李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

随筆 【 日本語 の 襟を正す 】 その三

2022-12-25 12:41:30 | Weblog
 第三話   Cool Japan の意味

ーー  格好いい 、とは 何の事 ? ーー
ーー  チグハグも良いところ ーー

「格好」という言葉について、国語辞書に次のうような解説が出ている;

1 外から見た事物の形。姿。また、身なり。
2 人に対して恥ずかしくない姿・形。整った形。体裁。
3 物事の状態。のようなようす。
4(年齢を表す語に付いて)年齢がだいたいそのくらいであること。
  ちょうどその年くらいのようすであること。

同じ国語辞書は次のように解説している ;

1 地位。身分。また、等級。「格が上がる」
2 物事の仕方。流儀。「その格で行くと川へ落ちれば必ず死ぬ事になる」
3 決まり。規則。法則。「格ニハズレル」
4 《case》文法で、名詞・代名詞・形容詞などが文中においてもつ他の語との関係。主格・所有格・目的格など。いくつの格が立てられるかは言語によって異なる。
5 論理学で、三段論法の形式。大前提と小前提に共通の媒概念(中概念)の位置によって定まる。

このような解説で見る限り、地位、身分、等級などを意味する「格」が、あたかを意味する「恰」の字に取って変われられるような因素は見当たらない。

では、なぜ、「恰好」を「格好」に書き換える必要があるのか、という疑問が生じる訳だが、これは、筆者(私)の手に負えない難問だから、扨置 ( さてお) く。

ここで言いたいのは、「格好」という言葉自体すでに「好い」という意味を含んでいるのに、それに「好い」を更に継ぎ足して「格好が好い」という日本語を作り出すのは、可笑しい用語になる。恰度、外国人が「天丼」を「テンドン丼」と言って注文するのに似ている。又、「チャンコ鍋」という用語の「チャンコ」は中国語の「雑煮鍋」の倭読に更に鍋を付け加えたもので、何ともチグハグである。

外来語取り入れ文化の特徴であり、横文字外来語にも同じようなチグハグが良く見られる。「今日は、皆様大変ビジーでお忙しいところをわざわざお越し下され、厚くお礼申し上げます」などと「b u s y と忙し」を重ねた挨拶を時折拝聴することがある。これも、チグハグである。

NHKに、「cool Japan 」という、「 格好いい日本 」を、外国に紹介する TV 番組がある。台湾や中国にも, 似たような、外国人を集めた TV 座談の番組がある。が、彼等の番組は外国との交流に重点を置いているが、NHK の番組は日本を外国に紹介するもので、所謂一方通行の番組に重点を置いている点で、大きく異なるが、だから、わざわざ英語で、cool Japan と言う番組名にしている。
そればかりではない。台湾や中国の番組は、参加者司会者全て漢語 ( 北京語) 使用で、台湾の場合は北京語の他に台湾語も入るが、何れにしても現地の言葉使用である。一方、NHK の方は現地の日本語ではなしに、英語を使用している。外国人に見せる為に企画した番組という事が一目了然である。

NHKの番組参加者はざっと見ても十か国の国籍に分かれているが、全員流暢な英語で喋っているのに、司会者 ( 日本人) だけが日本語で応答し、陰の声で通訳している。どうしてだろうか。

「Cool Japan 」という勿体ぶった名前で外国に、「格好いいニッポン」を広告宣伝するなら、一寸垢抜けのした、英語が流暢に喋べれる「格好いい司会者」を出さなければ詠い文句とはチグハグだ思われるのではないか、外国人に見せる為の英語番組に、英語の達者な司会者も出せないでは、「格好」( 外見 ) だけはよく見えても、中身は大した事がないと誰しも思うだろう。

「格好」という言葉の語源が、外来言葉の「恰好」であり、その原義が「恰度好い」であるのに、その「恰好」を「格好」に書き換え、そして「格好好い」という用語を作り出す列島の文化は彼方此方にチグハグの特徴が見られる。

C o o l  J a p a n という勿体ぶった英語番組の司会者が英語喋らないというのもそのチグハグ文化の一つの顕著な表われだと言えるようだ。十か国の人が一堂に会して、英語で座談をしている、一人日本人司会者だけ英語が喋れない、もしくは、喋らない。どこが「格好いい」のかと思う。

そして、何よりも、気取る事にばかり気を取られ、口を開かずに「語学」を習得しようとする日本の風潮が TV 番組にもそのまま現れている。どこが、格好いいのかと思う。





随筆 【 日本語 の 襟を正す 】 その二

2022-12-20 08:21:41 | Weblog
 第二話   日本語 の 復習  

ーー  チンプンカンプンが多すぎる、「なぜ だろうか ? ーー
ーー  奇を衒う か 臍曲がり か 無知 なのか  挙げ句が、
    「語学音痴」の 栄える社会を作り上げた   ーー

「夢の中で亡き友と再会した」、と言うのと、「夢中で仕事した」、と言うのと、同じ、漢字の「夢中」を使っても、「の」が、付いているのと、付いていないのとで、意味は、全く違う。

「夢の中」は、眠っているうちに見る夢のなか。 英語だと、in a dream  になる。一方、「夢中」は、物事に熱中して 我を忘れる事。英語だと、 crazy になる。 大変な違いである。
漢字の本家 中国では、「夢中」は、in a dream、つまり、睡眠中に見る夢、 の意味一つしかない、なのに、列島に、なぜ全く繋がらない二つの意味があるのだろう。
なぜだろうか ?  

短距離世界第一人者 Usain bolt は日本でウサインボルトと読んでいるが、日本以外では、皆、ユセインボルトと読んでいる。所が、 Sadam hussain を日本ではサダムフセインと読んで、サダムフサインとは読まない。

この二人の横文字名前に、全く同じ部分が一か所ある。usainのsainとhussainのsainである。ところが同じsain を、日本人は一方をサインと呼び、もう一方をセインと呼んでいる。
なぜだろうか ? 

Top golferのRory McilroyのMcilroy は、日本で二通りの読み方があって、一つはマックロイで、いま一つはマキロイとなっている。

日本ゴルフダイジエスト社が本人に確かめたところ、「ク」であって、「キ」ではないという事が判明したので、その結果を公( おおやけ) にした。そして、留学或るいは滞米経歴を持つ日本人は問題なくマックロイと読んでいる。にも拘らず、日本のマスコミ報道は挙ってマキロイと標示し、庶民の多数もそれに従ってマキロイで通している。

Usain boltをユセインボルトと読めば、Mcilroyをマックロイと読めば、世界中どこでも通じるが、ウサインボルトとマキロイでは日本でしか分かって貰えない。それでも、日本人は外国人に「通じない」方を選んで使う。

なぜだろうか ?

米国の Mc Donalds が日本で開店したのは 1971 年で、今から四十数年前になる。世界ではマックダーノで親しまれているが、日本ではマクドナルドという舌を噛みそうな発音に換えている。理由は、この方が日本人に親しみ易いからだという。

近年になり、マクドナルドはダサイだという声が増えて来たので、それをマクドやマックに縮めて使い出した。だが、発音し易く、世界どこでも通用するマックダーノは依然として使わない。
言葉の用途が意思疎通の為にあるなら、多くの人と通じる道を選ばずに、通じない道を日本人は選ぶ。

なぜだろうか?

一事が万事、日本人は「日本」らしい発音を好む、という事が先ず考えられる。
だからUsainの U にはユーではなしに、平仮名読音のウを当て、そして同様にsainはセインの替りにサインとしている。それでいて、マクドナルドをマックに換えるのは、逆に日本風の発音から遠ざかる事になるから、これは可笑しい。

そこで、外国人に通じない外国語の発音を選ぶのは、日本風発音を好む事以外に、又、何か外の原因がある筈で、例えば、従来、マクドナルド一本で全国で通用していたものが、今度は、関西がマクドで、関東がマックと、二つに分けたのは、その様な必要性があるとは思えないから、これは、寧ろ、単なる旋毛(つむじ)か臍曲がり人間の遊び事に過ぎないと見る方が正解ではないかと思う。

旋毛曲がり、臍曲がり、という日本独特の用語は、国語辞書の解説によると、「性質がひねくれていて素直でないこと」だそうで、ツムジでもヘソでも、どちらでもよく、要は、「曲がっている」「素直でない」という所に問題がある用語である。

そのような「素直でない」用語の性質を表す最も卑近な例として、「負け嫌い」とすっきり言わずに、曖昧模糊な「負けず嫌い」を好んで使う事、更に、「ニソクサンモン」という捨て値形容詞の語源が草履から来ているというのにのに、「二足三文」と言わずに「二束三文」と言う、などなど多くの「素直でない」表現が日本語に多く見られる。

「素直でない」表現を好むのは、その裏に、「奇を衒( てら) おう」とする潜在意識があるからであろう。

なぜ「奇を衒( てら) おう」とするのか、国語辞書に依れば、「わざと普通と違っていることをして人の注意を引こうとする」ということだそうで、大衆が右に向けば、自分は左の方に向けて歩き、他人の注意を引こうとするようなものであろう。

日本は、「痩せ馬」であるが、何とか「駿馬」になろうとしている。人によっては、既に、立派な「駿馬」であると自負している日本人も少なくない。

そう自負するのは勝手な事ながら、「痩せ馬」は依然として「痩せ馬」であるという現実を変える事は出来ない。そのような「ジレンマ」( 二率背反) は、近代に入った後の日本を百数十年引き摺って来た。その為に、今だに、「日本はどこへ行く」という質問を執拗に繰り返しているのみで、「出る道」は見付かっていない。見付からないのは、振出しから、道を歩き間違えたからであろう。

一度、ニューヨークで見た、富士サンケイの T V 番組に、漢字の書き方についての街頭質問が放送された。

「上」という字の筆順はどうやって書くのか、という質問を五人の通行人に出したところ、正しい答えを出したのは、戦後育ちの若者一人だけで、その他、漢字に強い筈の中年年配の人達は全員間違っていた。

「上」という字は、まづ立て棒を先に引くことも出来る、または、ヨコ棒を先に書くことも出来る。つまり、I - 上でも、- I 上 でもよいので、昔から、二通りの筆順が一般に使はれていたが、戦前の学校は、- I 上の順で教えていた。

それが、戦後しばらくして、戦前の教科書筆順に問題ありとして、教育当局が五人の著名書道家に是非の審議を依頼した所、五大書道家は I - 上 が正しいという結論を出した。それで、戦前の教科書の筆順を取り消して、新たに、I - 上 の筆順に変えてしまった。一人だけ戦後育ちの若者が正解を出したのはこのためである。

「上」という字は、原産地の中国に於いて、二通りの書き方で数千年来通用して来た。別に何ら支障もなく、殊更筆順を問題にする人も居ない。
所が、列島ではそれを一通りだけにしなければ気が済まない、云うなれば、日本人の一徹な気性がそこにありありと現われている。この場合は、明らかに、「問題にならない」事を「問題にしている」一徹ぶりである。 漫才や落語に出てくるような笑い話に等しい。

それでいて、「負け嫌い」と「負けず嫌い」、「二足三文」と「二束三文」などのような極端に矛盾する用語については、全く意に介せずにほったらかしている。なんとも、ちぐはぐな列島社会の気質である。

言葉というのは、社会、或るいは、国の「魂」であるという事が出来る。日本語にはかなり「いい加減」な表現が数多く見られるが、これは、日本人同士の問題に留まる事だが、事、外国語になると、日本という域から出て、世界の人びとと広く付き合う為の「意思疎通」の道具になる。「いい加減」な表現では 外国人相手に通用しないし、付き合いも出来ない、という事を、日本人は百も承知している。

負け嫌いを負けず嫌いに、難なく言い換えることが出来るなら、ウサインをユセインに、マキロイをマクロイに、マクドナルド を マックダーノに、切り替えるのは、勿論、容易い事であるが、少数の日本人を除いて、マスコミ以下、多くの日本人は切り替えようとしない。

なぜだろうか ?

外から見て、「臍曲がり」か、「奇をてらおう」とする、潜在意識がその裏に控えているような気がしてならない。





【 極東の 辺境の島   日本 】      仁目子

2022-12-10 02:04:04 | Weblog
ーー  日出る国ではない  ーー
ーー  臍曲がりの田舎者が多い  ーー
ーー  マックダーノ 、マックロイ と言えない
    世界の田舎者 ーー
  
「日本特殊論」という言説がある。
「日本的」特性の独自性を強調する言説は,日本人の文化的衝撃や不適応の要因を日本人の行動特性に求めようとする議論である。

ーー  厚い「ウチ」の壁 ーー

日本人の異文化不適応の要因として、一つ良く挙げられているのが,日本人の人間関係に存在する「ウチ」と「ソト」の概念である。日本人はウチ(内側)にいる人間との関係は大事にするが,ソト(外側)の人間とはおそろしく疎遠である。これは日本人の,異質を認めない連続の思想に起因する。したがって異質なものを異質と認めて,そのうえで付き合っていくということができず,国際的な人付き合いの弊害となっている。

Mc Donalds (マックダーノ)という英語は、外国の言葉で、本来は「ソト」に属する。それを、マクドナルドという日本語のカタカナに変えて読むと、「ソト」を「ウチ」に変えた形になるから、日本人は老若男女問わず、喜んで、マクドナルドと言う。

Rori Macilroy (マックロイ)も同じである。ローリー マックロイと言わずに、ローリー マキロイ と言う。これらは、日本人はウチ(内側)との関係は大事にするが,ソト(外側)とはおそろしく疎遠である。これは日本人の,異質を認めない思想に起因する。

世の中、物事、全てに両面性がある。ウチを重んじれば、ソトが疎遠になる。マクドナルドも、マキロイも、日本人には通じるが、外国人には全く通じない。

「英語が話したい」という文句を,ウエブに入力してみた。 関連記事の数が、約90,700,000件 と出て来た。 九千七十万件だと云う事になる。 この数字を、単純に、了解するなら、幼児、児童を除いて、絶対多数の日本人が、英語を話したい、という欲望がある事を示している事になる。

高校卒なら六年、大学卒なら十年、日本人は学校で英語を勉強した。それだけで、簡単な英語は話せる。 ところが、絶対多数の日本人は、簡単な英語ですら話せない。事実は、話せないのではなく、話さない,とというのが実態である。

具体的な例を挙げると、good morning 、how are you という英語は誰でも知っているのに、誰もそれを口にしない。 なぜかと聞いてみると、周りの人が言わないから、自分も言わなない、という答えが戻って来る。極めて「日本的」な答えで、「世間体」への思惑が、横文字開口の妨げになっている。

世界最古の歴史を記録した、謎の古文書が、日本に在る。 「竹内文書」と言う。
太古の歴史を今に伝える、「古事記」、「日本書紀」、それらよりもはるか昔の神話を記録した古文書。

はるか昔、日本の天皇(スメラミコト)の祖先が地球に降り立ったころからの、世界最古の歴史を記録した、謎の古文書のことを、「竹内文書・竹内文献」と言う。

この古文書を受け継いだのが、皇祖皇太神宮(こうそ こうたいじんぐう)である。
3000億年前からの歴史が記載されている現代人の常識を覆す内容は神代文字「かみよもじ」で書かれている、と言う、が、真実は勿論定かでない。

竹内文書では、「無」から始まり、「宇宙創造」をし、「地球創造」をし、「世界の国々を作りそこに「五色人」を作られたという。

オリンピックの5色の輪も、この五色人から来ているといわれる。
古代の日本の天皇(スメラミコト)に会うために、世界中から聖人と呼ばれるイエスキリスト、釈迦、マホメット、老子、孔子など世界の大宗教教祖はすべて来日したと伝えられている。

現代の識者、学者は、揃って、この文書の内容は「荒唐無稽」である。と断定している、が、(日本)列島の超古代が「縄文時代」に該当するので、この文書は、列島超古代の縄文歴史を記述したものだと見る事が出来る。

それで、国粋狂信者は、日本の縄文時代は、世界最古の文明であり、「日本に生まれた」事を誇りに思う、と、喜びをウエブサイトに載せる現代日本人も居る。

が、ずれにしても、3000億年前の荒唐無稽なる歴史記載は、空前の世界最古の歴史記載であり、それが、日本人の手によって書かれた、という「事実」は、「日本特殊論」を裏付ける上でも、無視は出来ない。

現代日本の江戸時代の学者、本居宣長は、有名な『馭戎慨言』という「中つ国」論を公(おおやけ)にしている。 『古来からのわが国と中国朝鮮との交渉の歴史を詳述して、戎 ( じゅう) を馭 ぎょ) する道、すなわち西方の野蛮国である中国と朝鮮は、尊き皇国であるわが国にまつろうべきである』 ことを説いたものだった。

戎 ( じゅう) を馭 (ぎょ)する、というのは、古来は寧(むし) ろ中国側にあった思想であった筈、それを、宣長は、日本に移籍したのである。

宣長は更にこう言う。そもそも皇国が四海万国の元本宗主たる国であるのに、面積がさほど広大でないのには、二柱の大御神が生み成し給うたときに、凡人の小智をもってしては測りがたい深理があったのに相違なく、その不可測の理はさておくとして、現に目に見えることだけ挙げても、まず皇統の不易であること、人の命をたもつ稲穀の美しいこと、神代より外国に犯されたためしがないこと、田地多くして人民の多いことなど、諸国に冠絶する点は枚挙にイトマがない、と説いている。

『 皇国が四海万国の元本宗主たる国である』という主張は、上述の「竹内文書」の記述と全く同じである。という事は、現代日本人の特殊気質は、古代縄文遺伝子より受け継いだもの、だとしか考えられない。その本質は「荒唐無稽」の域から外れる事は、勿論 ありえない。

嘗て、ウエブの知恵袋に、このような「日本人天才論」質問があった。

《《 日本人は語学の天才だと思います。
だって、3種類の文字を使い分け、中でも漢字に至ってはものすごい数を記憶してるんですよ。規則が好きな日本人は、きっと他言語の規則性だってすぐに憶えられるはず。》》
このに対し、十の回答があった。その内、日本人天才に同調するのは皆無で、一つは、はっきりと、「天才でないからみんな苦しんでいるのです」と、開口一番、質問者に反論している。

そして、質問の ベストアンサー は、
《《 脳からみると、日本語は簡単らしいですよ。
   ラテン語の方が難しいです 》》
となっており、これも、天才否定の内に入る。

其の他回答を見て見る。
《《  ひらがなは漢字が憶えられない人のために作られたんだけど・・・ 》》
《《  単純です。島国であるために単一民族の歴史が長く以心伝心で通じて
    いるから 》》
《《 この手の話題は今まで何度も出てきたのですが、結論じみたことを言えば
言語に優劣もなければ言語そのものに習得の難易度の違いはありません 》》

などなど、明らかに、天才否定の意味合いを含んでいる。つまり、日本人が語学の天才である、と認めている日本人は、殆んど居ないという事が言える。

目下、世界中の国々は、国力発展の度合いの違いで以て、先進、開発途上、後進国、と幾つかに分類されている。

この漢字の分類は、元々、英語を翻訳したもので、夫々、原語が developed country, developing country , underdeveloping country になっている、 この原語である英語を見ると、develope 、即ち 「開発」というたった一つの単語が核になっている。所が、日本語の漢字訳は、先進、開発途上、後進、のように、三つの異なる単語に分かれている。

この三つ漢字単語を、英語に戻して見ると、開発途上がdeveloping, 後進が underdevelope で、共に、英語を忠実に訳したものだが、英語の developed country を正しく訳すならば、「開発した国」、即ち「開発完了国」になる筈である。が、「開発した国」を「「先進国」に訳したのは、意識的、或いは 恣意的な配慮で「誤訳?」をした、という事が考えられる。

「格好ヨイ日本」の嗜好」が極めて強い ヤマト人種であれば、他国より先行している事を意味する「先進国」を選ぶのは、想像に難くない。戦後、敗戦と言わずに「終戦」に、そして米軍占領を「米軍進駐」に言い換えたのと、全く同じ嗜好である。

前述の知恵袋質問者は、大変な日本贔屓(ひいき)の人士で、「日本人は語学の天才だ」だと、主張したかったようだけれども、事、語学に関する限り、余りにも、主張に無理があり過ぎた。

日本は職人の国だと、自他共に良く自慢する。物作りであろうと、話の作りであろうと、日本人は得意である。 神話作りが最も良い例であろう。
英語の develope を advance にすり替えれば、開発が先進に、いとも簡単に変えられる。そして、ヤマト人種は皆して喜ぶ。

従い、「開発完成国」が「先進国」に変身したのは、職人技を尤も得意とする人種が意識的に作り変えたものであるのは、殆んど疑いの余地がない。
そう言う意味では、日本人は語学の音痴である、が、語学を弄(もてあそ)び、作り変える事に関しては、天才である, と 言う事は出来る。

気分爽快の為に、言葉を弄ぶのは、先に進む事とはなんら関係がなく、その場限りの喜びで終わる。 漢字の開発と先進、或いは、英語のdevelope と advance 意味の異なりがきちっと解(わか)る、これは知る喜びであって、単なる気分的な喜びではない。 敗戦を終戦に言い換えた所で、日本の無条件降伏という事実が変わる訳ではない。

「開発完成国」を「先進国」に言い換えた所で、漢字を知っている日本人だけが自己陶酔するのみで、欧米諸国には珍文漢文だから、自慢にはならない。 

漢字の本家中国は、世界の媒体が、中国はもう「developed country 」(開発完成国)の内に入る、という報道をすると、中国の当局は、「いや、我々はまだdeveloping country 」(開発途上国)であるという公式声明を発表する。 流石に、古い文化国家だけあって、「先進国」? なんて、何文の値打ちがあるのか、という冷ややかな態度を世界中に見せつけている。 他人事ながら、大したもんだと思う。

そうして、何でも良いから、恰好だけ良くしたい、極東の、辺境の島国とは、明らかに、器(うつわ)が大変異なる。 其処のところ、 縄文の末裔、島国のヤマト人種は、もうちっと、大人になって、恰好だけに拘るのは、止めるべきではなかろうか。

広い世界の人々、ともども、マックダーノを味わい、ローリ マックロイを語り合う事が、出来るように「胸襟」を開くべきであろう ーー 田舎者の域から脱する為に ーー と、つくづく感じるので、この一文を書いた。