問   
    される。
    「3 000 丈って、どのくらいの長さなんですか?」
    1丈がだいたい 3 メートルちょっとだと教えると、
    「エーッ、ウッソー!」
    と、言われても、だって相手は李白だよ 》》 

確かに相手は李白である、「エーッ、ウッソー!」の一言で済ませる文句ではない。

Wikipediaに「井戸端/ 過去ログ」という、問題提起と討論のページがある。 2006 年5月利用者「仁目」は、このページで二件の問題を提起、管理者の検討をお願いした。

《《 「白髪三千丈」の記事、2004年5月22日の投稿から二年の月日が立ち、yahoo 或いはgoogle com. で「白髪三千丈 wikipedia」として取り上げられ、尚且つ、goo 辞典にも採用されるなど、一般に肯定的な反響を得ることが出来、喜ばしい事だと思います。ついては、下記の二件につき、管理者の検討をお願いしたいと思います。
(一) 昨年(2005年7月8日)、この記事の冒頭に「正確性」の疑問を貼りつけてから、もう一年近くになるが、その間、これといった問題提起も、議論もないまま、レッテルだけが残っている状態で、不自然ではなかろうかと思う。
  (二) 本文の第三、四行即ち、「白髪が三千丈の長さに伸びるくらい長いあいだ」という意味で、長期間をあらわす表現のひとつであるという一節は、私の投稿原文にはなく、又、意味合いも、「白髪はふえるものであって、伸びるものではない」という本文の主旨に反するので、編集削除が必要と思うが、この際、編集に不慣れな私が勝手に手を付けるより、管理者にお願いした方がよいと思うので、よろしくお願いしたい  》》

上記のメッセージを2006年5月24日に「管理者へのメッセージ」宛てに入れたところ、「Aboshi」という船頭から、下記のようなメッセージがあった;

《《  こんにちは。当該項のノートにおける220.213.88.206氏の2005年10月時点でのご指摘をご覧になりましたか?全くそのとおりの疑義かと思います。まずは質問に真摯にお答えください。
ちなみに私は根本的な改変がない限り「正確さに疑問がある」テンプレートを外すことを反対し続けますので、よろしくお願いします。
理由は簡単で、いったいこれはどなたのご研究ですか。仁目さん自身のご見解でしょうか。ある事柄に対して説を展開する場合、先行研究を踏まえたもの以外は全く論外(ウィキペディアに掲載すべきものではない)ということにご理解はいただけているのでしょうか。
もし自説の展開であれば、世間一般的にも「正確性」があるとはいいません(学術的な査読を経ていないという理由です。仮に私が同じことをやっても同様です)。本来当該ノートに記載すべきことですが、仁目さんがわざわざ井戸端までもってきたのでここで質問させていただきます。先の議論は当該ノートでやりましょうか。Aboshi 2006年5月28日  》》

この質問に対し、「仁目」は次のような回答をノートに寄せた;
《《  Abosi さんは、「字義」( = 字面) に拘り、私 (実際は千家詩) は「真意」( = 内包) に重点を置き、両者は、是非の問題ではなく、そもそも出発点が異なる為、議論の仕様はないと思う。
最初に「根本な問題」の提起があった際、本件は、2005年8月8日の「何が根本問題であるか」にてすでに委細回答済みです。ただ、誤解を避ける為、下記二点を追記します。
(一) 2004年2月10日と3月17日の投稿履歴を参照乞う。
お分かりのように、「中国では誇張表現として使はれていない」という認識は、前任投稿者二人の認識であり、私も同じ認識だったので、その文句をそのまま残しておいたもの。つまり、これは一般に広く認識されていることであって、私一個人の認識ではないということ。
また、「白髪が三千丈の長さに伸びるくらい長いあいだ」という文句も前任投稿者の文句で、こちらの方は削除すべきだと思う。
(二 ) 本家の「千家詩」には、「シラガがふえた、つぎ足すと、延べ三千丈位の長さになるだろうという嘆声」に解釈している。
これは「意訳」であり、長さという字義を否定したものではない。つまり、「シラガが三千丈に伸びたという、現実的にあり得ない単純解釈をしていないだけのことである。
日本語で、中国語もそうだが、「髪の毛が伸びる」という言い方はするが、「シラガが伸びる」という表現は現実に見たことも聞いたこともない。その意味で、「千家詩」の解釈は、それなりの意義持つ。
  「ウイキペディア」は名前が示す如く、「エンサイクロペディア」とは若干異なる。誰でも編集出来るのと、限られた権威学者による編集、これが両者の大きく違う点であり、「ウイキペディア」は通常の「百科事典」としての役割を果たすことを目標にしながらも、同時に、広く情報提供の場として利用可能という独特の面がある。
私の投稿は「情報提供」が重点であります。あなたに指摘されるまでもなく、自分に百科事典の編集は出来ない、ということを私はノートではっきり言明しており、また、率直に言わせて貰うなら、これは私に限らず、大半の利用者にも言えることじゃないでしょうか。
 本文をいま一度よく読んで貰えば分かるが、日本で今迄殆んど知られて居なかった、そして日本の辞書の解釈とは意味合いの異なる本家の「千家詩」の解釈を、私は「ウイキペデイア」で紹介したのです。若干私の参考意見も述べているが、重点は「情報提供」です。
あなたは歴史を専攻されたようで、異なる時間、空間、意識の元で、同じ一つの歴史が異なる内容に変わることを、よく存じておられる筈で、歴史に限らず、その他の知識分野に於いても同様です。そのうちのどれを客観的に価値あるものとして取り入れ、尊重するか、読者が持ち合わせの知識を元にして判断し決めるわけで、多数者の選んだ説が一応、通説乃至定説として信頼性が肯定されることになる。「諸説の比較」というのがこのような知識向上と選択の為に必要になるわけです。
「シラガが三千丈の長さに伸びた」、これが日本に於ける従来の解釈である。しかし、本家の「千家詩」は、それと異なる、即ち、「シラガがふえた、つぎ足すと、三千丈位の長さになるだろう」という解釈をしている。前者の解釈は「現実にあり得ない」ものであり、後者の解釈は「現実にあり得る」ことである。
私はウイキペデイアで、漢詩の愛好者に「比較の機会」を提供したわけです。どちらが常理に叶うものであるか、それは数多くの読者に委ねるべきであって、あなたと私が議論して結論を出すべきものではないでしよう。また、議論するにしても、相手は「千家詩」という古典書であり、私ではないのです。
  現実に、「白髪三千丈 Wikipedeia」は、このところウエブサイトで、「goo 辞書」を始め、広く引用され始めております。それは、「千家詩」によるこの名句の「意訳」が、詩人李白の「嘆声」を現実のものとして生き返えらせ、人々により鑑賞され易くなったという点を評価されたものではないかと思うが、それは又、二年間に亙る、数多のウイキペデイア利用者による協力編集の結果でもあります。
そこへ、肝腎の出処である「白髪三千丈ウイキペディア」に「正確性」の標示が貼り付けたままになっているのは、一寸可笑しいのではないかと思って、管理者に参考意見を具申した次第だが。削除するしないは、その名の元に引用された「ウイキペデイア」が判断して決めることで、私はどうでもよいのです。
  従い、読書に専念したく、貴殿との議論も含め、これにて本件に触れることを打ち切ります。以上、了承乞う。仁目 2006年5月29日  》》

ノートでも、この井戸端でも、Wikipedia の「船頭」達との意見交換或いは議論で、仁目が切に感じた事は、李白の詩句に関し、その「正確性」に疑問があると言いいながら、それでいて、李白とその詩句について 何がしかの素養、知識を有していると自己紹介をしている者が一人も居なかった、という事である。

仁目は、李白詩の原産地である唐土の典籍「千家詩」を元にして、詩句の真意を論じているのに、《 いったいこれはどなたのご研究ですか。仁目さん自身のご見解でしょうか 》、《 ある事柄に対して説を展開する場合、先行研究を踏まえたもの以外は全く論外(ウィキペディアに掲載すべきものではない)ということにご理解はいただけているのでしょうか 》などと、本筋から逸(そ) れ、「千家詩」に付いては全く無知或いは無視するという発言を Aboshi はしている。これでは、議論のしようもない。

結局、Wiki の船頭達は「何を欲っしているのか」分からないまま、明らかに、詩句に馴染みのない船頭達を、これ以上相手にしても、時間と手間の無駄使いであると悟り、仁目は、Wiki から手を引く事に決めた。

あれから、十年の月日が経った。未だに、ウエブで良く original の「仁目記事」を目にする。
Googleや Yahoo で、或いは、Livedoor , Weblog , 引いては、マピオン大百科などで、「白髪三千丈」の関係記事を検索すると、『利用者 : 仁目ー百科事典』、『利用者: 仁目ー韓国辞書、ウイキペデイア』、『利用者ー会話: 仁目』などなどに再会する。共に、「出典 : フリー百科事典『ウイキペディア ( Wikipedia ) 』になっている。懐かしいと思うし、幸いだとも思う。

一日も早く、「白髪三千丈 Wikipedia 」の記事が生まれ変わり、疑問マークと正確さに疑問があるという「タグ」が外され、山上に登った船が、また、河に戻って来れる事を望んで止まない。

、、、、  白髪三千丈 ウイキ記事 全文終り  、、、、

【  wikipedia 「白髪三千丈」 仁目記事  山に登る 】    (二) 仁目子

2022-04-30 03:21:41 | Weblog
ーー  一挙に群がる船頭達 
   「船頭多くして、船 山に登る」  ーー


「好事、魔多し」とか、「出る杭は打たれる」というような俗語が世間で良く言われるが、それまで、李白を杜甫に間違えても、誰も見向きせず、訂正もしない記事が、利用者「仁目」( 以後「仁目記事」と称する) による大幅な改訂で「秀逸候補」に推薦された途端、俄然、風当たりが強くなり、一挙に船頭達が四方八方から群がり寄って来た。

ウエブで「白髪三千丈ウイキペデイア」を検索すると、「ノート: 白髪三千丈ウイキペデイア」という記事も、前後して一緒に出て来る。
「白髪三千丈ウイキペデイア」本文記事の外に、なぜ又、「ノート、、、」が影のように付いて出て来るのか?他の項目記事にはない不思議な現象である。

又、面白い事に、この「ノート、、、」は、本文の記事よりもずっと長文で、それだけに内容も豊富なので、本文記事の「舌足らず」を補って呉れる。「白髪三千丈」に深い興味のある読者は、是非ウエブでその「ノート、、、」に目を通してみる事をお薦めする。( かなりの長文なので、この記事で引用しない) 。

この「ノート、、、」は、秀逸記事に推薦された「仁目記事」に対する賛否の意見や議論や疑問と、それに対する、「仁目」の回答を書き込んだノートであり、2008/08/01 のHATENA 妄言砂漠 というブログに、「白髪三千丈 wikipedia」と「ノート、、、」について、次のようなコメントが載っていた;

《《 最新版はコンパクトにまとめられていますが、ノート
   での議論と履歴が充実していてたいへん勉強になりま
   した 》》

これで分かるように、ノートの内容は本文記事よりずっと充実しているので良い勉強になる。

このノートは、2004年5月31日から2006年七月27日まで、二年余りに亙り、仁目を含め計九人の「船頭」が議論に関与している。


先ず、「仁目記事」を「秀逸記事」に推薦した管理者であるMishika が、

《《 お願い、中国文学に不明な人には読めないだろうという漢
   字には、そのあとに( )で読み仮名を入れていただける
   とありがたいです。 Mishika 2004年5月31日 》》

という所から始まり、その後、続いて七人の「船頭」が変わるがわる疑問質問を出し、「仁目」がそれらに対し、それ相応の回答をしているが、多数の船頭による舵取りで、船の進路はなかなか安定しないまま、2006年7月7日に至り、ついに、「TUM」という船頭の独断で、《思い切って整理しました》という一言をノートに残して、「仁目記事」を改訂し、今日に到っている。

ウイキペデイアの記録によると、「TUM」という利用者は、2006年6月6日にWiki に参加して、2006年7月13日にWiki を去っていた。
つまり、2006年6月6日に加入した「TUM 」という新参船頭によって、7月7日「仁目記事」は十五行程度に減らされ、ズタズタに改訂され、その一週間後に彼はWiki を離れている。わざわざこの記事を荒す為にwiki に参加したようなものである。

嘗て「仁目記事」を「秀逸候補」に推薦したベテラン管理者「Mishika 」は、この記事の改訂を見て、2006年7月12日、次のような感想を利用者「仁目」宛てにwiki の「会話ノート」で述べていた;

《《 白髪三千丈、お久しぶりです。白髪三千丈を拝見しまし
   た。寂しい限りです。当てはまるかどうか、「船頭多く
   して船山に登る」ごとき集団の知恵の行き着いた先がこれ
   か、という思いですね。それにしても骨抜きしすぎで、含
   蓄も教養も抜け落ちてしまった記事になってしまったよう
   です。それでも最低限のことは追加執筆で補うしかないの
   ではないでしょうか。所詮、デモクラシー優位の共同作業
   なので、かなりの妥協をするしかないかと思いますけど。
   心中お察しします。 Mishika 2006年7月12日 》》

「船頭多くして、船 山に登る」とは、正しく言い得て妙である。記事一篇は、船一隻に相当する。七、八人の船頭が依ってたかって一つの「舵取り」を奪い合う、船は岩にぶっつかるか、山に乗り上げるしかないだろう。

因みに、この議論に関与した船頭の内、上述 Mashika, Tum , 仁目の三人の外に、その他六人の「船頭」( 利用者) をwiki の記録で見てみると、三人が素性不詳で、一人は生物、器官、毒物が主な興味となっており、その他二人については、これと言った経歴は見つからない。
つまり、この議論に関与した船頭達の中で、「仁目」「Mishika」を除き、その他は全て李白や詩歌や文芸という分野に於いて、或る程度の素養乃至造詣があるようには見えない船頭達ばかりで、それでは、船が河を走らず山の上に登ってしまうのは、無理もない。結果は、Mishika 氏が言うように、《寂しい限りです》の「白髪三千丈 wikipedia 」記事に生り果ててしまった。

白髪三千丈という文句が、誇張であるか否かは、白髪を「伸びる」に解釈するか、或いは「増える」に解釈するか、それでもって答えが決まると言っても過言ではない。
この文句の本家である唐土では、「髪の毛は伸びる、が、白髪は増えるもの」、という古くからの用語慣習に従い、白髪三千丈は、シラガが増えたという修辞学上の表現であるとして解釈しているから、この文句が誇張などとは毛頭思っていない。
それが、「仁目記事」の論旨要点でもある。

所が、日本では、俗語になり、誇張の代名詞として使われているので、この文句は「誇張」ではない、という仁目の論旨は、管理者 Mushika の推薦を得たものの、その他多くの管理者の「反発」に遭い、日本では「誇張」として使うのが当たり前、という「潜在意識」が強い為、推薦の賛同よりも、保留する者が多く、結果、秀逸推薦は通過しなかった。

「 船頭多くして 船 山に登る 」という一言に、共感を感じて、仁目は、それっきりウイキに投稿するのを止めた。 

、、、、  つづく 、、、、


【  wikipedia 「白髪三千丈」  最初の仁目記事 】 (一)  仁目子

2022-04-29 04:46:38 | Weblog
ーー  かぼちゃの投稿で、 李白が杜甫になっていた  ーー
ーー  出だしから 舵取りが怪しい 船頭  ーー  


ウエブに、「白髪三千丈 wikipedia」という項目が出ている。Wikipedia は衆知のように、「フリー百科」だから 、物事「本来の姿」を正しく伝える為に存在している文献である。

そのWikipedia という自由百科に、世に名高い「白髪三千丈」という詩句の記事が初めて載ったのは、十九年前の2003年9月19日であった。

「左利きのかぼちゃ」という「利用者」の投稿で、記事の内容は、僅か三行余りで、以下のようになっていた;

《《 白髪三千丈は、唐代の詩聖杜甫の「秋浦歌」の冒頭の一句
   である。日本では中国人の誇張癖を象徴するものとしてし
   ばしば引用されるが、中国ではそういう使い方はしないよ
   うだ 》》

かぼちゃと名乗るだけあって、詩仙李白が詩聖杜甫になり、「秋浦歌」第十五首の冒頭一句を、「秋浦歌」の冒頭の一句と書いている。
この利用者は、Wiki に三行の記事を残し、三か月後の、2003 年 12月7日に《何と幸せか、我をウィキペディアンと言える者は(嘘) 》という一言を残して wikipedia から去った。

これが「白髪三千丈 woikipedia 」最初の船頭である。この船頭は、李白を杜甫に、綺麗に間違えている。だから、この船は出だしから舵取りが怪しいのである。

2003年11月30日に船頭が「Makoto」に代わり、記事は次のように、二行に縮小された;

《《 白髪三千丈は、唐代の詩聖杜甫の五言絶句「秋浦歌」の
  冒頭句。誇張が甚だしいときの比喩で使う 》》

「Makoto」も、相変わらず、李白を杜甫に間違えている。この船頭は 「wiki は国語辞典ではありません」 という「迷文句」を残して、僅か二日後の同年12月1日に wiki を去った。

同日(2003年11月30日) 第一船頭「かぼちゃ」に依って、記事は又、
 
《《 白髪三千丈は、唐代の詩聖杜甫の「秋浦歌」の冒頭の一
   句である。日本では中国人の誇張癖を象徴するものとし
   てしばしば引用されるが、中国ではそういう使い方はし
    ないようだ 》》
に差し戻された。

2004年2月10日に至り、第三船頭「らりた」に依り、やっと、杜甫を李白に訂正し、船は少し前に、動き出し始めた;

《《 白髪三千丈は、唐代の酒仙李白の「秋浦歌」の冒頭の一句
   である。日本では中国人の誇張癖を象徴するものとしてし
   ばしば引用されるが、中国ではそういう使い方はしないよ
   うだ 》》

2004年3月17日、第四船頭「corwin 」により、更に、若干改訂される;

《《 白髪三千丈(はくはつさんぜんじょう)は、唐代の酒仙李
   白の「秋浦歌」の冒頭の一句。「白髪が三千丈の長さに伸
   びるくらい長いあいだ」という意味で、長期間をあらわす
   表現のひとつである。日本では中国人の誇張癖を象徴する
   ものとしてしばしば引用されるが、中国ではそういう使い
   方はしないようだ 》》

このように、半年の時間と四人の利用者交代を経て、やっと、杜甫は李白に修正されたが、「秋浦歌」の冒頭の一句は相変わらずそのままで残った。
その後、2004年5月22日から 30日にかけて、第五船頭「4、46、195、225」によって、従来の記事に加え、内容は、下記のように大きく新規改訂編集された;


ーー  以下、新規改訂記事  ーー

【  白髪三千丈 」の 真意  】

ーー   箇(か)くの似(ごと)く長(ふえ)たり⋯ ーー

《《  白髪三千丈(はくはつさんぜんじょう)は、唐代の李白の五言絶句『秋浦歌』第十五首の冒頭の一句。
この句は、日本で、「白髪が三千丈の長さに伸びた」という意味で解釈されている場合が多い。その為に、日本では中国人の誇張癖を象徴するものとしてしばしば引用されるが、中国ではそういう使い方はしない 。

(1)  「原義と日本語の意味のズレ」

この文句は日本でよく誇張の代名詞として使われているが、、、、 何故原産地の中国で誇張の表現として使われていない文句が、日本で誇張の表現として使われるようになったのか? その原因は、解釈の違いにある。つまり、日本は字面だけを捉え、真意を解していないためである。白髪、つまりシラガは、増えるものであって、長く伸びるとは言わない。伸びるのは髪の毛であり、白髪はそれの変色した部分を指して言う。だから、白くなった髪の毛が多いか少ないかが問題になる。

李白の「秋浦歌」は計17首よりなっている。白髪三千丈は、そのうちの第十五首の冒頭の一句である。 白髪三千丈、 縁愁似箇長、 不知明鏡裏、 何処得秋霜  が第十五首の全句で、最終句が 「何処より秋霜を得たるか」となっている事からも分かるように、頭上の白い部分が一面霜降りの状態になっている。つまり、李白はシラガが増えた、或いは、多くなったと言っている。

中国の詩集「千家詩」の現代語注釈をみると、

《《 白髪三千丈は、頭上の白髪がふえた、一本一本継ぎ足すと延べ三千丈になるだろうとの作者の嘆声。》》  になっており、長く伸びたとは言っていない。

又、三千丈という表現は、仏法の 「三千大千世界」から来たもので、元は、広大無辺の仏法世界を意味していた概念を、文人達が取り入れて、「極めて多い」、「極めて広い」などという意味で包括的な形容に使うようになったものであって、算術の「三千」ではない。
従い、白髪が長く伸びた、三千丈の長さに伸びた、という日本人による解釈は間違った字面の解釈であり、本来の詩句、李白の言わんとする真意を解していない。

従い、この文句でもって、中国人の誇張癖を象徴するものとして引用するのは、見当はずれであるのみならず、日本人の漢文素養が疑問視されるもとになる。

(2〉   「箇くの似く長(ふえ)たり」

『秋浦歌』第十五首は、白髪三千丈に始まり、続く第二句が「縁愁似箇長」になっており、その日本語訳は「愁いに縁(よ)って 箇(かく)の似(ごと)く長(なが)し」となっている。 だから、白髪は長く伸びた という解釈に結び付く。

ここで、「長」という漢字が内包する意味を検証してみる。 『広辞苑』に七通りの意味が載っている。「ながいこと」の意味は、その六番目に出ているが、その前に、「かしら」「としうえ」「最もとしうえ」「そだつこと」「すぐれること」などが挙げられている。 旺文社『漢和辞典』は、上記の外に、「いつまでも」「おおきい」「あまる」「おおい」「はじめ」などが挙げられている。 試しに、中国の『辞海』も見てみる。そこには、次のような意味が新たに見られる。「速い」「久しい」「引く」「達する」「養う」「進む」「多い」「余り」など。

以上でほぼ分かるのは、「長」という字は、必ずしも「長い」「長くなる」という意味に限定されていない ということである 。 俗語の「無用の長物」、この「長物」は辞書により、「長すぎて使えない物」「全く役に立たない物」「余分な物」「ぜいたくな物」などに分かれて解釈されているが、そのどれが正しいかということより、その場その場の使い様で、このような異なる解釈が生じた、と見る方が妥当ではないかと思う。 「長」という字に、「多い」という意味も内包されていることに、大抵の人は意外に思うかも知れない。

すると、「愁いに縁って箇の似く長し」という読み方を、「愁いに縁って箇の似く長(ふえ)たり」に読み替えても、それは間違いであるという根拠は何処にもない。 あるとすれば、李白に質すだけであるが、それが出来ないなら、李白の意を汲んで読むしかない。

この句の後に続く、不知明鏡裏、何処得秋霜、の二句を見る。「知らず明鏡の裏(うち)、 何れの処より秋霜を得たるかを」、李白は、ある日、鏡に映る頭上の秋霜に愕然とした。 何処から降って来たのだろう、この秋霜は?  と言う。 もともと、髪の毛が白く、それが伸びたのであれば、李白は気付かない筈がない。 黒い髪の毛が、灰色に、そして白い色に徐々に変色したから、見落としていただけのこと。 ある日、突然鏡に映る頭上の秋霜に気が付く、誰しも、「シラガが増えたなあ!」と溜め息を付く。「シラガが伸びたなあ!」とは言うまい。

(3)   「シラガの算術」

漢文は、文字自体、字画が多くて複雑であるだけに、そのような文字によって表現される意味も往々にして奥が深く、分かり難いところがある。俗に云う、「意味深長」である。チンプンカンプンという日本語の元が「珍文漢文」であることからもよく分かる。
「白髪三千丈」は漢文だから難解である。それを算術に切り換えて見たらば、存外分かり易くなるのかも知れない。試みに、「白髪三千丈」を漢文と仏法から切り離して、算術で計算してみる。
一丈が十尺で、一尺が 33.3 センチだから、一丈は 303 センチ、つまり 3.03 米になり、三千丈は、9,090 米の勘定になる。一万米 足らずである。人間の髪の毛は、一般に約十万本あると言われている。仮に、一本当たりの長さを 10 ー15 センチと見積もると、延べ長さは約一万から一万五千米に達する。三千丈を遥かに上回る。
だから、三千丈を単なる数詞として、算術で計算してみても、かなり保守的な数字であるということが分かる。李白は、誇張どころか、大変に保守的な表現を使っている。勿論、李白が算術を頭の中に入れて詩を詠う訳がないが、詩句を数詞として読む人には、このような解説が必要かも知れないので、敢えて、ここに付け加えたもの。

(4〉  類語

「佳麗三千人」

李白は、西暦762年に亡くなったが、奇しくも、同じ年に唐玄宗も亡くなっている。その43年後、詩人白居易(白楽天)が、玄宗と楊貴妃の悲恋物語「長恨歌」を作る。その中で、白居易は、「後宮佳麗三千人、三千寵愛在一身」と詠い、後世の人々は、それにより、玄宗の後宮に美女が三千人居ることを初めて知った。

果たして、その通りだろうか?答えは「否」であろう。

先ず、「詩歌」というのは、「歴史書」ではないという事。 次に、良識で判断してみること。 楊貴妃が皇帝に望まれ、始めて驪山の華清池に召された時、玄宗は年が56、貴妃は22で、正式に妃に冊立された時、玄宗は61、貴妃は27であった。

それから、二人は日夜一緒に暮らすわけだが、精神的な慰安は扨置き、肉体的な溺愛は、心欲すれど、体力意の如く成らず、と云った所が実状であった筈。

「三千寵愛在一身」というのは、玄宗の全ての愛が貴妃一人を対象にしていた事を物語っている訳だが、61の年寄り、しかも、今から1300年昔の61だから、昨今の80歳位の爺さんに相当する。如何に妖艶であろうと、よれよれ爺さんに、美女は一人で充分であろう。だから、白居易は「三千寵愛在一身」とはっきり詠った。

そこから、もう一つ考えてみるべき事がある。ならば、「後宮佳麗三千人」は何の為、誰の為にあるのかという事である。

答えは、常識で判断出来る。つまり、後宮に佳麗は居たが、三千人は居なかったという事である。

玄宗は、そんなに覇気のある皇帝でない、況して、貴妃一人だけを終始溺愛した。
貴妃が非業の死を遂げたあと、玄宗皇帝の悲しみは並み並みならぬものであった。「長恨歌」の中で、白楽天は玄宗の深い悲しみを、 天長地久 有時尽、 此恨綿綿 無絶期   と形容している。つまり、天長地久と言えど尽きる時がある、しかし、此の恨みは綿綿として絶える期(とき)は無い、というのである。

玄宗はかなり純情だったようで、一人の美女にぞっこん惚れ込み、そして、彼女が亡くなったあとは、深い悲しみに沈み、夜な夜な、枕を抱いて、独衾(ひとりね)していたそうで、そのような純情皇帝の後宮に、三千人の美女を置いて遊ばせる必要は毛頭ない。察するに、言わんとするのは、後宮に美女が多数居たということであろう。百人居たかどうかも疑わしい、勿論、三千人など居るわけがない。良識で判断すれば、こうなる筈。だから、詩歌の一句を以って史実に当てるのは、何ら意味を成さないと言える。

「百代、千代、万代」

上記の三つの異なる年代、或いは年月の標記がある。この中の一つはよく女性の名前に使はれる。例えば、木暮三千代、新珠三千代、、などなど。ところが、三百代、三万代、という女性の名前は見たことがない。辞書で見ると、百代、千代、万代、の意味は各々に、長い年月、非常に長い年月、限りなく長く続く世、になっており、百年、千年、万年とはっきり区切られた意味で出ていない。つまり、これらの数詞は、「長い年月」という包括的な意味を表わす形容詞であるということが分かる。
何故、「三千代」に限って女性名に使はれるのか?恐らく、「三千大千世界」に始まる、仏教信仰の縁起かつぎから来たものであろうと思はれる。これは何も、女性名に限ったことではない。幕末の勤王志士 高杉晋作が詠ったとされる有名な都々逸に、 三千世界の鴉を殺して、主と朝寝がしてみたい  というのがあるが、これも「三千」であって、百や万の世界ではない。高杉はただ「天下の鴉を殺したい」と言ったまでのことである。

これが、この「三千」という仏法概念の日本に於ける使い方である。同じこの「三千」という数詞が、他国人の口頭や、文書に表れると、「あれは大袈裟だ」と多くの日本人は思う。

「三千代」は大袈裟でないのに、何故、「三千丈」なら大袈裟になるのか。髪の毛は三千丈に伸びる訳がない、同じように、人の命も三千代活き長らえる訳がない。日本に、「論語読みの論語知らず」という言葉がある。字面の上で理解するばかりで、真意がつかめないことのたとえであるが、李白の詩句「白髪三千丈」を誇張な表現だという人は、恐らく、「漢文読みの漢文知らず」の中に入る人達であろう。

(5〉   類似語

「黄塵万丈」

真夏の田舎道で、疾走中の車が捲き起こす砂塵に辟易して、「これは 黄塵万丈だね」と形容する事がる。東京堂の「故事ことわざ辞典」は、白髪三千丈を、白毛が非常に伸びたと解釈し、続いて、「この句は黄塵万丈などと共に誇張の例に良く引かれる語である」という注釈を付け加えていた。

黄塵万丈、この言葉は、中国大陸のゴビ沙漠や黄土高原が出身地で、強風の季節になると黄塵万丈の自然現象が日常茶飯事のように生じる。実際に現地に居なくても、シルクロード探検の記録映画を見れば、十分に実感を味わうことが出来る。

黄土平原から吹き上がる黄塵は遥か北京の空を覆うのみならず、時おり、海を越え、日本に迄達することがある。二○○一年の春、福岡空港がこの黄砂の為にしばしば閉鎖された。この黄砂というのが「黄塵」である。北京はおろか、福岡迄、風に乗って到着する黄塵だから、その飛行距離は「万丈」程度の短距離ではない。因みに、万丈は約二万八千米、つまり、二十八キロ足らずの距離でしかない。

日本は島国だから、黄土高原も沙漠もない。従い黄塵もない。あるのは砂利道と、砂埃だけである。そのような実態であるにも拘らず、黄土高原や砂漠の為にある形容詞をそのまま輸入して砂埃の形容に当てて使うから、全くちぐはぐになってしまう。つまり、そのような誤った使い方をすると表現が大袈裟になり、そして「誇張」になってしまうのは避けられない。黄塵万丈、言葉そのものは、大陸風物の現実であり、何らの誇張はない。日本に於ける、この言葉の誤用が「誇張」なのである。「故事ことわざ辞典」が、「白髪三千丈は黄塵万丈などと共に誇張の例に良く引かれる語である」という。果たして、上述の事実を踏まえた上での注釈であるかどうか、気になるところである。

(6)  「三千の落ち穂拾い」

「子規の俳句三千」

「 三千の俳句を閲 ( けみ ) し 柿二つ」

これは、子規が詠った俳句である。 この句をくだけた現代語に直すと、「三千の選句を終えて、好物の柿を二つ食べ る」、になって読み易くなる。

俳人 正岡子規は身体があまり丈夫でなかった。 三十五歳の若さで、肺の患いで 亡くなった事からも、病弱に生まれたということが分かる。そのような弱い身体 で 「三千の選句」がこなせるのかと思う。 一寸 心算してみる。仮りに、一句に一分の時間を掛けたとする、三千句を閲 ( けみ ) し終えるのに、優に五十時間は掛かる。五十時間働いて、やっとこさ柿二 つを食べる。生身の人間の身体が持つ訳がない。況して、病弱の子規。 思うに、子規は三千もの厖大な数の句を閲したわけではなく、「沢山の選句を終 え、一段落して、柿を二つ食べた」、ということであろう。あろうと言うより、 正にその通りに違いないのである。 その沢山というのは、二十句か、五十句か、 はたまた百句か、それはもはや定かではない。が何れにしても三千句ではない。

それとも、いや、子規は間違いなく、三千の選句を終えて、始めて柿を二つ食べたのだ、と言い張る御仁が居るのだろうか。 》》


改定編集は、以上のように、大変な改訂工事であり、船は大きく動いた。この大改訂工事を行なった第五船頭「4、46、195、225」は、その後「仁目」という利用者名に改めた。(即ち、本文の筆者である)。

2004年5月30日から31日にかけて、この改訂記事は、管理者「Sat.K 」によって、体裁を整える為、下記のような「目次」が付けられた;

《  目次  》
 
   ( 1)、    原義と日本語の意味のズレについて
   (2)、    シラガの算術
   (3 )     類語:
   (3、1 )   「佳麗三千人」
    (3、2 )   百代、千代、万代
   (3、3 )   黄塵万丈 

内容が飛躍的に充実し、体裁も整ったこの記事は、同日( 5月31日) 、同じく管理者である「Mishika 」により、次のように推薦された。

《《  (ノート) 推薦します。百科事典の記事としても注目でき
   るし、また一般の理解の誤解を指摘しつつも、驕慢に流
   れず、品位のある記事のスタイルを保っていることに敬
   意を表したいと思います。
   Mishika 2004年5月31日(UTC) 》》

これによって、2004 年5月31日の時点から、「白髪三千丈 wikipedia」の記事に下記のような「タグ」ガ冒頭に付くようになった。

《《 この記事は秀逸な記事に推薦されています。秀逸な記事
   の選考にて、批評・投票を受け付けています 》》

振り返ってみると、2003 年9月に始まった僅か三行の記事が、八か月を経て、六十行以上の記事に成り、秀逸な記事に推薦されるという事は、それなりに内容が充実して来たという事を意味するのに外ならない。

この間、この航海の舵取りに携わった船頭は、利用者、管理者併せて、優に七、八人に上る。多数の協力有っての成果というものであろう。

、、、、  つづく  、、、

【 島国人間 の 好き嫌い 】  (下)   仁目子 

2022-04-27 08:40:41 | Weblog
ーー  孔子の教え、 いま何処 ?  ーー

「孔子家語」の伝えによると、子は、次のような教えを残していたという。

《《 子曰く、良薬は口に苦けれども、病に利あり。忠言は耳に逆えども、行いに利あり。湯・武は諤諤を以て昌え、桀・紂は唯唯を以て亡びたり 》》

孔子のこの家語は、「良薬、口に苦し、忠言、耳に難し」で、日本にそのまま伝わっているが、それを「和風」に書き換え、和風類語として : 「苦言は薬なり、甘言は病なり」とも言う。

大平洋戦争前、日本帝国の拡張を封じ込む為の、「A. B. C. D. 包囲陣」というのがあった。 A = America , B = British , C = China , D = Dutch ( Hoilland ) によるこの封じ込みは、角度を換えて見た場合、親ごが勝ち気でわんぱくなきかん坊の暴走を食い止めようとする姿勢に似ている所がある、と言う事も出来なくはない。

日本という国の、文化文明、近代化の基礎は、殆んどが「舶来の力」に助けられ、徐々に発展を遂げたもので、この歴史の過程は否定のしようがないものである。
米国は「日本の開国」、英国は「皇室の近代化」「海軍の模型」、唐土は「日本文字文化の源泉」、オランダは「蘭医学の開祖」として、各々に、日本の歴史に計り知れない貢献をした、恩の深い国々である。だから、日本は一時期自分を「中国」「小中華」と称した事もあり、維新後は、「脱亜入欧」を夢見ていた事からも、これらの国々に対し、少なからず「畏敬」と「恩義」を感じていた事が分かる。
所が、皮肉な事に、明治開化後、一人前に育ったかのように見えた「日本」は、手の平を返すように、これらの国々に「恩を仇で返す」ような行動を取り始めた。

A. B. C. D.が万事につけ正しかったとは言はない、又、日本が万事につけ間違っていたとも言はない。だが、仮令間違いがあっても親は親であり、恩人は恩人であり、極めて「恩義」を重んじるサムライの国であれば、仮令、恩返しが出来なくても、少なくとも、「仇で返す」事だけはするべき事ではない、そうではなかろうか。
A. B. C. D.包囲陣を突破して狂喜し、日夜「提灯行列」に浮かれた「帝国日本」は結局崩潰してしまった。私も小さい頃「提灯行列」に浮かれた、貴重な体験をした。

「帝国日本」の崩潰に際し、列島一億の民は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」よう、天皇に求められた。嘗ての恩人達 ( ABCD ) が, 「日本よ暴れるのは止めさない」という苦言を、日本が聞き入れていたなら、「帝国日本」を潰さずに済み、列島の民草も「耐え難き耐え、忍び難きを忍ぶ」苦難に遇わなくて済んだ筈である。
その前に國際聯盟の脱退というのがあった。

1933 年2月、國際連盟で、満州における中国の主権を認め、日本の占領を不当とする決議案が、賛成42の圧倒的多数で可決された。この決議に反対票を投じたのは日本だけだった。
42票対一票の結果にも拘らず、日本は国聯から脱退した。つまり、世界を「敵」に回した事になる。それは、ナチスとの同盟があるという「恃 ( たの ) み」があったであろう。その立て役者だった松岡洋右は帰国後、列島で「国民的英雄」に祭り上げられた。しかし、後年の松岡は、ナチスとの同盟を推進したのは「一生の不覚」だったと悔やんでいたと伝えられている。
それから、十年も経たず、日本は全世界に「戦」を挑( いど) んだ。「勇ましい」と言えば聞こえは良いけれども、実際は、「短気」と「意地」が合わさって「激情化」した揚げ句の、血気に逸( はや) る無謀な「戦」であった、という事を、戦後日本の識者が殆んど例外なく指摘している通りである。

それは、簡単に詰めて言うと、「好き、嫌い」の下僕になった島国人間の、感情の動きが如何に激しいかを物語っているのみならず、「甘言は喜ぶが、苦言は極端に怒る」という心情の一方的な偏( かたより) も同時に表わしている。その所に、外国人との付合いを好まない日本人の「弱味」というものを感じとる事が出来るような気がする。

今の日本は、遠い国米国に一辺倒のように見え、そして、近隣諸国とはさ程仲が良くないようで。だから、嫌韓、嫌中、親日、反日、などのような「剣呑」「殺伐」な用語が紙面に溢れている。
一寸、目を通して見ると、「嫌」「反」という字を、「悪」という字と結び付け、「親」という字は「善」と結び付けられて使われている場合が多いようで、これはとんでもない事だと思う。

「不味いから、嫌い」が嫌いであれば、「食わず嫌い」も嫌いになるから、好き嫌いは、善と悪の問題よりも、明らかに、感情的な、感覚的な要素に左右される場合が多い。

具体的に、ウエブに載っている「好き嫌い」を表す記事数字を参考までにここに出してみる ; (検索日 ; 2012 年 9 月 2 日 )

 嫌韓 11、900、000 件   親韓 11、400、000 件
 嫌中 3、230、000 件   親中 12、800、000 件
 嫌米 98、300、000 件   親米 816、000 件
 嫌日 12、300、000 件   親日 4、840、000 件

このような具体的な数字を目の前にして、「あれっ」と意外に思われる人は少なくない筈である。

先ず、米国一辺倒だと思われている「日本」のウエブに出ている「嫌米」記事が98、300、000 件に対し、「親米」記事がその百分の一にも満たない 816、000 件 しかない事。
次に、「嫌韓」と「親韓」の記事が ほぼ 同じ数字である事。
三つ目に、「嫌中」記事の数が 「親中」記事の四分の一しかない事。
最後に、「嫌日」の記事数が、 「親日」記事よりも三倍 多いという事。

上記四つの記事数字の割り振り( 配分) は、かなり予想外のものであり、その間の「矛盾」をどのように説明すればよいのか、私に分からないが、一つだけ言える事は、列島の人びとは、果して、好きと嫌いのけじめ、そして、自分の 「良友」と「悪友」が見分けられるのだろうかという疑問を抱かずにおれないという事である。

前文にて述べた、ザビエルはフロイトよりも、日本人に受けが良いのは、「ザビエル」は、本国に送った手紙で、「日本人はこれまで自分が接触した国民の中で、 一番優れた国民であると言っている」という文句に集約して紹介されている。つまり、最高に日本を褒めたと云う事に日本人は喜び、ザビエルは、ただそれだけで、日本人に好かれているわけだが。実際に、ザビエルが本国に書いた手紙の本文には、「日本は、自分が知っている「未開化国」の中で、潜在力がある」と書き、日本を未開化の国と見なしていた。それを、日本人の翻訳者が、改ざんして、未開化の文句を意識的に削ってしまったものであり、実際は、ザビエルは、「日本人はこれまで自分が接触した国民の中で、 一番優れた国民であると言っている」とは言っていない。 

日本人翻訳者が、嘘の翻訳をしたおかげで、日本人はすっかりザビエルが好きになったわけで、「嘘でも嬉しい」という目出度さに、日本人は騙されていたわけである。

マッカーサの「日本十二歳」は、愚かな太平洋戦争を起こした、元帥の、日本に対する「苦言」であり、口に苦いけれども、良薬だから、感謝をすべきところ、逆に、日本人はマッカーサーを憎んだ。

日本人は、古より孔子に学び、その家語の、「良薬、口に苦し、忠言、耳に難し」を、日本にそのまま伝えて、「和風」に書き換え、「苦言は薬なり、甘言は病なり」とも言っている。 どうして、マッカーサーの苦言を薬として受け止めないのか、大変理解に苦しむ。

要するに、島国人間の「根性」は、是非の見極めよりも、単なる感情的な好き嫌いを優先させる、という特殊性格を有するので、物事の是と非を、感情の赴くままに、任せてしまう為、大変愚かな「対米戦争」に敢えて突入した、としか思えない。 そして、神社に祀って然るべきマッカーサー元帥を、憎むという、常理では考え難い事をするのだろう。