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 李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【 夷人 日本 を 語る 】  (十四〉  仁目子

2023-01-31 12:52:05 | Weblog
第十四話  【 辺境島国 「独善気質」 の 極み 】  

――  隣人は扱き下ろすが、 自分は棚に上げる  ーー
ーー   相手を「悪」とし、自分を「善」とする ヤマト人気質 ーー
‐ーー  独善気質 と 蒙昧 の 懐(フトコロ)を狙う「解明書籍」 ーー

日本人の「独善性格」を形容するのに良く使われる例え俗語がある。

一つ、  隣の人が、夜逃げした、と聞いて喜ぶ。
二つ、  隣の人が、ベンツを買った、と聞いてムッとする。

如何に、日本 或いは、日本人の隣人との付き合いが、不得手であるか、此れで、充分に納得出来る。


『 徹底解明 ! ここまで違う日本と中国―中華思想の誤解が日本を亡ぼす 』 Tankobon Hardcover – July 1, 2010 by 石 平 (著), 加瀬 英明 (著)  という本がある。

日中文化の違いはイスラム教文明とキリスト教文明の差より大きい、と喝破する著者。

・相手に悪いと思う日本人
 相手が悪いと思う中国人

・公(おおやけ)が共有される日本
 公の概念がない中国

・中国は「大きな皿に盛った砂の山」
 日本は「さざれ石が集まって巖となる」

と言った所が、喝破した日中文化の核心内容であるようだ。

五つ星で、八十三人「役に立った」という、「うまやど」のコメントを、写し出して見る。

《《 日本人は、日本文化の深いところと、中国文化の深いところは一緒だと錯覚している。とんでもない誤りだ。しかし、どこが違うんだ、となれば、中国も論語を大切しているし漢字を使っている。日本もじゃないかと、となって解らなくなってしまう。
本書は、中華帝国が復興し、我が国が世界の経済大国第2位を転がり落ち、中華の門前の小国に戻りつつあるからこそ読んでおきたい。中華に飲まれないように。
彼我の根本的な違いについて、中国に造詣の深い石平と加瀬英明が縦横に語りつくした対話本。日中ビジネスに関わるもの、行政、政治、外交、留学生教育に関わるもの、隣人に中国人をかかえているものなど、広い読者に読んでいただきたい本である。 》》

ほぼ、このコメントで分かるように、「 中華の門前の小国に戻りつつあるからこそ読んでおきたい。中華に飲まれないように 」 と言ったところが、本書出版の動機であるようだ。

相手に飲まれないように、相手を「悪」とし、自分を「善」とする。これは、ヤマト人種の伝統的な「独善気質」である。

両国文化は違うと言う。どこが違うんだ、となれば、中国も論語を大切しているし漢字を使っている。日本もじゃないかと、となって解らなくなってしまう。要するに、分からずに論じているのが「日本式解明」だという事になる。


実体はどうであるか、「相手に悪いと思う日本人」は果たして多いのだろうか、と思って、ウエブに、「相手に悪い」を入れて検索してみた。

出て来た記事数は、143,000,000 件あった。確かに,相手に悪いと思う人は多いなあーと思った。が、内容記事をみると、驚くことに、全て、「相手が悪い」になっている。念のため、「相手に悪い」を再度入れてみたが、出て来た記事は、相変わらず、「相手が悪い」であった。

極端な言い方をすれば、「相手に悪いと思う」日本人が居ないから、そのような記事も無いと云う事になる。 143,000,000 件というのは億単位の件数であり、それが、全て「相手が悪い」と言う記事であれば、「相手に悪いと思う日本人」が果たして居るのだろうか、と首を傾げざるを得ない。

相手に悪い、という思いやりから 謙虚な気持ちになる。
「謙虚」の「虚」とは、心を空っぽにすることで 、中国哲学、特に老荘思想では重要な漢字の1つになっている。 現実的な利益を追い求めることをやめ、よけいなことは考えない。 そうやって心を「虚」の状態、つまり空っぽにすることによってこそ、人生の真実に到達することができるというのだ。

日本人は周知のように、勝つか、負けるか、強気か、弱気か、の両極気質を持ち、中道的な「謙虚」には、左程興味はない。このような、現実の姿を参照すれば、「相手に悪いと思う日本人 相手が悪いと思う中国人」 の解明は、全然、解明になっていない。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 によると、

《《 公(こう)は、古代の中国語では個々に細かく分かれた「私」を包括した全体を意味する語である。また、一部に偏らないという意味を含む。このことから「公平」という熟語を生ずる。》》

と書いてある通り、「公」という概念は、古代中国が生み出した概念である。所が、本書では 「公の概念がない中国」と解明している。それは、日本に公あれば、中国にはない、という独善気質によるもので、二つの文化の違いの解明にはほど遠い。

・中国は「大きな皿に盛った砂の山」
 日本は「さざれ石が集まって巖となる」

に至っては、噴飯ものである。日本国歌「君が代」では「さざれ石が巌となりて」と唱っている。 本書では、「さざれ石が集まって巌となる」と言う。さざれ石であろうと、さざれ石が集まろうと、それが巌になるという教えは、学校で習った事がない。
 
日本のさざれ石,或いは、その集いだけが巌になる、という事なのか。そうだとするなら、「世界の非常識」が、又、一つ増える事になる。

中国の国際的に有名な文人 林語堂が、嘗て、花崗岩(日本)と沙(中国)を次のように解明した、日本が世界相手に戦を始める前の事である。

氏曰く、花崗岩は炸裂すれば、粉々になる、が、沙は粉々になっても相変わらず沙である。そう言って、氏は、見掛けの良い日本と、中身のしっかりしてる中国を比較し、日本は弱いと判断したが、氏の予想に違わず、二次大戦で、日本は敗北した。

この様な解明こそ、意味があるというもので、ただ、単に相手を「悪「、自分は「善」である、という解明は、中学生でも出来る。

明治以降、「桃太郎の鬼退治」を真似て、帝国日本は、 全て「相手が悪い」という解明のもとに、魯西亜、中国、米国の三大大陸国を退治するべく、戦を挑んだ。結果は、承知のように、帝国日本は、脆くも、あっけなく滅びてしまった。

今だに、帝国日本から生まれ変わった「日本」は、相変わらず、「相手が悪い」という解明にのみ興味を示し、「自分を検討する」事は一切しない。歴史は繰り返す、という古くからの言い伝えは、自分は桃太郎で、相手は全て鬼である、という日本の伝統的な「思考形態」(mentality) が、如何に、危険なものであるかを、物語っている。


米国在住の筆者(私)は、「中」でもなければ、「日」でもないという立場から、日中関係については、次のように考えている。言うなれば、岡目八目か、傍観者 清 の言である。

ーー 千年以上の隣人付き合い 今さら、何を解明する, 
   何時まで 中国を解明すれば 分かるのか  ーー 

ーー 文字から食べるお米まで、頂いた恩人 なぜ、
   悪人扱いにする  ーー

ーー 鬼畜米英と同じ自卑感で、今、悪の中華の洗脳に
   一生懸命、 僻みと妬み 解消の為に ーー

ーー そして、何よりも 版税と印税の稼ぎの為に、
   文士がせっせと、中国貶しに筆を振るっている  ーー

ーー この様な本が良く売れる、という事は、日本人は 
   お目出度い人が 如何に多いかが分かる  ーー

辞書の解説を、念のために、添えて置く。

 《《 「めでたい」とは、もともと「とても素晴らしい」という意味です。 しかし、そこに「お」をつけて丁寧にすることで、かえって皮肉な意味にしてしまうのですね。 「おめでたい人」とは、「お人好し」、あるいは「何も知らない人」という意味になってしまいます。 》》

本文は、狭い島国列島の人々の参考になれば、と思って書いたものです。

【 随筆 日本語 の 襟を正す 】 (十二〉  仁目子

2023-01-21 02:31:05 | Weblog
第十二話   【 負け嫌い と 負けず嫌い  】    仁目子

ーー  不思議な 日本語 の 論理  ーー
ーー  負けるのは嫌い 負けないのも嫌い 何れが正しい ? ーー
ーー  NHK放送文化研究所 の 研究成果  ーー 
‐ーー  徳川無声 の 至言  ーー
 
ウエブサイトに、「日本語」を入れて検索すると、真っ先に、「日本語の特徴」という序言が出て来る。 
次のような文面である。

《《  日本語の特徴 

日本語が示す個別的特徴は、全体としては非常に簡潔で規則性が高いものが多い。 つまり、日本語はできるだけ単純な仕組みを用いて、他の言語が表すのと同じ内容を表すような方法を選択している、表現上の効率性が高い言語だと言える。》》

この序言によると、日本語は、「非常に簡潔で規則性が高い」という言葉になっている。が、実体はどうであろうか。

2001年9月、NHK放送文化研究所 が 最近気になる放送用語 「負けず嫌い?」を 取り上げて研究した。その研究成果2が、ウエブサイトに、下記のように掲載されていた

《《 「負けず嫌い」という言い方はおかしいのではないか、と指摘されました。
「負けない」ことが「嫌い」なのだとすれば、「勝つのが嫌い、負けるのが好き」という意味になるのではないか、という解釈によるものでしょう。しかし「負けず嫌い」は、「負けるのが嫌い」ということを表すのに使われる一般的な表現として、現在では認められています。

解説

「負けず嫌い」という言い方が生まれたのには、さまざまな説があります。明治時代には、「負け嫌い」という言い方がされていました。「負けるのが嫌い」という意味なので、まさに本来の表現だと言えます。これと並んで、「負ける嫌い」というものもありました。また、これとは別に「負けず魂/負けじ魂(他人に負けまいとがんばる気持)」ということばもありました。この「負けず魂」と「負ける嫌い」とが合わさったものが、「負けず嫌い」なのではないでしょうか(定説ではありませんが)。

「負けず嫌い」は確かに理屈に合わない表現かもしれませんが、現在ほとんどの辞書に載っている表現であり、これを「間違っている」と決めつけるのは不適切でしょう。 
なお「食わず嫌い」ということばは、「食べてみないのに嫌い」という意味ですから、まったく問題ありません。 》》

このように、負け嫌いと負けず嫌いは、本来なら、反義語であるのに、NHK の研究結果によると、同義語になってしまう。 愛と憎しみは同義語である、と言うのに等しい。「負けず嫌い」という言い方はおかしいのではないか、という疑問の元に、研究をした結果が、 「間違っている」と決めつけるのは不適切でしょう」という結論を出したのは、明らかに、答えを暈してしまった、という事に他ならない。 極めて、日本流議の研究成果であった。

それで、比較的「権威性」がある、と認められて居る、辞典、辞書、統計数字を見て見る事にした。 結果は、次の通りだった。

ウエブサイトに見る、使用度数の違い。

負け嫌い  20,300,000 件
負けず嫌い  8,110,000 件

両者の違いはあるか ?

まけ‐ぎらい〔‐ぎらひ〕【負け嫌い】 の辞書解説
[名・形動]「負けず嫌い」に同じ。「―な(の)性分」。
このように、辞書辞典の解説によるなら、両者は同じものになる。

前述の、NHK放送文化研究所は、  << 「負けない」ことが「嫌い」なのだとすれば、「勝つのが嫌い、負けるのが好き」という意味になるのではないか、という解釈によるものでしょう。>>   と冒頭で認めたにも拘わらず、すぐに続いて、   << しかし「負けず嫌い」は、「負けるのが嫌い」ということを表すのに使われる一般的な表現として、現在では認められています。という言い方をしている。>>

「負けるのが好き」の意味持つ言葉が、「負けるのが嫌い」ということを表すのに使われるのは、全く、
理に叶わない。折角、このような論理的結論を、始めに述べた NHK放送文化研究所 の 研究成果は、 << 「負けず嫌い」は確かに理屈に合わない表現かもしれませんが、現在ほとんどの辞書に載っている表現であり、これを「間違っている」と決めつけるのは不適切でしょう。 >> という結論を出している・

辞書は辞書で、負け嫌いと負けず嫌いは、同じだと言う。日本語は、非常に、理に叶っている言葉であると、教えられている一般の庶民は、 どのように、判断すれば好いのだろうか、と極度に迷うのは間違いない。

ウエブサイトで、【 負けず嫌いか、負け嫌いか 】 を入れて検索して見ると、第一ページに、 【 負けず嫌いか、負け嫌いか 】 仁目子 2007/1/13 のブログ記事が掲載されている。 庶民の声である。

このブログに目を通して見れば、一般庶民にも、日本流の特殊思考形態が、多少なり,理解出来るのではないか、と思い、本文で、取り上げ、付録掲載する事にした。

ーーーーーー  以下、付録全文  ーーーーー

【 負けず嫌いか、負け嫌いか 】 仁目子 2007/1/13

(1) なぜ、「勝ちたい」とスッキリ言わない

外国人が日本語について語る時、どうしても避けて通れない不思議の一つに「負けず嫌い」というのがある。

前世紀の八十年代、日本がバルブ景気に湧いて、世間に驚異の目で見られていた頃、米国の媒体はよく「働き蜂日本人」を取り上げて報道していた。
酒を飲むのも仕事のうち、残業に加えて、土、日の休日出社、そして、年中休暇返上などなど、、、。つまり、日本人会社員の日々は、二十四時間中、常に何らかの形で仕事に繋がっていることになる。傍目にはとても正気だとは思えない。

一度、ニューヨークのテレビ局の「働き蜂二十四時間」という特別番組を見た事がある。日本で実地探訪して作成した番組であった。その中で米人記者が酒場で一緒に飲んでいた数人の会社員に向かって、「日本人は、なぜそこまで骨身を惜しまずに働くのか?」という、核心に触れる質問を出す一場面があった。
数人の会社員は予期しなかった質問に若干戸惑ったようだが、ややして、一人が「我々は、負けず嫌いだから」と日本語で答えた。しかし、米人記者に日本語は通じないので、会社員のうちの一人が 「我々は、victory が好きだ」と言って、負けず嫌いを victory に訳した。

victory という英語は、中学か高校卒であればよく知っている筈だが、負けず嫌いとは意味合いは同じではない。通常、日本の和英辞書で、負けず嫌いの英訳に当てている単語は、unyiielding ( 譲らない),unbending ( 屈しない), 又は stubborn ( 頑固 ), などのように抵抗の意味合いを持つ字面ばかりで、victoryや win などのような、積極的に勝ち取るという意味合いを持つ英単語は使はない。使はないのは、そのような意味合いを持っていないからに外ならない。

米国人なら、「我々は、勝ちたいから」( because we like to win) と言うところ、日本人は、一歩下がって 「負け」という言葉を先に出す、しかるのちに、「嫌い」というホンネを後に付け足す。このような意思表示の仕方は、本来、常道ではない。寧ろ、変則的な表現の仕方に属する。それも、「負け」は「嫌い」である、というなら、まだ良く分かるが、その通りに言はずに、「負けず」は「嫌い」であるという具合に言い換える。

数多くある、極めて日本的な諸々の事柄、あるいは言行のうちでも、このような変則表現の特徴は、日本以外の世間では珍しい。

( 2 ) 相反する言い方の 同義語

負け嫌いか、 負けず嫌いか、この二つの言葉は、日本では一般に同義語として使はれているようだが、権威ある辞書の解釈はどうなっているのだろうか、試しに見てみる。

三省堂の広辞林  ーー

【負け嫌い】 まけずぎらい。
【負けず嫌い】 負けることを嫌う性質。強情でがまん    
             づよいこと。 まけぎらい。

岩波の広辞苑   ーー

【負け嫌い】 強情で、他人に負けることをとりわけい
            やがること。 まけずぎらい。「子供の   
            ときからーーだった」。
【負けず嫌い】 人におくれをとるのがいやで、いつも勝
           とうと意地を張ること。まけぎらい。   
           「ーーな男の子」。

両者の解釈に僅かながら食い違いがあるように見えるものの、負け嫌いには 「まけずぎらい」、負けず嫌いには 「まけぎらい」が決まったように同列されている点では、両辞典に共通している。
それは、この二つの言葉が実際には同義語であることを意味していることに外ならないだろう。
恐らく、何百年来に亙り日本で抵抗なく使はれて来た言葉を、改めて辞書で検索してみようとする人はまず居ないでせうが、この二つの言葉、及びその解釈を目の前にすれば、大半の人は、不思議な思いに、ふっと首を傾げたくなるのではなかろうか。

更に興味をそそるのは、この二つの言葉の違いはたった一字の「ず」であること。「ず」は、はっきりと辞書に否定の助動詞として載っている。打ち消しの意を表す助動詞を「負け」に付ければ、負けないことになる。だから、「負けずにやれよ」と言って人を激励する。

日本人は、 負けず嫌い な民族 だと、自他共に認めている。
日本列島の形は細くて長い。米国、あるいはロシヤ、あるいは中国などのような広大な大陸国に比べると、見た目には、どちらかと云うと、痩せ馬のような感じがする。痩せ馬だけれども、負けず嫌いだから、過去僅か百年の間に、大国ロシヤ、中国に戦争を仕掛け、こともあろうに、米国にまで武力戦争を仕掛けて敗れて仕舞った。それでも、負けず嫌いだから、次に、経済戦争に持ち込み、緒戦で勝つたものの、終盤で、これにも負けて仕舞い、苦労をしているのみならず、識者に言わせると、今の日本は実質米国の属国に等しいと言う。

負けずにやれよ、というのは、負けないでやれよ、ということに外ならない。 すると、負けず嫌いという表現は、負けない嫌いを意味する ことにもなる。言い換えると、負け好きになって仕舞う。

私は、知人、友人、幾人かに、この素朴な疑問を持ち出し、意見を聞いてみたことがある。戻ってきた答えは、「どうしてでしょうね ?」 という、 同じ疑問であった。

日本人の喧嘩早い、乃至、戦さ好きは、負け嫌いの気性に負うものであって、負けず嫌いの気性に負うのではあるまい。もし、負けず嫌いの気性に負うものであれば、もともと意味するのは負け好きだから、米国との戦に負けるのは、元より承知、あるいは覚悟していたことになる。日本人の気質は、果して、負け嫌いなのか、それとも、負け好きなのか、それを言葉の上ですらすっきりさせることが出来ないなら、仕掛た戦争もいい加減なものである。いい加減に仕掛た戦争だから、あとで、「こりゃいかん」と気が付いた時には、日本はすでに負け戦でどうにもならなくなっていた。

負け嫌い と 負けず嫌い が同じ言葉なら、何故、簡単で明瞭な 負け嫌い の方を使はないで、語義がすっきりしない 負けず嫌い を好んで使うのか。私を含め、多くの人が疑問とするところである。

( 3 ) 上という字は、どうやって書く ?

「上」 という漢字の筆画は,僅か三画であり、筆順は ヨコ から タテ へ、或はタテ から ヨコであろうと、仕上がりは「上」になる。
戦前の学校は、- I 上の順で教えていたが、戦後、戦前の教科書筆順に問題ありとして、教育当局が五人の著名書道家に是非の審議を依頼した所、五大書道家は I - 上 が正しいという結論を出した。それで、戦前の教科書の筆順を取り消して、新たに、I - 上 の筆順に変えてしまった。
I - 上、 - I 上 、 の何れが正しいか ? 明らかに喜劇じみている。

だが、これは喜劇だ、娯楽趣味だというだけで済むものではなさそうだ。だいいち、この筆順を決めるのに、日本の五大書道家が審議に当たったことから、事は真剣である。因みに、ある書籍には、審議に当たったのは五大書道家だけでななく、総勢十二人の権威学者が審議に当たった、と書いてあった。正に国家の一大事である。

「上」という字は、原産地の中国に於いて、二通りの書き方で数千年来通用して来た。別に支障もなく、殊更筆順を問題にする人も居ない。所が、列島ではそれを一通りだけにしなければ気が済まない、云うなれば、日本人の一徹な気性がそこにありありと現われている。ところが、一つの字に対する一徹な気性が、こと日本語全般に関わることに対しては、殆ど現われて来ない。なんとも、ちぐはぐな気性である。
「上」という、僅か三画の筆順に拘る人間が、「負け嫌い」と「負けず嫌い」、この二つの全く相反する言葉を同義語として長期に亙って存在させ、しかも、「負けず嫌い」という意味不詳の方が優先して使はれているのを、そのまま見逃している。一般世間では、一寸考えられないことである。

ついでに、手許にある三省堂の和英辞書をめくってみた。「makezugirai」(負けず嫌い) は出ていたが、「負け嫌い」( makegirai) の方は出ていなかった。

日本人の思考、あるいは性格の軸、果して、世間で思はれているように、几帳面で、いい加減無しであるかどうか、使う言葉一つを取り上げてみても、大いに疑問があると思はざるを得ない。それは、使う言葉の表裏が余りにも違い過ぎるからである。

はっきりと「負け嫌い」と云はずに、ぼかして「負けず嫌い」という人間と、三画の筆順に過敏に拘る人間。共に、日本人であるが、どちらが実像であるのか、疑問を解く興味は、津津として尽きないものがある。

「負け嫌い」と言うべきところを、「負けず嫌い」に言い換えるのは、一種の暈( ぼか)しであり、虚像でもある。

戦時中、戦況がどうであろうと、「戦争を続ける」事が軍部の至上命題であり、戦争さえ続けられれば,日本国民が全滅しようと構わなかった。その為に、「大本営発表」という、国民に勝ち戦(いくさ) の虚像をデッチ上げる道具があった。
自分で勝手に「まいった,と声をあげなければ負けではない」という基準を作り,自分で「負け」を認めなければ「負けない」わけだから,まいったと言わなければ負ける事もない。死んでも「参った」と言わなければ,死んでも負けないのだ。と国民を教育していた。
云うなれば、列島の民の「負け嫌い」の気性特質を利用した戦争完遂の為の「嘘ツキ」である。

列島の民は、どういうわけだか知らないが、伝統的に「負け嫌い」の精神が極めて旺盛である。その精神の猪突猛進の果てが太平洋戦争であり、敗戦であった。それでも、この精神は相変わらず旺盛である。
「負け嫌いだから」戦後、骨身を惜しまずに働いて、空前のバブル景気を作り上げた。「それは、Victory (勝つ事)が好きだから」と言う表現に変わって、外国人記者に説明する。

徳川無声という弁士が、太平洋戦争敗戦の日に、書き残した日記の中に次のような一節がある。

「これで好かったのである。日本民族は近世において、勝つことしか知らなかった。近代兵器による戦争で、日本人は初めてハッキリ敗けたということを覚らされた。勝つこともある。敗けることもある。両方を知らない民族はまだ青い 青い。やっと一人前になったと考えよう」

かなり的を射ている。

軍事にしても、経済にしても、猪突猛進の源泉は「負け嫌い」の気性にある。しかし、何の、誰の為に、あれ程猪突猛進せねばならないのか、目的意識は、常に定かではない。進む為には良い気性だかも知れないが、止める術も退く術( すべ) も皆目頭の中にない。良い気性やら、良くない気性やら。

何れにしても、なぜ、意味の相反する「負け嫌い」と「負けず嫌い」の両立無頓着で、「上」という字に二通りの書き方があっては駄目だと言って騒ぐのか。列島の気象は、秋の空の如く、依然としてスッキリしないようである。
かなり的を射ている。

軍事にしても、経済にしても、猪突猛進の源泉は「負け嫌い」の気性にある。しかし、何の、誰の為に、あれ程猪突猛進せねばならないのか、目的意識は、常に定かではない。進む為には良い気性だかも知れないが、止める術も退く術( すべ) も皆目頭の中にない。良い気性やら、良くない気性やら。

何れにしても、なぜ、意味の相反する「負け嫌い」と「負けず嫌い」の両立無頓着で、「上」という字に二通りの書き方があっては駄目だと言って騒ぐのか。列島の気象は、秋の空の如く、依然としてスッキリしないようである。

随筆 【 日本語 の 襟を正す 】 その三

2022-12-25 12:41:30 | Weblog
 第三話   Cool Japan の意味

ーー  格好いい 、とは 何の事 ? ーー
ーー  チグハグも良いところ ーー

「格好」という言葉について、国語辞書に次のうような解説が出ている;

1 外から見た事物の形。姿。また、身なり。
2 人に対して恥ずかしくない姿・形。整った形。体裁。
3 物事の状態。のようなようす。
4(年齢を表す語に付いて)年齢がだいたいそのくらいであること。
  ちょうどその年くらいのようすであること。

同じ国語辞書は次のように解説している ;

1 地位。身分。また、等級。「格が上がる」
2 物事の仕方。流儀。「その格で行くと川へ落ちれば必ず死ぬ事になる」
3 決まり。規則。法則。「格ニハズレル」
4 《case》文法で、名詞・代名詞・形容詞などが文中においてもつ他の語との関係。主格・所有格・目的格など。いくつの格が立てられるかは言語によって異なる。
5 論理学で、三段論法の形式。大前提と小前提に共通の媒概念(中概念)の位置によって定まる。

このような解説で見る限り、地位、身分、等級などを意味する「格」が、あたかを意味する「恰」の字に取って変われられるような因素は見当たらない。

では、なぜ、「恰好」を「格好」に書き換える必要があるのか、という疑問が生じる訳だが、これは、筆者(私)の手に負えない難問だから、扨置 ( さてお) く。

ここで言いたいのは、「格好」という言葉自体すでに「好い」という意味を含んでいるのに、それに「好い」を更に継ぎ足して「格好が好い」という日本語を作り出すのは、可笑しい用語になる。恰度、外国人が「天丼」を「テンドン丼」と言って注文するのに似ている。又、「チャンコ鍋」という用語の「チャンコ」は中国語の「雑煮鍋」の倭読に更に鍋を付け加えたもので、何ともチグハグである。

外来語取り入れ文化の特徴であり、横文字外来語にも同じようなチグハグが良く見られる。「今日は、皆様大変ビジーでお忙しいところをわざわざお越し下され、厚くお礼申し上げます」などと「b u s y と忙し」を重ねた挨拶を時折拝聴することがある。これも、チグハグである。

NHKに、「cool Japan 」という、「 格好いい日本 」を、外国に紹介する TV 番組がある。台湾や中国にも, 似たような、外国人を集めた TV 座談の番組がある。が、彼等の番組は外国との交流に重点を置いているが、NHK の番組は日本を外国に紹介するもので、所謂一方通行の番組に重点を置いている点で、大きく異なるが、だから、わざわざ英語で、cool Japan と言う番組名にしている。
そればかりではない。台湾や中国の番組は、参加者司会者全て漢語 ( 北京語) 使用で、台湾の場合は北京語の他に台湾語も入るが、何れにしても現地の言葉使用である。一方、NHK の方は現地の日本語ではなしに、英語を使用している。外国人に見せる為に企画した番組という事が一目了然である。

NHKの番組参加者はざっと見ても十か国の国籍に分かれているが、全員流暢な英語で喋っているのに、司会者 ( 日本人) だけが日本語で応答し、陰の声で通訳している。どうしてだろうか。

「Cool Japan 」という勿体ぶった名前で外国に、「格好いいニッポン」を広告宣伝するなら、一寸垢抜けのした、英語が流暢に喋べれる「格好いい司会者」を出さなければ詠い文句とはチグハグだ思われるのではないか、外国人に見せる為の英語番組に、英語の達者な司会者も出せないでは、「格好」( 外見 ) だけはよく見えても、中身は大した事がないと誰しも思うだろう。

「格好」という言葉の語源が、外来言葉の「恰好」であり、その原義が「恰度好い」であるのに、その「恰好」を「格好」に書き換え、そして「格好好い」という用語を作り出す列島の文化は彼方此方にチグハグの特徴が見られる。

C o o l  J a p a n という勿体ぶった英語番組の司会者が英語喋らないというのもそのチグハグ文化の一つの顕著な表われだと言えるようだ。十か国の人が一堂に会して、英語で座談をしている、一人日本人司会者だけ英語が喋れない、もしくは、喋らない。どこが「格好いい」のかと思う。

そして、何よりも、気取る事にばかり気を取られ、口を開かずに「語学」を習得しようとする日本の風潮が TV 番組にもそのまま現れている。どこが、格好いいのかと思う。





随筆 【 日本語 の 襟を正す 】 その二

2022-12-20 08:21:41 | Weblog
 第二話   日本語 の 復習  

ーー  チンプンカンプンが多すぎる、「なぜ だろうか ? ーー
ーー  奇を衒う か 臍曲がり か 無知 なのか  挙げ句が、
    「語学音痴」の 栄える社会を作り上げた   ーー

「夢の中で亡き友と再会した」、と言うのと、「夢中で仕事した」、と言うのと、同じ、漢字の「夢中」を使っても、「の」が、付いているのと、付いていないのとで、意味は、全く違う。

「夢の中」は、眠っているうちに見る夢のなか。 英語だと、in a dream  になる。一方、「夢中」は、物事に熱中して 我を忘れる事。英語だと、 crazy になる。 大変な違いである。
漢字の本家 中国では、「夢中」は、in a dream、つまり、睡眠中に見る夢、 の意味一つしかない、なのに、列島に、なぜ全く繋がらない二つの意味があるのだろう。
なぜだろうか ?  

短距離世界第一人者 Usain bolt は日本でウサインボルトと読んでいるが、日本以外では、皆、ユセインボルトと読んでいる。所が、 Sadam hussain を日本ではサダムフセインと読んで、サダムフサインとは読まない。

この二人の横文字名前に、全く同じ部分が一か所ある。usainのsainとhussainのsainである。ところが同じsain を、日本人は一方をサインと呼び、もう一方をセインと呼んでいる。
なぜだろうか ? 

Top golferのRory McilroyのMcilroy は、日本で二通りの読み方があって、一つはマックロイで、いま一つはマキロイとなっている。

日本ゴルフダイジエスト社が本人に確かめたところ、「ク」であって、「キ」ではないという事が判明したので、その結果を公( おおやけ) にした。そして、留学或るいは滞米経歴を持つ日本人は問題なくマックロイと読んでいる。にも拘らず、日本のマスコミ報道は挙ってマキロイと標示し、庶民の多数もそれに従ってマキロイで通している。

Usain boltをユセインボルトと読めば、Mcilroyをマックロイと読めば、世界中どこでも通じるが、ウサインボルトとマキロイでは日本でしか分かって貰えない。それでも、日本人は外国人に「通じない」方を選んで使う。

なぜだろうか ?

米国の Mc Donalds が日本で開店したのは 1971 年で、今から四十数年前になる。世界ではマックダーノで親しまれているが、日本ではマクドナルドという舌を噛みそうな発音に換えている。理由は、この方が日本人に親しみ易いからだという。

近年になり、マクドナルドはダサイだという声が増えて来たので、それをマクドやマックに縮めて使い出した。だが、発音し易く、世界どこでも通用するマックダーノは依然として使わない。
言葉の用途が意思疎通の為にあるなら、多くの人と通じる道を選ばずに、通じない道を日本人は選ぶ。

なぜだろうか?

一事が万事、日本人は「日本」らしい発音を好む、という事が先ず考えられる。
だからUsainの U にはユーではなしに、平仮名読音のウを当て、そして同様にsainはセインの替りにサインとしている。それでいて、マクドナルドをマックに換えるのは、逆に日本風の発音から遠ざかる事になるから、これは可笑しい。

そこで、外国人に通じない外国語の発音を選ぶのは、日本風発音を好む事以外に、又、何か外の原因がある筈で、例えば、従来、マクドナルド一本で全国で通用していたものが、今度は、関西がマクドで、関東がマックと、二つに分けたのは、その様な必要性があるとは思えないから、これは、寧ろ、単なる旋毛(つむじ)か臍曲がり人間の遊び事に過ぎないと見る方が正解ではないかと思う。

旋毛曲がり、臍曲がり、という日本独特の用語は、国語辞書の解説によると、「性質がひねくれていて素直でないこと」だそうで、ツムジでもヘソでも、どちらでもよく、要は、「曲がっている」「素直でない」という所に問題がある用語である。

そのような「素直でない」用語の性質を表す最も卑近な例として、「負け嫌い」とすっきり言わずに、曖昧模糊な「負けず嫌い」を好んで使う事、更に、「ニソクサンモン」という捨て値形容詞の語源が草履から来ているというのにのに、「二足三文」と言わずに「二束三文」と言う、などなど多くの「素直でない」表現が日本語に多く見られる。

「素直でない」表現を好むのは、その裏に、「奇を衒( てら) おう」とする潜在意識があるからであろう。

なぜ「奇を衒( てら) おう」とするのか、国語辞書に依れば、「わざと普通と違っていることをして人の注意を引こうとする」ということだそうで、大衆が右に向けば、自分は左の方に向けて歩き、他人の注意を引こうとするようなものであろう。

日本は、「痩せ馬」であるが、何とか「駿馬」になろうとしている。人によっては、既に、立派な「駿馬」であると自負している日本人も少なくない。

そう自負するのは勝手な事ながら、「痩せ馬」は依然として「痩せ馬」であるという現実を変える事は出来ない。そのような「ジレンマ」( 二率背反) は、近代に入った後の日本を百数十年引き摺って来た。その為に、今だに、「日本はどこへ行く」という質問を執拗に繰り返しているのみで、「出る道」は見付かっていない。見付からないのは、振出しから、道を歩き間違えたからであろう。

一度、ニューヨークで見た、富士サンケイの T V 番組に、漢字の書き方についての街頭質問が放送された。

「上」という字の筆順はどうやって書くのか、という質問を五人の通行人に出したところ、正しい答えを出したのは、戦後育ちの若者一人だけで、その他、漢字に強い筈の中年年配の人達は全員間違っていた。

「上」という字は、まづ立て棒を先に引くことも出来る、または、ヨコ棒を先に書くことも出来る。つまり、I - 上でも、- I 上 でもよいので、昔から、二通りの筆順が一般に使はれていたが、戦前の学校は、- I 上の順で教えていた。

それが、戦後しばらくして、戦前の教科書筆順に問題ありとして、教育当局が五人の著名書道家に是非の審議を依頼した所、五大書道家は I - 上 が正しいという結論を出した。それで、戦前の教科書の筆順を取り消して、新たに、I - 上 の筆順に変えてしまった。一人だけ戦後育ちの若者が正解を出したのはこのためである。

「上」という字は、原産地の中国に於いて、二通りの書き方で数千年来通用して来た。別に何ら支障もなく、殊更筆順を問題にする人も居ない。
所が、列島ではそれを一通りだけにしなければ気が済まない、云うなれば、日本人の一徹な気性がそこにありありと現われている。この場合は、明らかに、「問題にならない」事を「問題にしている」一徹ぶりである。 漫才や落語に出てくるような笑い話に等しい。

それでいて、「負け嫌い」と「負けず嫌い」、「二足三文」と「二束三文」などのような極端に矛盾する用語については、全く意に介せずにほったらかしている。なんとも、ちぐはぐな列島社会の気質である。

言葉というのは、社会、或るいは、国の「魂」であるという事が出来る。日本語にはかなり「いい加減」な表現が数多く見られるが、これは、日本人同士の問題に留まる事だが、事、外国語になると、日本という域から出て、世界の人びとと広く付き合う為の「意思疎通」の道具になる。「いい加減」な表現では 外国人相手に通用しないし、付き合いも出来ない、という事を、日本人は百も承知している。

負け嫌いを負けず嫌いに、難なく言い換えることが出来るなら、ウサインをユセインに、マキロイをマクロイに、マクドナルド を マックダーノに、切り替えるのは、勿論、容易い事であるが、少数の日本人を除いて、マスコミ以下、多くの日本人は切り替えようとしない。

なぜだろうか ?

外から見て、「臍曲がり」か、「奇をてらおう」とする、潜在意識がその裏に控えているような気がしてならない。





【 極東の 辺境の島   日本 】      仁目子

2022-12-10 02:04:04 | Weblog
ーー  日出る国ではない  ーー
ーー  臍曲がりの田舎者が多い  ーー
ーー  マックダーノ 、マックロイ と言えない
    世界の田舎者 ーー
  
「日本特殊論」という言説がある。
「日本的」特性の独自性を強調する言説は,日本人の文化的衝撃や不適応の要因を日本人の行動特性に求めようとする議論である。

ーー  厚い「ウチ」の壁 ーー

日本人の異文化不適応の要因として、一つ良く挙げられているのが,日本人の人間関係に存在する「ウチ」と「ソト」の概念である。日本人はウチ(内側)にいる人間との関係は大事にするが,ソト(外側)の人間とはおそろしく疎遠である。これは日本人の,異質を認めない連続の思想に起因する。したがって異質なものを異質と認めて,そのうえで付き合っていくということができず,国際的な人付き合いの弊害となっている。

Mc Donalds (マックダーノ)という英語は、外国の言葉で、本来は「ソト」に属する。それを、マクドナルドという日本語のカタカナに変えて読むと、「ソト」を「ウチ」に変えた形になるから、日本人は老若男女問わず、喜んで、マクドナルドと言う。

Rori Macilroy (マックロイ)も同じである。ローリー マックロイと言わずに、ローリー マキロイ と言う。これらは、日本人はウチ(内側)との関係は大事にするが,ソト(外側)とはおそろしく疎遠である。これは日本人の,異質を認めない思想に起因する。

世の中、物事、全てに両面性がある。ウチを重んじれば、ソトが疎遠になる。マクドナルドも、マキロイも、日本人には通じるが、外国人には全く通じない。

「英語が話したい」という文句を,ウエブに入力してみた。 関連記事の数が、約90,700,000件 と出て来た。 九千七十万件だと云う事になる。 この数字を、単純に、了解するなら、幼児、児童を除いて、絶対多数の日本人が、英語を話したい、という欲望がある事を示している事になる。

高校卒なら六年、大学卒なら十年、日本人は学校で英語を勉強した。それだけで、簡単な英語は話せる。 ところが、絶対多数の日本人は、簡単な英語ですら話せない。事実は、話せないのではなく、話さない,とというのが実態である。

具体的な例を挙げると、good morning 、how are you という英語は誰でも知っているのに、誰もそれを口にしない。 なぜかと聞いてみると、周りの人が言わないから、自分も言わなない、という答えが戻って来る。極めて「日本的」な答えで、「世間体」への思惑が、横文字開口の妨げになっている。

世界最古の歴史を記録した、謎の古文書が、日本に在る。 「竹内文書」と言う。
太古の歴史を今に伝える、「古事記」、「日本書紀」、それらよりもはるか昔の神話を記録した古文書。

はるか昔、日本の天皇(スメラミコト)の祖先が地球に降り立ったころからの、世界最古の歴史を記録した、謎の古文書のことを、「竹内文書・竹内文献」と言う。

この古文書を受け継いだのが、皇祖皇太神宮(こうそ こうたいじんぐう)である。
3000億年前からの歴史が記載されている現代人の常識を覆す内容は神代文字「かみよもじ」で書かれている、と言う、が、真実は勿論定かでない。

竹内文書では、「無」から始まり、「宇宙創造」をし、「地球創造」をし、「世界の国々を作りそこに「五色人」を作られたという。

オリンピックの5色の輪も、この五色人から来ているといわれる。
古代の日本の天皇(スメラミコト)に会うために、世界中から聖人と呼ばれるイエスキリスト、釈迦、マホメット、老子、孔子など世界の大宗教教祖はすべて来日したと伝えられている。

現代の識者、学者は、揃って、この文書の内容は「荒唐無稽」である。と断定している、が、(日本)列島の超古代が「縄文時代」に該当するので、この文書は、列島超古代の縄文歴史を記述したものだと見る事が出来る。

それで、国粋狂信者は、日本の縄文時代は、世界最古の文明であり、「日本に生まれた」事を誇りに思う、と、喜びをウエブサイトに載せる現代日本人も居る。

が、ずれにしても、3000億年前の荒唐無稽なる歴史記載は、空前の世界最古の歴史記載であり、それが、日本人の手によって書かれた、という「事実」は、「日本特殊論」を裏付ける上でも、無視は出来ない。

現代日本の江戸時代の学者、本居宣長は、有名な『馭戎慨言』という「中つ国」論を公(おおやけ)にしている。 『古来からのわが国と中国朝鮮との交渉の歴史を詳述して、戎 ( じゅう) を馭 ぎょ) する道、すなわち西方の野蛮国である中国と朝鮮は、尊き皇国であるわが国にまつろうべきである』 ことを説いたものだった。

戎 ( じゅう) を馭 (ぎょ)する、というのは、古来は寧(むし) ろ中国側にあった思想であった筈、それを、宣長は、日本に移籍したのである。

宣長は更にこう言う。そもそも皇国が四海万国の元本宗主たる国であるのに、面積がさほど広大でないのには、二柱の大御神が生み成し給うたときに、凡人の小智をもってしては測りがたい深理があったのに相違なく、その不可測の理はさておくとして、現に目に見えることだけ挙げても、まず皇統の不易であること、人の命をたもつ稲穀の美しいこと、神代より外国に犯されたためしがないこと、田地多くして人民の多いことなど、諸国に冠絶する点は枚挙にイトマがない、と説いている。

『 皇国が四海万国の元本宗主たる国である』という主張は、上述の「竹内文書」の記述と全く同じである。という事は、現代日本人の特殊気質は、古代縄文遺伝子より受け継いだもの、だとしか考えられない。その本質は「荒唐無稽」の域から外れる事は、勿論 ありえない。

嘗て、ウエブの知恵袋に、このような「日本人天才論」質問があった。

《《 日本人は語学の天才だと思います。
だって、3種類の文字を使い分け、中でも漢字に至ってはものすごい数を記憶してるんですよ。規則が好きな日本人は、きっと他言語の規則性だってすぐに憶えられるはず。》》
このに対し、十の回答があった。その内、日本人天才に同調するのは皆無で、一つは、はっきりと、「天才でないからみんな苦しんでいるのです」と、開口一番、質問者に反論している。

そして、質問の ベストアンサー は、
《《 脳からみると、日本語は簡単らしいですよ。
   ラテン語の方が難しいです 》》
となっており、これも、天才否定の内に入る。

其の他回答を見て見る。
《《  ひらがなは漢字が憶えられない人のために作られたんだけど・・・ 》》
《《  単純です。島国であるために単一民族の歴史が長く以心伝心で通じて
    いるから 》》
《《 この手の話題は今まで何度も出てきたのですが、結論じみたことを言えば
言語に優劣もなければ言語そのものに習得の難易度の違いはありません 》》

などなど、明らかに、天才否定の意味合いを含んでいる。つまり、日本人が語学の天才である、と認めている日本人は、殆んど居ないという事が言える。

目下、世界中の国々は、国力発展の度合いの違いで以て、先進、開発途上、後進国、と幾つかに分類されている。

この漢字の分類は、元々、英語を翻訳したもので、夫々、原語が developed country, developing country , underdeveloping country になっている、 この原語である英語を見ると、develope 、即ち 「開発」というたった一つの単語が核になっている。所が、日本語の漢字訳は、先進、開発途上、後進、のように、三つの異なる単語に分かれている。

この三つ漢字単語を、英語に戻して見ると、開発途上がdeveloping, 後進が underdevelope で、共に、英語を忠実に訳したものだが、英語の developed country を正しく訳すならば、「開発した国」、即ち「開発完了国」になる筈である。が、「開発した国」を「「先進国」に訳したのは、意識的、或いは 恣意的な配慮で「誤訳?」をした、という事が考えられる。

「格好ヨイ日本」の嗜好」が極めて強い ヤマト人種であれば、他国より先行している事を意味する「先進国」を選ぶのは、想像に難くない。戦後、敗戦と言わずに「終戦」に、そして米軍占領を「米軍進駐」に言い換えたのと、全く同じ嗜好である。

前述の知恵袋質問者は、大変な日本贔屓(ひいき)の人士で、「日本人は語学の天才だ」だと、主張したかったようだけれども、事、語学に関する限り、余りにも、主張に無理があり過ぎた。

日本は職人の国だと、自他共に良く自慢する。物作りであろうと、話の作りであろうと、日本人は得意である。 神話作りが最も良い例であろう。
英語の develope を advance にすり替えれば、開発が先進に、いとも簡単に変えられる。そして、ヤマト人種は皆して喜ぶ。

従い、「開発完成国」が「先進国」に変身したのは、職人技を尤も得意とする人種が意識的に作り変えたものであるのは、殆んど疑いの余地がない。
そう言う意味では、日本人は語学の音痴である、が、語学を弄(もてあそ)び、作り変える事に関しては、天才である, と 言う事は出来る。

気分爽快の為に、言葉を弄ぶのは、先に進む事とはなんら関係がなく、その場限りの喜びで終わる。 漢字の開発と先進、或いは、英語のdevelope と advance 意味の異なりがきちっと解(わか)る、これは知る喜びであって、単なる気分的な喜びではない。 敗戦を終戦に言い換えた所で、日本の無条件降伏という事実が変わる訳ではない。

「開発完成国」を「先進国」に言い換えた所で、漢字を知っている日本人だけが自己陶酔するのみで、欧米諸国には珍文漢文だから、自慢にはならない。 

漢字の本家中国は、世界の媒体が、中国はもう「developed country 」(開発完成国)の内に入る、という報道をすると、中国の当局は、「いや、我々はまだdeveloping country 」(開発途上国)であるという公式声明を発表する。 流石に、古い文化国家だけあって、「先進国」? なんて、何文の値打ちがあるのか、という冷ややかな態度を世界中に見せつけている。 他人事ながら、大したもんだと思う。

そうして、何でも良いから、恰好だけ良くしたい、極東の、辺境の島国とは、明らかに、器(うつわ)が大変異なる。 其処のところ、 縄文の末裔、島国のヤマト人種は、もうちっと、大人になって、恰好だけに拘るのは、止めるべきではなかろうか。

広い世界の人々、ともども、マックダーノを味わい、ローリ マックロイを語り合う事が、出来るように「胸襟」を開くべきであろう ーー 田舎者の域から脱する為に ーー と、つくづく感じるので、この一文を書いた。