李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【 摩訶不思議な 縄文末裔ヤマト人種 の語学 】     仁目子

2022-08-30 02:45:11 | Weblog
ーー 英語が話せるようになりたい、と言うのに、
    英語を話さない ーー
――  言葉は、話さなければ、話せるようには成り得ない ーー

「英語が話したい」という文句を,ウエブに入力してみた。 関連記事の数が、約90,700,000件 と出て来た。 九千七十万件だと云う事になる。 この数字を、単純に、了解するなら、幼児、児童を除いて、絶対多数の日本人が、英語を話したい、という欲望がある事を示している事になる。

高校卒なら六年、大学卒なら十年、日本人は学校で英語を勉強した。それだけで、簡単な英語は話せる。 ところが、絶対多数の日本人は、簡単な英語ですら話せない。事実は、話せないのではなく、話さない,とというのが実態である。

具体的な例を挙げると、good morning 、how are you という英語は誰でも知っているのに、誰もそれを口にしない。 なぜかと聞いてみると、周りの人が言わないから、自分も言わなない、という答えが戻って来る。極めて「日本的」な答えで、「世間体」への思惑が、横文字開口の妨げになっている。

ロスのゴルフ場で、たまたま一緒に回った、帰国を前にした、商社駐在員の奥さんが、「お先真っ暗」だと言って、帰国を厭がっていた。折角、米国でマックダーノという英語を覚えたのに、帰国すれば、「世間体」の柵(しがらみ)で、又、マクドナルドという野暮ったい発音に戻らざるを得ない。それを思うと、お先が暗くなる、と言う。 分かる話である。

「日本特殊論」という言説がある。
「日本的」特性の独自性を強調する言説は,日本人の文化的衝撃や不適応の要因を日本人の行動特性に求めようとする議論である。

ーー  厚い「ウチ」の壁 ーー

日本人の異文化不適応の要因として、一つ良く挙げられているのが,日本人の人間関係に存在する「ウチ」と「ソト」の概念である。日本人はウチ(内側)にいる人間との関係は大事にするが,ソト(外側)の人間とはおそろしく疎遠である。これは日本人の,異質を認めない連続の思想に起因する。したがって異質なものを異質と認めて,そのうえで付き合っていくということができず,国際的な人付き合いの弊害となっている。

Mc Donalds (マックダーノ)という英語は、外国の言葉で、本来は「ソト」に属する。それを、マクドナルドという日本語のカタカナに変えて読むと、「ソト」を「ウチ」に変えた形になるから、日本人は老若男女問わず、喜んで、マクドナルドと言う。
Rori Macilroy (マックロイ)も同じである。ローリー マックロイと言わずに、ローリー マキロイ と言う。これらは、日本人はウチ(内側)との関係は大事にするが,ソト(外側)とはおそろしく疎遠である。これは日本人の,異質を認めない思想に起因する。

世の中、物事、全てに両面性がある。ウチを重んじれば、ソトが疎遠になる。マクドナルドも、マキロイも、日本人には通じるが、外国人には全く通じない。

英語が話せるように成りたい、と思う日本人は、日本人口の圧倒多数を占めている。動機は何かというと、誰しも、外国人との講話が出来るように成りたい、と言う。
英語が日本に上陸し、日本人が一生懸命に習い覚え始めて、既に、百六十年の、長い歳月が過ぎた。が、大半の日本人は、未だ英語が話せない。

ウエブに、「なぜ 英語が話せない」という記事が約8,200,000件ある。お分かりのように、日本語の特殊性、学校英語教育の不当、日本の社会は日本語だけで十分やっていける、などなどの自己弁解や自己欺瞞や自己安慰に満ちた記事が大半を占めている。

所が、肝心の「話せない」原因を、率直に言い表わす記事が見当たらない。上述したように、大半の日本人は英語教育を長年受けて、英語を知っているのに、それを使わない、つまり、話さない。結果的に、話せないようになる。それが、本当の原因である。

朝出勤したら、「お早う」の代わりに、時折り「good morning 」と、「調子はどう?」の代わりに「how are you 」と、同僚に声を掛けてみる。周りが、マクドナルド や マキロイ の単細胞発音に飽きている時に、マックダーノ や マックロイの変わった多細胞発音で、皆さんを「目ざめさせ」、同時に。「俺も、英語が口から軽く出るようになった」という自信を付ける助けにもなる。

世の中、万事、突破口を要する事が多々ある。今の日本人には、英語の基礎知識は十分ある。が、使わない、話さない、という事で、自分を「語学音痴」の境地に追い込んでいる。使う、話す、という突破口さえ掴めれば、英語が話せるようになるのは、左程の時間は掛からない。
ウエブサイトで、ああでもない、こうでもない、と、詰まらぬ能書きや論議を論じるより、話す、という勇気を如何にして持つか、それと真剣に取り組んだ方が、役に立つ。

語学音痴の汚名を消すのは、これが最善の方法である。英語の本場米国から、太平洋を隔て、遥かなる日本列島に、「言葉は、話さなければ、話せるようには成り得ない」という金科玉条を贈る。

語学音痴の汚名返上の参考に成れば、幸いだと思う・

【 縄文遺伝子による  外国語の日本語化 】   仁目子

2022-08-19 15:58:37 | Weblog

 ーー なぜ 日本人は英語話せない  ーー
ーー 魔法の発音カタカナ英語から脱することが出来ないのは、自己欺瞞の陶酔から目覚める事が出来ない為である ーー
――  ぐるもうねん たんきょ に始まり、いまだに、マクドナルド、マキロイ と 続いている  ーー


日本人が初めて英語に接したのは、もう百六十年以上になる。 1854年、日本で出版された「異国ことば」という本に、
「久しぶりに会いたるを ーーー ぐるもうねん
「ものもらいしときは  ーーー たんきょ」

と書いてあった。英語の初めての日本上陸である。

列島で、百六十年来一所懸命習って来た英語が、未だもって物にならないのは、列島に、「カタカナ」というものがあって、英語の似而非 ( えせ ) 発音が可能である事が、日本人英語発音不得手の要因となっている。似而非発音は、所詮、似而非発音であるからだ。

ある脳科学者が 2004 年に、『魔法の発音カタカナ英語』という書名の本を講談社から出して、一寸した反響を呼んだ。表紙に「一気にネイテイブ!」という見出しが付いていた。

この本の宣伝広告に、読者の反応 ( カストマレビユー) を星の数で表している。星五つ、星四つ、星三つ、星一つ、があって、星二つは無い。 星数で好評の度合いを表しているようだが、好評の星五つを見ると、『教科書発音からの脱却』、『発音に迷いが無くなる』、『英語の特効薬』、『発音の救世主』、『こんな本を待っていた』、『英語嫌いの私にぴったり』、『発音の意識改革にもってこい』、、、などなどの讃辞に溢れている。

では、実際に役に立ったかどうか、という肝腎の問題になると、内容がかなり可笑しくなって来る。 例えば、「教科書発音からの脱却」は五つ星だが、これが実際に「役に立ったと考える」意見は 僅かの三人しか居ない。所が、「不完全かつ非科学的」という理由で一つ星を付けた酷評には三十四人が賛同している。星の数の多少が、役に立つか立たないかの基準にならないのははっきりしている。

英語学習に 魔法があるなら、カタカナ発音が役に立つようなら、列島は百六十年来この道で苦労して来たが未だに語学音痴で有る筈がない。 カタカナ英語は 何も今に始まったものではない。日本人が初めて英語に接したのは、もう二百年以上になる。 諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)という、1814 年頃に編纂した本がある。

今から二百年ほど前に完成した、6000 の英単語を収集した日本初の英和辞典である。 この本は、発音はカタカナで、意味は漢語で解説している。幾つか簡単な単語の例を次に挙げてみる;
above   エボーフ 上
about   アボウト  由関係、又大凡
bank   ベンク   銀舗
barber   ベルブル  剃剪
juice   ジェイス  木汁
letter   レットル  書翰又文字

のようになっていて、当世の日本人に読ませたら、間違いなく腹を抱えて笑うようなカタカナ発音になっている。

進んで 1854年に、日本で出版された「異国ことば」という本に、
「久しぶりに会いたるをーーーぐるもうねん
「ものもらいしときはーーーたんきょ」
と書いてあった。
ぐるもうねんは good morning で、たんきょは thank you であリ、上述の諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)同様、噴飯もののカナ発音である。

又、有名なジャン万次郎が 1859年に,英会話入門書『英米対話捷径』(えいべいたいわしょうけい) を出版した。

善 (よ) き日でござる  
グーリデイ シャアー
Good day, Sir.

こんな感じの例文が,200ちょっと掲載されている。
そして、 that(ザヤタ)、Grandfather(グランダフワザ)、Father(フワザ)、thing(センキ)、than(ザン)、this(ゼシ)、morning(モーネン)、think(センカ)、rather(ラザ)、などのように、掲載されている単語のカタカナ発音は、原語発音とかなり程遠い。

百、二百年前のカタカナ使用者と当今の使用者は、共に、同じ日本人であるが、昔の、that(ザヤタ)、Grandfather(グランダフワザ)と、今日の ( ザッツ) ( グランドフアーザ) 、昔の、 thing(センキ)、this(ゼシ) と、今日の ( シング) ( ジス) 、どうして、こんなに大きく違うのかと不思議に思う。

good morning という毎日口にし、耳にする英語の日本人による発音は、グルモウネン、グーリモルニン、モオネン、グッドモーニング、などのように、時代により、人により、大きく異なる。 これらの過去のカタカナ発音と今日の脳科学者のカタカナ発音は、同じ日本人の発音だが 明らかに大きく異なっている。

そして、二十一世紀の新たなカタカナ発音を、この脳科学者は、「魔法の発音」と称して、次のように応用する事を薦めている。

Can I have...?(~をください)は 「ケナヤブ」
Do you have...?(~はありますか?)は 「ジュヤブ」
Do you want to...?(~したいですか?)は「ジュワナ」   
I want you to...(~してください)は「アイワニュル」   
Do you mind if I...?(~してもよいですか?)は  「ジュマインデファイ」   
Can you take our picture?(シャッターを押してくださ い?)は 「ケニュテイカワペクチョ」

そして、なんと・・・ 
What do you think about it? (どう思う?)は「悪酔いチンコ暴れ」で通じる!とまで言っている。

筆者は、米国の N Y と L A に住み着いて三十余年になる、マンハッタンの米国企業で長年仕事もしたから、脳科学者ほど「英語は知らない」とは、お世辞にも、或いは、謙虚な気持ちになっても言えない。 試しに、米国の知人に「ケナヤブ」「ジュヤブ」「アイワニュル」、、、は何のことかと聞いて見たら、怪訝な顔をしていたので、同じカタカナ発音で、「キャン アイ ハブ」「ドウ ユーハブ」「アイ ワンツ ユー ツー」の事だよと言い換えたら、「何んだ、そんな事か」と難なく納得した。

英語の発音は、一通りしかない。所が、それを列島の学者が日本語カタカナで発音すると、十人十色の発音になる。その十人十色の中から、どれを選べば良いか、諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)か、「異国ことば」という本か、ジャン万次郎の英会話入門書か、脳科学者の『魔法の発音カタカナ英語』か、恐らく、選びようがないであろう。

大体、列島の人々は英語の正しい発音を百数十年来習得する事なく、今日に到っているから、正しい英語の発音を全くと言ってもよいほど知らない、だから、まやかしカタカナ発音の中から「これならいけそうだ」という発音を選ぶにも選びようがない。 ただ、何んとなく英語を懸命に勉強する為に、同じ語学音痴の日本人が出版した「魔妖(まやかし)」の英語参考書を手当たり次第買い込んで読んでいるわけで、率直に云うならば、それは「自己欺瞞」による「自己陶酔」の材料には成り得ても、英語の学習にはさ程役には立たない。

列島は、このような英語学習法を百数十年来続け、挙げ句、英語達者な日本人よりも、英語音痴の日本人を育成して来た。 魚を捕るなら、水の中に入る事が必要であるのと同じように、英語を覚えるなら、「真面(まとも)な英語の発音」から始めるべきで、「魔妖(まやかし)」のカタカナ発音で英語が通じると思うのは「木に縁 (よ) りて魚を求める」ように馬鹿げている事であり、一日でも早く、カタカナ依存に見切りを付けなければ、列島の語学音痴は、今後とも増えることはあっても減ることはない。

百数十年も英語と付き合って、未だに このような基本に対して無頓着である「無神経さ」に呆(あき)れる。 なぜだろうか、と考えて見る。

日本には昔はバターが無かった。食べる習慣も無かった。だから、西洋風な感じがする。また,西洋かぶれしている。それで、英語はバタ臭いと言われ、英語を話すと、キザな野郎だと、嫌われる。  「出る杭は打たれる」という諺は、島国日本の、独特な、伝統的「社会概念」であり、他の社会には無い。

数万年の長い歴史を持つ「縄文時代社会」は、列島特有の原始社会であり、他の国にはない社会である。「日本」という国、社会は、この原始社会を底辺にして、外来の「弥生社会」との混合により、成立したもので、当然の事ながら、蒙昧と良識の両極端が、共存する社会に成らざるを得ない。

この様な「蒙昧と良識」の混合遺伝子を持つ列島社会は、其の他国際社会とは、可成り異なっている。例えば、「先進国」に発展した今日に到るも、「日本は不可解な国」だと、よく言われる。そして、「日本の常識は 世界の非常識である」と、自他共に認めている。 率直に認めるなら、「蒙昧と良識」の併存による社会の「矛盾性」によるもので、本元を辿れば、「縄文遺伝子」に負う所が大である、という事になる。

縄文社会は、列島外部との接触が全く無かった。 その遺伝子が、今日の列島にそのまま根強く残っている。英語はバタ臭いと言われ、英語を話すと、キザな野郎だと、嫌われる。日本にだけ存在する社会観念であるのは、外部との接触に否定的である事の証しであり、そして、何よりも、受け入れに否定的な外来の「英語」を、同時に、一生懸命に習い覚えようとする日本社会の姿勢は、明らかに、大変な「矛盾」を見る事が出来る。 更に、習い覚えようとするのに、英語の発音を避けて、日本語のカタカナを使う。勿論、英語にはならない。こんなバカげた事を、日本人は百数十年来、頑として継続して来た。英語でマックロイと言わずに、マキロイと言う。 マックダーノと言わずに、マクドナルドと言う、勿論の事、外国人には通じようがない。それでも、マックロイやマックダーノに言い換える事はしない。全くの「頑固」、或いは「融通性」がないのがはっきりしていて、「縄文遺伝子」の面影がそのまま残して居る。

遺伝子の問題だから、事は簡単に改善出来ない。世界に例を見ない「語学音痴」が、なぜ、日本にだけ発生するのか、訳は分かるが、頑固で、融通性に欠ける、縄文遺伝子を人間の「意志」で換える事が出来るかどうかに、「語学音痴」から抜け出せるかどうかの根本原因がある事が分かる。

その根本原因である、頑固一徹なり、融通性欠陥なりの改善は、縄文遺伝子末裔の日本人にしか出来ない事であるのは言うまでも無い。 百数十年来 改善出来ずに過ごして来たと言う事は、改善出来ない、という事を意味する。 列島語学の、この「さだめ」は、今後とも、末永く続くであろう。


【 英語襲来から 百六十年来の苦労 】   仁目子

2022-08-18 02:51:22 | Weblog
ーー 母語というのは、幼児が母の口から出た言葉を
   聞き覚えたものだから、「母語」という ーー
ーー 日本人なら誰でも日本語を話す。が、学校や塾、
   で習い覚えたという話は、聞いた事がない  ーー
ーー 日本に於ける英語は、ただ、銭儲けだけの為にある ーー   
ーー 百六十年経っても、日本人の口から「how are you」
   ですら出て来ないなら、更に、百六十年経っても、
   出て来る事は無いだろう  ーー

二〇〇一年、講談社選書メチエが斎藤兆史著の『英語襲来と日本人ーえげれす語事始』という単行本を出した。その表紙に次のような見出し文句が出ている;
《《 ある日、英語がやってきた。日本人は英語に目覚めた。そして ーー 巷には英語都々逸が流れ、英語私塾が乱立した幕末・明治時代。福沢諭吉、夏目漱石らの知的エリートや、商人、芸者たちの英語との格闘。英語をめぐる日本人の苦悶と狂乱の400 年を追う 》》

筆者は、常日頃よく web site を覗き、何かを検索している。今までの検索で、記事件数が最も多かったのは 8, 490, 000, 000 件(2014年六月)で、主題は「How are you 」という英語に関するものであった。
How are youという、たった三字の挨拶言葉が、なぜ、八十四億件もの厖大なる記事数に成り得るのか?自分の目を疑ったが、数字は間違っていなかった。

斎藤兆史著書の表紙が言う、「苦悶と狂乱四〇〇年」というのは、若干大袈裟だが、明治開国で英語が列島に上陸した時点から数え始めたとしても、百六十余年になるが、その英語の挨拶始めの第一句である How are you でさえ、列島の人びとはいまだに使えずに苦悶している。その苦悶の深さが八十四億件の記事と化してウエブに載っている。当然の事ながら、英語の習得もそこで立ちんぼになったまま、前に進めない状態に今置かれている。

How are youに該当する日本語の「お元気ですか」を検索してみたら、9、530、000 、即ち、九百五十三万件しかなかったのに、英語に変わった途端に数がほぼ百倍近くに増えるのは、その「苦悶」が如何に深いものであるかを示して余りある。
それは、単純に、How are you が英語だという「外国の言葉」であるからに外ならない。
それと見合うかのように、ウエブ上の八十四億件の記事も「英語私塾」「英語読本出版社」「英語家庭教師」「英語 native 教師」の宣伝広告及びそれに関連する内容が大半を占めている。つまり、銭儲けの為の記事が多い事になる。
「英語をめぐる苦悶と狂乱」に明け暮れる日本人を目の前にして、列島の「economic animal 」達がこのような好機を逃がす筈がない。一億の善良なる英語学習諸子を如何にして「鴨ネギ」にするかで、壮絶なる商戦を止め処なく繰り広げ、挙げ句が八十四億の厖大な記事を作り上げる元になった、という事が言える。

なぜ、だろうか?

例えば、私が今住んでいる米国で、人々は日々How are you を口にしているのに、日本のウエブでは「How are you は死語になった」という記事が数多く出ている。そして、英語の本場米国の web site に、How are you に対する答え方は、全部で五つしか出ていないのに、日本のウエブでは、十六通りあると言う。

「鴨ネギ」にされている日本の学習諸子は、このようなウソ偽りの商戦の真った中に身を置いて、How are you というれっきとした英語に、大なる疑問を抱きかざるを得ないようになり、口にするのを躊躇する。
そこに付け込んで、記事は続けて曰く「わが塾に来れば」「わが社の本を読めば」「私のようなネイテイブについて学べば」、、、貴方は正しい英語を学ぶ事が出来、短期間で驚く程上達する、、、のような「殺し文句」がその後に延延と続く。

日本の社会というのは、なんでも学校, 塾、そして本、で習うという慣習が非常に根強い。異国に居ると、日本人としての誇りがあるから外国人に恥を晒したくない。基本的には、このような日本的習性、つまり「世間体」が災いして、学習諸子を苦しめ、そして悩ましている。

アメリカにしばらく住めば英語は上手になると思っている人は多い。その通り間違いはない。逆の場合もまた同じである。つまり、日本語を学ぶアメリカ人なら、米国に居て習うより、しばらく日本に行って滞在した方が断然上達するのは早い。事実、日本に、ほんの二、三年滞在しただけで日本語を上手に話すアメリカ人に時折出逢う。在留の数からいうと、在日米人よりも、在米邦人の方が遥かに多い。しかし、在米二、三年で英語を上手に話す日本人には滅多に会わない。

なぜだろうか? 下記のような在米日本人の、日系誌に投稿した「悩み」談を読めば良く分かる。二つ例を挙げてみる。

(一) 「ほとんどの教材は試した、テレビの英語講座も英会 
     話学校 にも通ったが、あまり効果がなかった」
これは、在米三年になる大学生の悩みだが。学生なら、何故、学友共に鍛えて貰うようにしないか。恐らく、武士の高楊枝に似たような虚栄に災いされて苦労しているとしか思われない。

(二) 「アメリカに来て三年、二年間語学学校に通ったが、未
     だ英語がまともに話せない。日本人とばかりつき合っ  
     ているからだと思う。日系人が居ない中部に引っ越し   
     しようかとも思う」
このように、飛躍的に思いつめる人も居る。何処に住もうと、ここは米国だから、周りはアメリカ人ばっかりなのに近ずこうとしない。そのような孤独の性格で、日系人の居ない処に引越したら、この人は全く一人ぼっちになって、その内に日本語も忘れてしまうのかも知れない。

このように、わざわざ米国にまで出かけても、日本的な「檻」(おり)の中に閉じ篭もって勉強しているから、思うように上達しない。
況して、列島に居て、英語を習う日本の学習諸子は、加えて、宣伝広告にすっかり迷わされてしまい、何を覚えれば良いのか、皆目見当が付かず、ウエブに投稿して助けを求める仕儀となる。それがまた厖大な数になるので、悪循環は雪ぐるまのように、八十四億という途方もない記事を生み出す事になった。

宣伝広告の誘惑に弱い日本人の事だから、恐らく、多くの学習諸子は藁をも掴む思いで、本を沢山買わされたり、塾に飛び込んだり、家庭教師に月謝を払ったり 、、などしたであろう。
しかし、現実には、語学音痴と自他共に認めて来た日本人の英語が、かなり上達したという話や、誌上の報道などで見た事が無いから、厖大なる本代も月謝もさ程の効果は挙げていない、と見る方が実態に則している筈である。
すると、百年数十年以上の歳月を掛けた努力にも拘らず、殆んどの日本人の口から How are you の一言ですら聞けないのは、銭儲けの犠牲になったものだとしか考えようがない事になる。
もっぱら実戦活用で勝負する西洋式学習法と、教材と丸諳記だけに頼る日本式学習法の違いが、このような、哀れな結果に繋がったのだろう。

私共一家が初めて米国に渡って来た時、二人の息子は中一と小五だった。
勿論、英語は白紙だから、私が教えるなり、英語塾に入れるなり、又は、家庭教師を付けるなりするのが普通だが、英語の本場に乗り込んで来た以上、私は道草を食う必要はないという考えを持って居た。
ニューヨークで取り敢えず住み込んだアパートの向かいに大きい運動場があって、沢山の子ども達が毎日そこで野球に興じて居た。私は、二人の息子に「飛び込んで一緒に遊んで来なさい」と尻を叩いた。
お父さんは英語知っているのに、何故、ABC すら教えて呉れないで、米人の子供と遊びなさいと言うのだろう、と二人は内心不思議に思ったにちがいないが、数ケ月野放しにしただけで、息子らは私が「へえっ」と驚くような英語を口にするようになった。

言葉というものは、そのようにして覚えるものであって、本代や月謝で覚えるものではない。日本人は誰も日本語を話す。その他の国の人々も、なべて同じように、自国の母語を話す。所が、その母語を話す為に、学校や塾、本や家庭教師に「お金を使った」という話は聞いた事がない。つまり、言葉はお金で買えるものでは無い、という事がはっきりしている。

日本に数多くの外国人が在住していて遇う機会も多いから、出会いしなに How are you と声を掛けてみる事を、日本人はなぜしないのか、と思う。
一度でよいから、声を掛ければ、How are you は立派な英語である事が分かり、ウエブ上の下らない八十四億件の記事に惑わされる事もないのに、と、お節介ながら、常々、不思議に思う。


【 脱亜入欧 は 田舎者の都会憧れ 」    仁目子

2022-08-13 09:02:21 | Weblog
ーー  人間、自分にないものに憧れる  ーー
    都会人は田舎暮らし、地方人は東京暮らし
    をしてみたい、と思う

脱亜入欧(だつあにゅうおう)とは、明治時代(19世紀末)の日本において、「後進世界であるアジアを脱し、ヨーロッパ列強の一員となる」ことを目的としたスローガンや思想である。

明らかに、脱亜入欧は、単なる、田舎者の欧州という「都会」への憧れに外ならず、だから、スローガンだけあって、中身は無く、十九世紀末から、今日に至るまで、入欧が実現したという痕跡も全くない。


――  田舎者の 自慢 ーー

《《 日本語の「おはよう」と、英語の"Ohio" (オハイオ)が似ているから日本語と英語が元は同じだったと言う説は、なぜダメなのですか。
自分は聞いた瞬間、雷にうたれたかと思うほどの衝撃、感動に襲われました 》》
のような質問がウエブに出ていた。

其のベストアンサーは
《《 オハイオに続いて、カンザスが関西、ケンタッキーが関東と言っていませんでしたか?
2人がナイス!しています 》》

となっていた。田舎者の質問に対する、皮肉たっぷりの回答である事がはっきりしている、


ーー  田舎者の捻くれ性格  ーー

先日、伊勢神宮のビデオを視ていたら、入口の大鳥居の下に、「右側通行」の掲示板が置いていたにも拘わらず、大半の参拝者は、それを無視して、左側を歩いていた。 政府の歩行者規定も、神宮の掲示板も、共に無視する理由は、何か、と考えて見る。マクドナルド や マキロイという英語を、英語で マックダーノ や マックロイ と発音しないのと同じように、「捻くれ性格」のせい以外には思い至らない。

車両左側通行の大御所英国のロンドンでも、ごく自然に、他国同様に、英国の歩行者は右側通行をしている。同じ車両左通行の日本で、昔からの右通行を左通行に変える人が増えているのは、もともと右手主体の人間が、無理に、左手主体に切り替えるようで、極めて不自然である。「捻くれ」の外に、訳があるとすれば、「古きを捨て、新しきに就く」というヤマト人種の「奇を衒う」嗜好の性だかも知れない。

他人の模倣で、世界最高の評判を得ているヤマト人種は、他人と同調する事を好まない事でも、世界最高である、という二律背反の性格を持っている。

世界中のビデオで、歩行者の大半がごく自然に右側を歩いている。人間はもともと、右手右足が人体の動きの主体であり、歩行も、規則無しに歩かせたら、間違いなく、右側通行をするのが大半であり、世界中の都市のビデオを見ても、その通りになっている。世界中のビデオを見た後、日本のビデオで、人々が、右側、左側、どっちつかずの中間など、三つに分かれて「右往左往」しているのを目にすると、別世界に迷い込んだような錯覚に陥る。

ヤマト人種は、世界で最も規則を守るのは日本人だと、常日頃自慢している。が 実体は、世界で最も「右往左往」を好むのは日本人である、と言う方が、実状に叶っている。兎に角、そのような捻くれ、そして、不自然な生き方に違和感を感じる。

性質がねじけて素直でない者を意味する英語は、一般的に、twisted person (ひねくれ者)と言う。或いは、crooked person (根性の曲がった者) とも言う。所が、日本語だと、臍や旋毛まで持ち出して、へそ曲がり・偏屈・気むずかしい・つむじ曲がり・天の邪鬼・拗ね者・反抗的・喧嘩腰・面従腹背・反発・逆らう・悪たれ・へそを曲げる・虫の居所が悪い・つむじを曲げるなど等とある。
それだけ多くの形容が有るという事は、ヤマト人種の気質の複雑多岐を示しているに他ならない。このように、道歩き一つだけ取り上げても、世界中の人々と可成り違う。
嘘だと思うなら、全世界の大都市と東京都のビデオを、見比べて見る事を勧める。 百聞は一見に如かず、の実体験が出来る。

明治維新で、欧米の模倣をして、明治開化を成し遂げ、現代国家の仲間入りをしたように見えた。開化後、150年ほど過ぎたが、ヤマト人種は、國際通用語の英語、歩行者右側通行の国際慣習、ともども、他国と歩調を合わせないで、閉鎖的な「独りよがり」の道を選び、国際化を避けている。辺境島国の先天的生き方が、そのような辺境的なもの選択をさせることになったと思うが、情けない事であり、これからも、はっきりした目的地のない道を、右往左往し続けるであろう。

【 政治の漫才 落語 】  仁目子

2022-08-09 04:20:51 | Weblog
ーー  餃子は 祖国の味 ? ーー

この所、中国は台湾を恐喝し続けている。が、台湾の人々は、至って冷静で、余り相手にしない。

七日の夜、中国外交部の報道官 華春瑩が、自分の twitter に、台北市には餃子館が38軒、山西麺館が67軒、有ると書き込んだ。
それは、台湾人が「祖国の味」が忘れられない事の証しであり、「台湾は、中国と、長年離散した子供」である、と言う。

この書き込みを読んだ国内外の人々から、「これは、何という,巫山戯 (ふざけ)た論理だ」というコメントが、彼女のtwitter に数多く殺到した。

そうして、米国国務院の元報道官は、自分のtwitter に、「中国には、ケンタッキー・フライド・チキンの店か8500軒ある。だから、中国は、ケンタッキー州の一部である」と書き込み、華春瑩を風刺した。

似たような論法で行くと、日本の中華料理やラーメン店の数は、スシ屋より多いから、日本も中国の一部に成って仕舞う。

この様な論法は、明らかに、「屁理屈」であって、何の用にもならない、が、漫才、落語のように、人を笑わせ、緊張緩和の助けには役立つ。

此の所、中国は台湾のみならず。米国、日本、豪州、インドなどの隣人達とも、諍い(いさかい)が多く、世間の空気は殺伐としている。

中国国務院(外務省)の報道官 華春瑩は、名前に見るように、女性であり、しかも、年若いから、仕事に、大変な圧力を感じるのは、避けがたい。
其の息抜きに、自分のtwitter に、政治絡みの漫才 落語を書き込んだものだと、思われるが、その気持ちは、分からない事ではない。

華春瑩は、台北の餃子館が38軒、山西麺館が67軒、有ると書き込んだ後、次のような注釈を付け加えていた。

「味覚は、人を騙さない。台湾は、ずっと中国の一部分であった。多年離散した子供は、何時かは、必ず家に戻って来る」と言う。
この部分は、漫才落語では無しに、嘘八百の「政治辞令」である。


ーー  十九世紀の台湾 と 二十一世紀の台湾は 別人である ーー

台湾と中国が、何だかの繋がりを持ったのは、清朝時代の僅か二百余年に過ぎず、1895年、清朝が台湾を日本に、「永久割譲」した後、台湾と中国の繋がりは、それっきり無くなってしまい、今の台湾は、立派な大人に成長し、自主自立の国として、国際社会に存在している。

1895年に、割譲された「子供」が、立派な大人に成長したのに、「何時かは、必ず家に戻って来る」と、華春瑩は言う。

この部分は、年若き彼女の、職務上の「政治辞令」に過ぎないと、解するべきであろう。

何れにしても、中華の味が忘れられないから、「貴方は、中国人です」、という屁理屈は成立しようがないから、、華春瑩のtwitter 書き込みは、基本的には、やはり、漫才、落語の部類に属する、だから、風刺のコメントが彼女のtwitter に殺到したわけで、蒸し暑い真夏に、すっと、一陣の涼しい風が吹いた、と思えば、可愛げのある発言になって、政治的な緊張緩和の役に立つ。