李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

随筆 【 日本語 の 襟を正す 】 その二

2022-12-20 08:21:41 | Weblog
 第二話   日本語 の 復習  

ーー  チンプンカンプンが多すぎる、「なぜ だろうか ? ーー
ーー  奇を衒う か 臍曲がり か 無知 なのか  挙げ句が、
    「語学音痴」の 栄える社会を作り上げた   ーー

「夢の中で亡き友と再会した」、と言うのと、「夢中で仕事した」、と言うのと、同じ、漢字の「夢中」を使っても、「の」が、付いているのと、付いていないのとで、意味は、全く違う。

「夢の中」は、眠っているうちに見る夢のなか。 英語だと、in a dream  になる。一方、「夢中」は、物事に熱中して 我を忘れる事。英語だと、 crazy になる。 大変な違いである。
漢字の本家 中国では、「夢中」は、in a dream、つまり、睡眠中に見る夢、 の意味一つしかない、なのに、列島に、なぜ全く繋がらない二つの意味があるのだろう。
なぜだろうか ?  

短距離世界第一人者 Usain bolt は日本でウサインボルトと読んでいるが、日本以外では、皆、ユセインボルトと読んでいる。所が、 Sadam hussain を日本ではサダムフセインと読んで、サダムフサインとは読まない。

この二人の横文字名前に、全く同じ部分が一か所ある。usainのsainとhussainのsainである。ところが同じsain を、日本人は一方をサインと呼び、もう一方をセインと呼んでいる。
なぜだろうか ? 

Top golferのRory McilroyのMcilroy は、日本で二通りの読み方があって、一つはマックロイで、いま一つはマキロイとなっている。

日本ゴルフダイジエスト社が本人に確かめたところ、「ク」であって、「キ」ではないという事が判明したので、その結果を公( おおやけ) にした。そして、留学或るいは滞米経歴を持つ日本人は問題なくマックロイと読んでいる。にも拘らず、日本のマスコミ報道は挙ってマキロイと標示し、庶民の多数もそれに従ってマキロイで通している。

Usain boltをユセインボルトと読めば、Mcilroyをマックロイと読めば、世界中どこでも通じるが、ウサインボルトとマキロイでは日本でしか分かって貰えない。それでも、日本人は外国人に「通じない」方を選んで使う。

なぜだろうか ?

米国の Mc Donalds が日本で開店したのは 1971 年で、今から四十数年前になる。世界ではマックダーノで親しまれているが、日本ではマクドナルドという舌を噛みそうな発音に換えている。理由は、この方が日本人に親しみ易いからだという。

近年になり、マクドナルドはダサイだという声が増えて来たので、それをマクドやマックに縮めて使い出した。だが、発音し易く、世界どこでも通用するマックダーノは依然として使わない。
言葉の用途が意思疎通の為にあるなら、多くの人と通じる道を選ばずに、通じない道を日本人は選ぶ。

なぜだろうか?

一事が万事、日本人は「日本」らしい発音を好む、という事が先ず考えられる。
だからUsainの U にはユーではなしに、平仮名読音のウを当て、そして同様にsainはセインの替りにサインとしている。それでいて、マクドナルドをマックに換えるのは、逆に日本風の発音から遠ざかる事になるから、これは可笑しい。

そこで、外国人に通じない外国語の発音を選ぶのは、日本風発音を好む事以外に、又、何か外の原因がある筈で、例えば、従来、マクドナルド一本で全国で通用していたものが、今度は、関西がマクドで、関東がマックと、二つに分けたのは、その様な必要性があるとは思えないから、これは、寧ろ、単なる旋毛(つむじ)か臍曲がり人間の遊び事に過ぎないと見る方が正解ではないかと思う。

旋毛曲がり、臍曲がり、という日本独特の用語は、国語辞書の解説によると、「性質がひねくれていて素直でないこと」だそうで、ツムジでもヘソでも、どちらでもよく、要は、「曲がっている」「素直でない」という所に問題がある用語である。

そのような「素直でない」用語の性質を表す最も卑近な例として、「負け嫌い」とすっきり言わずに、曖昧模糊な「負けず嫌い」を好んで使う事、更に、「ニソクサンモン」という捨て値形容詞の語源が草履から来ているというのにのに、「二足三文」と言わずに「二束三文」と言う、などなど多くの「素直でない」表現が日本語に多く見られる。

「素直でない」表現を好むのは、その裏に、「奇を衒( てら) おう」とする潜在意識があるからであろう。

なぜ「奇を衒( てら) おう」とするのか、国語辞書に依れば、「わざと普通と違っていることをして人の注意を引こうとする」ということだそうで、大衆が右に向けば、自分は左の方に向けて歩き、他人の注意を引こうとするようなものであろう。

日本は、「痩せ馬」であるが、何とか「駿馬」になろうとしている。人によっては、既に、立派な「駿馬」であると自負している日本人も少なくない。

そう自負するのは勝手な事ながら、「痩せ馬」は依然として「痩せ馬」であるという現実を変える事は出来ない。そのような「ジレンマ」( 二率背反) は、近代に入った後の日本を百数十年引き摺って来た。その為に、今だに、「日本はどこへ行く」という質問を執拗に繰り返しているのみで、「出る道」は見付かっていない。見付からないのは、振出しから、道を歩き間違えたからであろう。

一度、ニューヨークで見た、富士サンケイの T V 番組に、漢字の書き方についての街頭質問が放送された。

「上」という字の筆順はどうやって書くのか、という質問を五人の通行人に出したところ、正しい答えを出したのは、戦後育ちの若者一人だけで、その他、漢字に強い筈の中年年配の人達は全員間違っていた。

「上」という字は、まづ立て棒を先に引くことも出来る、または、ヨコ棒を先に書くことも出来る。つまり、I - 上でも、- I 上 でもよいので、昔から、二通りの筆順が一般に使はれていたが、戦前の学校は、- I 上の順で教えていた。

それが、戦後しばらくして、戦前の教科書筆順に問題ありとして、教育当局が五人の著名書道家に是非の審議を依頼した所、五大書道家は I - 上 が正しいという結論を出した。それで、戦前の教科書の筆順を取り消して、新たに、I - 上 の筆順に変えてしまった。一人だけ戦後育ちの若者が正解を出したのはこのためである。

「上」という字は、原産地の中国に於いて、二通りの書き方で数千年来通用して来た。別に何ら支障もなく、殊更筆順を問題にする人も居ない。
所が、列島ではそれを一通りだけにしなければ気が済まない、云うなれば、日本人の一徹な気性がそこにありありと現われている。この場合は、明らかに、「問題にならない」事を「問題にしている」一徹ぶりである。 漫才や落語に出てくるような笑い話に等しい。

それでいて、「負け嫌い」と「負けず嫌い」、「二足三文」と「二束三文」などのような極端に矛盾する用語については、全く意に介せずにほったらかしている。なんとも、ちぐはぐな列島社会の気質である。

言葉というのは、社会、或るいは、国の「魂」であるという事が出来る。日本語にはかなり「いい加減」な表現が数多く見られるが、これは、日本人同士の問題に留まる事だが、事、外国語になると、日本という域から出て、世界の人びとと広く付き合う為の「意思疎通」の道具になる。「いい加減」な表現では 外国人相手に通用しないし、付き合いも出来ない、という事を、日本人は百も承知している。

負け嫌いを負けず嫌いに、難なく言い換えることが出来るなら、ウサインをユセインに、マキロイをマクロイに、マクドナルド を マックダーノに、切り替えるのは、勿論、容易い事であるが、少数の日本人を除いて、マスコミ以下、多くの日本人は切り替えようとしない。

なぜだろうか ?

外から見て、「臍曲がり」か、「奇をてらおう」とする、潜在意識がその裏に控えているような気がしてならない。





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