李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【  ハ ン グ リ ー  精 神  】    

2012-05-21 21:20:23 | Weblog

   ーー    負 け 惜 し み 人 種  の  用 語    ーー

 

『抜粋』

 ゴルフというのは、「必死」でやれば勝てるものだろう

 か、そんな生やさしいものではない筈だ。太平洋戦争で、

 日本は「必死」どころか、「一億玉砕」精神で戦ったが、

 結果は敗戦の例を見れば分かる。

 

  韓国女性プロの國際舞台に於ける実績は「驚異的」であ

 る。韓国男性プロも結構活躍しているが、女性プロに大き

 く引き放されている。ゴルフ場で韓国女性プレイヤと時々

 一緒に廻る度に「なぜか」と聞いてみる。面白い事に一様

 に同じ答えが戻って来る、曰く、too  hot  、 つまりす

 ぐ「カッカ となる」、だから駄目だと言う。これは、

 日本の男性プレイヤーにもそのまま当てはまる。 

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

      『本文』   

 

数十年のゴルフ歴を通じ、常時仲間四人で回るよりも、むしろ、一人でコースに飛び入り、好んで未知の人、国籍の違う人と プレイを楽しんで来た私の体験では、日本人プレイヤは手強いように見えるが意外と脆い面がある。

具体的に云うと、何でもやる気充分の日本人は調子に乗っている内は良いが、一寸でも躓 ( つまず) くとすぐカッと頭に来て、折角の実力と調子をぶちこわし、自滅してしまう。そういう意味では、戦い易い相手である。

 

5月21日スポーツ報知に 『韓国勢3戦連続V!9位有村「ハングリー精神が違う」女子ゴルフ』というニュースが出ていた。

女子プロゴルフツアー 中京テレビ・ブリヂストンレディスオープンで韓国の李知姫の優勝で韓国勢が3連勝。その韓国勢の強さについて「ハングリー精神」が違うと有村が一言洩らした。

 

「ハングリー精神」とは「物事を強く求め、 達成への強い意志を持ってことに当たる気持ちや心意気などを意味する表現」であるが、貧乏だから頑張らなきゃ食えないという含みがその裏に控えている日本製の「英和言葉」である。

 

今は韓国勢だが、嘗て、台湾プロが日本で大いに暴れた時代があった、その時分にも台湾勢の勝因は「ハングリー精神」によるものだと言われていた。外国プロは、本国で食って行けないから日本に来て「必死」にプレイする、だから勝つという、言ってみれば「負け惜しみ」の為にある言葉である。

 

ゴルフというのは、「必死」でやれば勝てるものだろうか、そんな生やさしいものではない筈だ。太平洋戦争で、日本は「必死」どころか、「一億玉砕」精神で戦ったが、結果は敗戦の例を見れば分かる。

 

韓国女性プロの國際舞台に於ける実績は「驚異的」である。韓国男性プロも結構活躍しているが、女性プロに大きく引き放されている。ゴルフ場で韓国女性プレイヤと時々一緒に廻る度に「なぜか」と聞いてみる。面白い事に一様に同じ答えが戻って来る、曰く、too  hot  、 つまりすぐ「カッカ となる」、だから駄目だと言う。これは、日本の男性プレイヤーにもそのまま当てはまる。


前述「スポーツ報知」の報道に次のような一節がある;

『4位の笠は「途中、1打差になっていけると思ったんですが」と悔しそう。期待の有村も67と伸ばしたが、9位に終わり「期待に応えたいが、なかなか、かみ合わない」と唇をかんだ。韓国勢の強さについて「ハングリー精神が違う」。勝負どころできっちりスコアを伸ばしてくる」と分析。最終組で李知姫と同組だった服部真夕も「良くないときもすぐに修正してくる」と舌を巻いた』

 

「悔やしい」思い、「期待に答えられず」唇をかんだ、「相手はよくないときもすぐに修正してくる」と舌を巻いた、などなど日本勢個個の反応のうち、悔やしい思いと、( 他人) の期待に答えようとする考えは、誰しもあるだろうが、日本以外の国のプレイヤーの口から滅多に聞く事はない。戦争に負けたら万斛の涙を流すのは人情として分かるが、それだけでは消極的であり、積極的に学ぼうとする姿勢ではない。

最終組で李知姫と同組だった服部真夕は「良くないときもすぐに修正してくる」と舌を巻いたという、これは積極的な姿勢であり、「冷静」な心情なしにこのような「敵を知る」観察は出来ない。

 

嘗て、台湾勢が列島で暴れていた時、列島のプレイヤーや庶民は、得てしてそれは「ハングリー精神」の違いだと云って自己安慰に徹した。然し、ゴルフの識者は、台湾プロの強さを「冷静」「粘り強い」「忍耐強い」などの気質に帰結した。これらの気質は、台湾プロに限らず、世界のトッププレイヤーに共通している特質である。

 

米国は世界のプロが集まって技を競う舞台である。世界の檜舞台「マスターズ」は米国に在るが、過去十年来の勝者は外国プロが米国プロを上回っている、しかし、米国では、それは "  hungry  spirit  "  の違いだと云う声は聞かない。代わりに、"  cool  " ( 冷静)   " tenacious "   (粘り強い)   という形容詞が勝者の特質として挙げられる。

プロである以上、技術的には然程の違いはない。しかし、個々人間の気質の違いはかなり大きい。冷静と粘り強い者が最終的にはトーナメントを制する、だから、「ゴルフは自分相手の戦いである」という格言が金科玉条になっている。

 

外国のプロに負けると、あれは「ハングリー精神」の違いだと言って、自分を慰める日本プロ、乃至、一般庶民が考えを改め、自分を良く知り、相手を良く知る事に務めなければ、列島プロの先行きの見通しは決して明るくない。

スポーツ報知の記事を目にして、頭に浮んだ感想をそのまま書き出してみた。 

 

 


【 理 屈  の  元 祖 】     

2012-05-11 10:07:24 | Weblog

       ーー     論 語  の  教 え    ーー

 

『抜粋』

 文豪漱石は「理屈っぽい所がある」と良く云われる。次の

が如実にそれを物語っている ;

漱石が教師であった頃、授業中に懐手をしている学生がい

て、漱石が注意すると生徒に「彼には手がありません」とい

われた。「あ、そうか」と言って済ますべき所、漱石は、

「私も無い知恵を出して講義してるんだから、君も出したま

 え」と、心にもない理屈を口にした。

 漱石だから「理屈」で通るだろうが、並の人なら「こじつ

け」や「屁理屈」になるだろう。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  『本文』   

 

「理屈」という言葉が「論語」から派生したものである、という事を知っている人は果たしてどのくらい居るのだろうか。

「論語」は唐土或いは列島で昔から「バイブル」並みに扱われて来たが、「バイブル」をよく知らないクリスチヤンが多く居るように、「論語」を良く知らない人びとは唐土や列島に溢れているのも実状であり、特に列島では「論語読みの論語知らず」という諺まである。

 

文壇の老大家阿川弘之に「論語知らずの論語読み」という著書がある。序説の書き出しが可成り写実的で面白い;

 

《 うちに遊びに来た豚児のガールフレンドや豚女のボーイフレンドたちに「君たち、論語を知ってるか?」と訊ねたら「知ってるわよね、論語くらい」という返事。
「論語の中のどんな言葉が印象に残ってる?」と聞いたら「さあ・・・」とれっきとした大学生なのに黙ってしまう。
「例えば、朋アリ遠方ヨリ来ル、亦楽シカラズヤ、とかいうやつの二つや三つ知らないの?」と追い討ちをかけると。「知りません、論語がどうかしたんですか?」とくる 》

 

このように、知っているようで知らないのが「論語」という曲者であり、それを凡人達は安易に「知っているよ」と云う。

 

論語というと、孔子様、 その孔子様に「子路」という弟子がいた。子路は春秋魯国 ( 山東) 季氏の家臣であったから、昔の地方の小役人になる。この子路が学びに然程真面目でない「子羔」という人を山東省費縣西南の町長に任命した。それを聞いた孔子が、「 子羔を害する事」だと評した。つまり、「そのような重い責任を与えると、あの人をだめにしてしまうぞ。」と忠告した。

すると子路は、「費には無位の民も有位の民もおります、社も稷もあります。読書をし知識を広めてから学び、熟してからのち政治を担当する必要がどこにありましょう」、と反論した。

そこで、子曰く;「是故惡夫佞者」。つまり、「このように、口先で人に勝とうとするから、口達者なものを悪むのだ」と。

 

「是故惡夫佞者」という古文は分かり難いので、後日、朱子が「子路之言,非其本意,但理屈詞窮,而取辯於口以御人耳。」という注釈を付けた。つまり、「子路の言は彼の本意ではない、ただ、道理につまり言葉に窮した為に.口先で人に勝とうとしただけの事だ」。

朱子の注釈に使われた「理屈詞窮」という熟語が、「理屈」という言葉の元祖であるのはこれによって分かる。その本来の意味する所は「道理につまる」「筋の通らない道理」であり、今日の列島で云う「屁理屈」にほぼ該当する。

ならば、昨今の列島で言う「理屈」とは何か ?

日本国語大辞典に、もっともな論理、すじの通ったわけ、と一つの解釈だけが出ているが、一方、大辞泉では、(1)  物事の筋道、道理。(2)  無理につじつまを合わせた論理、こじつけの理論。という二つの字義を載せている。

日本語大辞典に従うなら、「理屈」は筋の通った道理であり、大辞泉に従うなら、「理屈」とはこじつけの理論でもある。

更に、三省堂をも巻き込むと、以下のように、「理」と「筋」の付く言葉が軒並みに並べてあり益々混沌として来る。

理(り) 道理 事理 論理 論法 理路〈整然と説明する〉 条理 訳〈の分かった人〉 筋(すじ) 筋道 筋合い 辻褄(つじつま)〈を合わせる〉 


果たして、どれを取るべきであろうか ?

何れにしても、今日列島で使われている「理屈」という言葉の意味は、孔子様の意とする所、或いは、朱子先生の注釈とは、意味が逸脱している事は間違いない。


文豪漱石は「理屈っぽい所がある」と良く云われる。次の逸話が如実にそれを物語っている ;

漱石が教師であった頃、授業中に懐手をしている学生がいて、漱石が注意すると生徒に「彼には手がありません」といわれた。「あ、そうか」と言って済ますべき所、漱石は、「私も無い知恵を出して講義してるんだから、君も出したまえ」と、心にもない理屈を口にした。

漱石だから「理屈」で通るだろうが、並の人なら「こじつけ」や「屁理屈」になるだろう。

「論語」を読んでもよく知らないのであれば、論語から派生した「理屈」の意味がすっきりしない訳も分かる、というものではなかろうか。