ーー な ぜ 、 「 勝 ち た い 」 と ,
ス ッ キ リ 言 わ な い ーー
『抜粋』
「上」という字は、原産地の中国に於いて、二通りの書き
方で数千年来通用して来た。別に支障もなく、殊更筆順を
問題にする人も居ない。所が、列島ではそれを一通りだけ
にしなければ気が済まない、云うなれば、日本人の一徹な
気性がそこにありありと現われている。
ところが、一つの字に対する一徹な気性が、こと日本語全
般に関わることに対しては、殆ど現われて来ない。なんと
も、ちぐはぐな気性である。
「上」という、僅か三画の筆順に拘る人間が、「負け嫌い」
と「負けず嫌い」、この二つの全く相反する言葉を同義語
として長期に亙って存在させ、しかも、「負けず嫌い」と
いう意味不詳の方が優先して使はれているのを、そのまま
見逃している。
一般世間では、一寸考えられないことである。
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『本文』
外国人が日本語について語る時、どうしても避けて通れない不思議の一つに「負けず嫌い」というのがある。
前世紀の八十年代、日本がバルブ景気に湧いて、世間に驚異の目で見られていた頃、米国の媒体はよく「働き蜂日本人」を取り上げて報道していた。酒を飲むのも仕事のうち、残業に加えて、土、日の休日出社、そして、年中休暇返上などなど、、、。つまり、日本人会社員の日々は、二十四時間中、常に何らかの形で仕事に繋がっていることになる。傍目にはとても正気だとは思えない。
一度、ニューヨークのテレビ局の「働き蜂二十四時間」という特別番組を見たことがある。日本で実地探訪して作成した番組であった。その中で米人記者が酒場で一緒に飲んでいた数人の会社員に向かって、「日本人は、なぜそこまで骨身を惜しまずに働くのか?」という、核心に触れる質問を出す一場面があった。
数人の会社員は予期しなかった質問に若干戸惑ったようだが、ややして、一人が「我々は、負けず嫌いだから」と日本語で答えた。しかし、米人記者に日本語は通じないので、会社員のうちの一人が 「我々は、victory が好きだ」と言って、負けず嫌いを victory に訳した。
victory という英語は、中学か高校卒であればよく知っている筈だが、負けず嫌いとは意味合いは同じではない。通常、日本の和英辞書で、負けず嫌いの英訳に当てている単語は、unyiielding ( 譲らない),unbending ( 屈しない), 又は stubborn ( 頑固 ), などのように抵抗の意味合いを持つ字面ばかりで、victoryや win などのような、積極的に勝ち取るという意味合いを持つ英単語は使はない。使はないのは、そのような意味合いを持っていないからに外ならない。
米国人なら、「我々は、勝ちたいから」( because we like to win) と言うところ、日本人は、一歩下がって 「負け」という言葉を先に出す、しかるのちに、「嫌い」というホンネを後に付け足す。このような意思表示の仕方は、本来、常道ではない。寧ろ、変則的な表現の仕方に属する。
それも、「負け」は「嫌い」である、というなら、まだ良く分かるが、その通りに言はずに、「負けず」は「嫌い」であるという具合に言い換える。 数多くある、極めて日本的な諸々の事柄、あるいは言行のうちでも、このような変則表現の特徴は、日本以外の世間では珍しい。
ーー 相反する言い方の 同義語 --
負け嫌いか、 負けず嫌いか、 この二つの言葉は、日本では一般に同義語として使はれているようだが、権威ある辞書の解釈はどうなっているのだろうか、試しに見てみる。
三省堂の広辞林 ;
ーー 【負け嫌い】 まけずぎらい。
ーー 【負けず嫌い】 負けることを嫌う性質。強情でがまんづよいこと。 まけぎらい。
岩波の広辞苑 ;
ーー 【負け嫌い】 強情で、他人に負けることをとりわけいやがること。 まけずぎらい。「子供のときからーーだった」。
ーー 【負けず嫌い】 人におくれをとるのがいやで、いつも勝とうと意地 を張ること。まけぎらい。 「ーーな男の子」。
両者の解釈に僅かながら食い違いがあるように見えるものの、負け嫌いには 「まけずぎらい」、負けず嫌いには 「まけぎらい」が決まったように同列されている点では、両辞典に共通している。それは、この二つの言葉が実際には同義語であることを意味していることに外ならないだろう。
恐らく、何百年来に亙り日本で抵抗なく使はれて来た言葉を、改めて辞書で検索してみようとする人はまず居ないでせうが、この二つの言葉、及びその解釈を目の前にすれば、大半の人は、不思議な思いに、ふっと首を傾げたくなるのではなかろうか。
更に興味をそそるのは、この二つの言葉の違いはたった一字の「ず」であること。「ず」は、はっきりと辞書に否定の助動詞として載っている。打ち消しの意を表す助動詞を「負け」に付ければ、負けないことになる。 だから、「負けずにやれよ」と言って人を激励する。
日本人は、 負けず嫌い な民族 だと、自他共に認めている。日本列島の形は細くて長い。米国、あるいはロシヤ、あるいは中国などのような広大な大陸国に比べると、見た目には、どちらかと云うと、痩せ馬のような感じがする。痩せ馬だけれども、負けず嫌いだから、先走りを好む。 過去僅か百年の間に、大国ロシヤ、中国に戦争を仕掛け、こともあろうに、米国にまで武力戦争を仕掛けて敗れて仕舞った。それでも、負けず嫌いだから、次に、経済戦争に持ち込み、緒戦で勝つたものの、終盤で、これにも負けて仕舞い、苦労をしているのみならず、識者に言わせると、今の日本は実質米国の属国に等しいと言う。
負けずにやれよ、というのは、負けないでやれよ、ということに外ならない。 すると、負けず嫌いという表現は、負けない嫌いを意味する ことにもなる。言い換えると、負け好きになって仕舞う。
私は、知人、友人、幾人かに、この素朴な疑問を持ち出し、意見を聞いてみたことがある。戻ってきた答えは、「どうしてでしょうね ?」 という、 同じ疑問であった。
日本人の喧嘩早い、乃至、戦さ好きは、負け嫌いの気性に負うものであって、負けず嫌いの気性に負うのではあるまい。もし、負けず嫌いの気性に負うものであれば、もともと意味するのは負け好きだから、米国との戦に負けるのは、元より承知、あるいは覚悟していたことになる。
日本人の気質は、果して、負け嫌いなのか、それとも、負け好きなのか、それを言葉の上ですらすっきりさせることが出来ないなら、仕掛た戦争もいい加減なものである。 いい加減に仕掛た戦争だから、あとで、「こりゃいかん」 と気が付いた時には、日本はすでに負け戦でどうにもならなくなっていた。
負け嫌い と 負けず嫌い が同じ言葉なら、何故、簡単で明瞭な 負け嫌い の方を使はないで、語義がすっきりしない 負けず嫌い を好んで使うのか。私を含め、多くの人が疑問とするところである。
ーー 上という字は、どうやって書く ? ーー
一九八十年代の終り頃、ニューヨークで放送された 富士サンケイの T V 番組に、漢字の書き方についての街頭質問が画面に映し出されていた。 「上」 という字の筆順はどうやって書くのか、という質問を五人の通行人に出したところ、正しい答えを出したのは、戦後育ちの若者一人だけで、その他、漢字に強い筈の中年年配の人達は全員間違っていた。
辞書によると、漢字の書き方は、片仮名の書き方と同じように、筆順に三つの大原則があり、上から下に、左から右へ、ヨコ から タテ へ、の順に書くのが原則となっている。
「上」という字は、左から右へ、まづ立て棒を先に引くことも出来る、または、ヨコからタテに、ヨコ棒を先に書くことも出来る。つまり、 I - 上でも、- I 上 でもよいことになるので、昔から、二通りの筆順が一般に使はれていたが、戦前の学校は、- I 上の順で教えていた。
それが、戦後しばらくして、戦前の教科書筆順に問題ありとして、教育当局が五人の著名書道家に是非の審議を依頼した所、五大書道家は I - 上 が正しいという結論を出した。それで、戦前の教科書の筆順を取り消して、新たに、I - 上 の筆順に変えてしまった。
一人だけ戦後育ちの若者が正解を出したのはこのためである。
I - 上、 - I 上 、 の何れが正しいか ? 明らかに喜劇じみている。だから、富士サンケイはこれを娯楽番組で取り上げたに違いない。 だが、これは喜劇だ、娯楽趣味だというだけで済むものではなさそうだ。だいいち、この筆順を決めるのに、日本の五大書道家が審議に当たったというから、事は真剣である。因みに、ある書籍には、審議に当たったのは五大書道家だけでななく、総勢十二人の権威学者が審議に当たった、と書いてあった。正に国家の一大事である。
「上」という字は、原産地の中国に於いて、二通りの書き方で数千年来通用して来た。別に支障もなく、殊更筆順を問題にする人も居ない。所が、列島ではそれを一通りだけにしなければ気が済まない、云うなれば、日本人の一徹な気性がそこにありありと現われている。
ところが、一つの字に対する一徹な気性が、こと日本語全般に関わることに対しては、殆ど現われて来ない。なんとも、ちぐはぐな気性である。
「上」という、僅か三画の筆順に拘る人間が、「負け嫌い」と「負けず嫌い」、この二つの全く相反する言葉を同義語として長期に亙って存在させ、しかも、「負けず嫌い」という意味不詳の方が優先して使はれているのを、そのまま見逃している。一般世間では、一寸考えられないことである。
ついでに、手許にある三省堂の和英辞書をめくってみた。
「makezugirai」(負けず嫌い) は出ていたが、「負け嫌い」( makegirai) の方は出ていなかった。
日本人の思考、あるいは性格の軸、果して、世間で思はれているように、几帳面で、いい加減無しであるかどうか、使う言葉一つを取り上げてみても、大いに疑問があると思はざるを得ない。それは、使う言葉の表裏が余りにも違い過ぎるからである。 はっきりと「負け嫌い」と云はずに、ぼかして「負けず嫌い」という人間と、三画の筆順に過敏に拘る人間。共に、日本人であるが、どちらが実像であるのか、疑問を解く興味は、津津として尽きないものがある。
「負け嫌い」と言うべきところを、「負けず嫌い」に言い換えるのは、一種の暈 ( ぼか) しであり、虚像でもある。
戦時中、戦況がどうであろうと、「戦争を続ける」事が軍部の至上命題であり、戦争さえ続けられれば,日本国民が全滅しようと構わなかった。その為に、「大本営発表」という、国民に勝ち戦(いくさ) の虚像をデッチ上げる道具があった。
自分で勝手に「まいった,と声をあげなければ負けではない」という基準を作り,自分で「負け」を認めなければ「負けない」わけだから,まいったと言わなければ負ける事もない。死んでも「参った」と言わなければ,死んでも負けないのだ。と国民を教育していた。云うなれば、列島の民の「負け嫌い」の気性特質を利用した戦争完遂の為の「嘘ツキ」である。
列島の民は、どういうわけだか知らないが、伝統的に「負け嫌い」の精神が極めて旺盛である。その精神の猪突猛進の果てが太平洋戦争であり、敗戦であった。それでも、この精神は相変わらず旺盛である。 「負け嫌いだから」戦後、骨身を惜しまずに働いて、空前のバブル景気を作り上げた。「それは、Victory (勝つ事)が好きだから」と言う表現に変わって、外国人記者に説明する。
徳川無声という弁士が、太平洋戦争敗戦の日に、書き残した日記の中に次のような一節がある。
「これで好かったのである。日本民族は近世において、
勝つことしか知らなかった。近代兵器による戦争で、
日本人は初めてハッキリ敗けた ということを覚らさ
れた。勝つこともある。敗けることもある。両方 を
知らない民族はまだ青い 青い。やっと一人前になった
と考えよう」
かなり的を射ている。 軍事にしても、経済にしても、猪突猛進の源泉は「負け嫌い」の気性にある。しかし、何の、誰の為に、あれ程猪突猛進せねばならないのか、目的意識は、常に定かではない。進む為には良い気性だかも知れないが、止める術も退く術( すべ ) も皆目頭の中にない。良い気性やら、良くない気性やら。
何れにしても、なぜ、意味の相反する「負け嫌い」と「負けず嫌い」の両立無頓着で、「上」という字に二通りの書き方があっては駄目だと言って騒ぐのか。列島の気象は、秋の空の如く、依然としてスッキリしないようである。