李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【 木に縁りて魚を求める 日本流語学 】  その三   仁目子 

2021-06-30 18:55:28 | Weblog
ーー  カタカナ語は、語学音痴の元凶である  ーー    
ーー と、さるとるという人、が言った、的を得た指摘である ーー

『序』

ウエブに、「さるとるのプロフィール」というブログがある。
サルトル、は著名なフランスの哲学家、小説家、劇作家で、
日本でもその名は良く知られている。
1964年文学ノーベル賞に選ばれたが、「いかなる人間でも生
きながら神格化されるには値しない」と言って、これを辞退
した事で有名。

その「さるとる」の名を借りたブログ内容は、やはり、一風
変わっている。

曰く;

《《  『カタカナ語は人類最大の愚行言葉の自慰行為だから原爆が
日本にだけ落ちた』
『カタカナに書き換えてしまうと、もうその時点から日本語
になってしまう。なぜなら開音節のカタカナのようなものは
日本にしかなく、日本人しか読めないから。外国語を勉強せず 
に日本人は日本語の世界だけで生きて行けることになってし
まう。そしてそれが習い性になってしまう。これは自閉の世
界に入ることに他ならない。これじゃ外国語が身に付く訳
がないし。カタカナ語は語学音痴の元凶である。理屈は簡単
であるが、このことは中々理解できないらしい。カタカナが
出来てから久しいのだが』  》》

けだし、的を得た指摘である。その指摘の文中に出て来る「カタカナ語は語学音痴の元凶である」の一言を拝借して、以下のブログ本文の標題とした。さるとる氏のご諒承を乞う為にこの「序」を冒頭に載せた。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『本文』

日本は、過去千年以上の長期に亙って、漢文、漢語を習って来たが、ついに物にならず、明治以来、徐々に英語に切り換え始めた。

江戸時代、荻生徂来(おぎゅう・そらい、1666-1728)が、漢文訓読法を排斥して、漢詩文は唐音(中国語音)で音読すべきだと主張し、その弟子・太宰春台は、嘗て、漢文訓読の問題点を5つ挙げた。その一つに、「倭訓にて誦すれば字義混同す」というのがあった。

漢文訓読では、原則として漢字(=単語)は音読みではなく日本式に「和訓」(訓読み)を用いて読む。例えば「山」という漢字(=単語)は「サン」ではなく「やま」と読む。この場合、字義に違いは見られない。

しかし、「長」を ( チョウ ) ではなく ( ナガ ) と読んだ場合、両者の字義にかなりの違いが生じて来る。漢字の「長」( チョウ ) には本来意味が多数あるが、訓で( ナガ )に読み替えると、字義は「長い」( ナガイ) の一つにだけ限定されてしまう。

結局、本物の漢字文化は育たず、擬いものの漢字文化は、ついに廃れてしまった。

それで、横文字英語に切り換えてみたものの、「三つ児の魂、百迄で」、英語学習にも「カタカナ」という倭臭をくっつけ、Mc Donalds を英語そのもので覚えず、また音読みのマックダーノも避けて、訓読みのマクドナルドを採る道を選んだ。昔の漢字文化学習と同じ様に、外国語学習の「下策」を取ったわけである。

例えば、観・見・視・看の和訓は、いずれも「みる」です。しかし、これらの漢字音読はそれぞれ異なり、意味も微妙に異なる。和訓で「みる」と読んでしまうと、微妙な意味の差が分からなくなってしまうため、漢文を作るときにも間違った字を使ってしまうことになる。これがいわゆる「倭臭(わしゅう)」です。「倭臭」が混入すると、本格的な漢文とは言い難い。

そのように、始めから、道を踏み違えた為、列島の漢字文化は衰退せざるを得なかった。

今日の英語学習に伴う「倭臭」の問題は、それよりももっと深刻である。

例えば、マクドナルドという、完璧な倭臭発音は、如何なる状況の下に置いても英語として通用する事は有り得ない。のみならず、列島に於ける Mc Donalds の倭臭発音は、人により異なり、約十近く有る、それらも、時間の移り変わりで、内訳もまた大きく移り変わる。

下記のウエブ検索を参照すれば、良く分かる。

 検索   2015 年 10月 3日    2016 年 8 月 23 日

マクドナルド 16、400、000 件   21、500、000 ( + )
マック    14、800、000    87、000、000 ( + )
マックダーナ  7、900、000       18、000 (ー)
マクド       837、000    2、000、000 (+ )
マクダーノ       610          201 (ー)
マックダーナルズ    386         352 (ー)
マックダーノ      86           52 (ー)

英語のMc Donalds は、終始変っていないのに、なぜ、日本語読みは変わる? と、思うだけで、列島語学の摩訶不思議に気が付く。

次に、Mc Donalds は中国語で「麦当勞」( マイタンダウ) に訳して使っている、然も、十数億の民が、国内外を問わず「麦当勞」一本で通している。人口十分の一しかない列島で、なぜ、十近くの異なる発音を必要とするのか?

その所に、唐土人と列島人の、語学力の違いの原点をはっきり見る事ができる。

真面目に、英語を習うなら、Mc Donalds という横文字をそのまま覚え、そして、原音に最も近いマックダーノで音読すれば、世界中何処でも通じる。

しかし、日本人は臍曲がりが多いから、その逆の道を歩く。だから、上述の数字表に出ている如く、マクドナルド 21、500、000 件に対して、マックダーノは僅かの 52 件しかないという、世にも奇妙奇手烈なる、外国語の学習姿勢が世間を驚かせる ( 奇を衒う為か ) 。

昔は音読を避け、訓読みという「倭臭」に縋り付いて、列島は、千年以上を費やした漢字文化を駄目にしてしまった。同様に。今は、原語読みを避け、カタカナ読みの「倭臭」に縋り付いて、英語を覚えようとしている。

そのような擬い物学習姿勢で、漢語同様、英語を物にする事は勿論望めない。

しかし、倭臭に執拗に執着する日本人の語学は、自他共に認める「音痴」の域から脱する事が出来ない「さだめ」を荷なっているようである。

ーー   外国語を勉強せずに日本人は日本語の世界だけで生きて行けることに
      なってしまう。そしてそれが習い性になってしまう。これは自閉の世
      界に入ることに他ならない。これじゃ外国語が身に付くがないし。
      カタカナ語は語学音痴の元凶である    ーー

さるとるよ、良くぞ言いましたね !

【 木に縁りて魚を求める 日本流語学 】  その二   仁目子

2021-06-28 16:17:15 | Weblog
  ーー  魔法の発音カタカナ英語から脱することが出来ない
     のは、自己欺瞞の陶酔から目覚める事が出来ない為
    である。

日本人が初めて英語に接したのは、もう百六十年以上になる。

1854年、日本で出版された「異国ことば」という本に、

「久しぶりに会いたるをーーーぐるもうねん
「ものもらいしときはーーーたんきょ」

と書いてあった。英語の初めての日本上陸である。

列島で、百六十年来一所懸命習って来た英語が、未だもって物にならないのは、列島に、「カタカナ」というものがあって、英語の似而非 ( えせ ) 発音が可能である事が、日本人英語発音不得手の要因となっている。似而非発音は、所詮、似而非発音であるからだ。

ある脳科学者が 2004 年に、『魔法の発音カタカナ英語』という書名の本を講談社から出して、一寸した反響を呼んだ。表紙に「一気にネイテイブ!」という見出しが付いていた。

この本の宣伝広告に、読者の反応 ( カストマレビユー) を星の数で表している。星五つ、星四つ、星三つ、星一つ、があって、星二つは無い。星数で好評の度合いを表しているようだが、好評の星五つを見ると、『教科書発音からの脱却』、『発音に迷いが無くなる』、『英語の特効薬』、『発音の救世主』、『こんな本を待っていた』、『英語嫌いの私にぴったり』、『発音の意識改革にもってこい』、、、などなどの讃辞に溢れている。では、実際に役に立ったかどうか、という肝腎の問題になると、内容がかなり可笑しくなって来る。

例えば、「教科書発音からの脱却」は五つ星だが、これが実際に「役に立ったと考える」意見は 僅かの三人しか居ない。所が、「不完全かつ非科学的」という理由で一つ星を付けた酷評には三十四人が賛同している。星の数の多少が、役に立つか立たないかの基準にならないのははっきりしている。

英語学習に 魔法があるなら、カタカナ発音が役に立つようなら、列島は百六十年来この道で苦労して来たが未だに語学音痴でいるのは可笑しい。

カタカナ英語は 何も今に始まったものではない。日本人が初めて英語に接したのは、もう二百年以上になる。

諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)という、1814 年頃に編纂した本がある。今から二百年ほど前に完成した、6000 の英単語を収集した日本初の英和辞典である。

この本は、発音はカタカナで、意味は漢語で解説している。幾つか簡単な単語の例を次に挙げてみる;

above エボーフ  上
about アボウト  由関係、又大凡
bank ベンク   銀舗
barber ベルブル  剃剪
juice ジェイス  木汁
letter レットル  書翰又文字

のようになっていて、当世の日本人に読ませたら、間違いなく腹を抱えて笑うようなカタカナ発音になっている。

進んで 1854年に、日本で出版された「異国ことば」という本に、

「久しぶりに会いたるをーーーぐるもうねん
「ものもらいしときはーーーたんきょ」

と書いてあった。

ぐるもうねんは good morning で、たんきょは thank you であリ、上述の諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)同様、噴飯もののカナ発音である。

又、有名なジャン万次郎が 1859年に,英会話入門書『英米対話捷径』(えいべいたいわしょうけい) を出版した。

善 (よ) き日でござる  
グーリデイ シャアー
Good day, Sir.

こんな感じの例文が,200ちょっと掲載されている。
そして、 that(ザヤタ)、Grandfather(グランダフワザ)、Father(フワザ)、thing(センキ)、than(ザン)、this(ゼシ)、morning(モーネン)、think(センカ)、rather(ラザ)、などのように、掲載されている単語のカタカナ発音は、原語発音とかなり程遠い。

百、二百年前のカタカナ使用者と当今の使用者は、共に、同じ日本人であるが、昔の、that(ザヤタ)、Grandfather(グランダフワザ)と、今日の ( ザッツ) ( グランドフアーザ) 、昔の、 thing(センキ)、this(ゼシ) と、今日の ( シング) ( ジス) 、どうして、こんなに大きく違うのかと思う。

good morning という毎日口にし、耳にする英語の日本人による発音は、グルモウネン、グーリモルニン、モオネン、グッドモーニング、などのように、時代により、人により、大きく異なる。

これらの過去のカタカナ発音と今日の脳科学者のカタカナ発音は、同じ日本人の発音だが明らかに大きく異なっている。そして、二十一世紀の新たなカタカナ発音を、この脳科学者は、「魔法の発音」と称して、次のように応用する事を薦めている。

Can I have...?(~をください)は   「ケナヤブ」
Do you have...?(~はありますか?)は   「ジュヤブ」
Do you want to...?(~したいですか?)は  「ジュワナ」
I want you to...(~してください)は   「アイワニュル」
Do you mind if I...?(~してもよいですか?)は 「ジュマインデファイ」
Can you take our picture?(シャッターを押してくださ い?)は 「ケニュテイカワペク                                 チョ」
そして、なんと・・・ 

What do you think about it? (どう思う?)は「悪酔いチンコ暴れ」で通じる!とまで言っている。

筆者は、米国の N Y と L A に住み着いて三十余年になる、マンハッタンの米国企業で長年仕事もしたから、脳科学者ほど「英語は知らない」とは、お世辞にも、或いは、謙虚な気持ちになっても言えない。

試しに、米国の知人に「ケナヤブ」「ジュヤブ」「アイワニュル」、、、は何のことかと聞いて見たら、怪訝な顔をしていたので、同じカタカナ発音で、「キャン アイ ハブ」「ドウ ユーハブ」「アイ ワンツ ユー ツー」の事だよと言い換えたら、「何んだ、そんな事か」と始めて納得した。

英語の発音は、一通りしかない。所が、それを列島の学者が日本語カタカナで発音すると、十人十色の発音になる。その十人十色の中から、どれを選べば良いか、諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)か、「異国ことば」という本か、 ジャン万次郎の英会話入門書か、脳科学者の『魔法の発音カタカナ英語』か、 恐らく、選びようがないであろう。

大体、列島の人々は英語の正しい発音を二百年来習得する事なく、今日に到っているから、正しい英語の発音を全くと言ってもよいほど知らない、だから、まやかしカタカナ発音の中から「これなら生けそうだ」という発音を選ぶにも選びようがない。

ただ、何んとなく英語を懸命に勉強する為に、同じ語学音痴の日本人が出版した「魔妖(まやかし)」の英語参考書を手当たり次第買い込んで読んでいるわけで、率直に云うならば、それは「自己欺瞞」による「自己陶酔」の材料には成り得ても、英語の学習にはさ程役には立たない。

列島は、このような英語学習法を二百年来続け、挙げ句、英語達者な日本人よりも、英語音痴の日本人を育成して来た。

魚を捕るなら、水の中に入る事が必要であるのと同じように、英語を覚えるなら、「真面(まとも)な英語の発音」から始めるべきで、「魔妖(まやかし)」のカタカナ発音で英語が通じると思うのは「木に縁 (よ) りて魚を求める」ように馬鹿げている事であり、一日でも早く、カタカナ依存に見切りを付けなければ、列島の語学音痴は、今後とも増えることはあっても減ることはない。

二百年も英語と付き合って、未だに このような基本に対して無頓着である「無神経さ」に呆(あき)れる。 

カタカナに縋り付いて 英語を物にしよう、とする愚かさ。 ああ、英語学習の月謝が勿体ない。

【  木に縁りて魚を求める 日本の語学  】  その一  仁目子

2021-06-27 16:44:07 | Weblog
ーー  なぜ、問題にならない「問題」を、問題にする?  ーー
ーー  economic animal 社会の語学は、銭儲けであって、語学ではない ーー

久しぶりに、日本人の英語学習が進歩したどうかを知りたいと思って、ウエブで「How are you 」を検索してみた。

出てきた記事件数の標示が9、470、000、000 、つまり、 94 億 7 千万件で、過去最高の 84 億件より 10 億件増えている。念の為、もう一度検索を押すと、件数が一挙に 3、530、000、000 35 億 3 千万件に減ってしまった。

実際にどの程度の件数があるのか、と思って、試しに、ページを辿ってみると、19 ページで全ての記事は終り、総数約 186 件という標示が出ている。何のことはない、何十億件というのは、真っ赤な偽の件数標示で、実際の記事は、186 件やそこらしかない。

次に、同じく、日本人学習子が迷い悩んでいる「 Fine thank you 」も併せて検索してみた。記事件数 474、000、000 と標示してあったが、ページを辿ると、これも How are you 同様 19 ページで終り、総数約 183 件と標示されていた。

「How are you は死語である」という記事件数も、 2、860、000 件と標示されているが、これも辿ってみると、実際ページは9 ページしかなく、そのうち How are you 死語と関連のある記事は僅かの 3 ページで、 30 記事しかない。

このような、細石( さざれいし) を巨大な巌 ( いわを) と偽るような記事件数の事実は、何を意味するのか?

「How are you 」という英語にしても、その返答の「Fine thank you 」にしても、共に、中学で教えている至極単純な言葉であり、ああでもない、こうでもないとこねまわす必要の全く無い英語の挨拶言葉である、ということがこのような実際の具体的件数の少なさでよく分かる。

では、なぜウエブの検索で、人の度肝を抜くような信じ難い数字が表れて来るのか ?  恐らく、英語出版、英語塾、などの『英語産業』が、「ハッタリ商法」を利かす為にデッチ上げた記事数であろう。丁度、先の大戦で、沈めてもいない米国の空母を十隻沈めたと発表する「大本営発表」に似ている。 嘘つきで、戦争に勝てるわけがない、のと同じように、ハッタリ語学で、英語(その他外国語も)を物にする事が出来る訳はない。

『海外の人に I'm fine.Thank you. は通じませんか?』というウエブ上の質問がある。下記のように、回答数は五つあった。

回答一; ベストアンサーに選ばれた回答

How are you? に対して I'm fine. Thank you. はネイティブが普通に使われる言葉であり、奇異に思われるものでは有りません。
もし、使わないという「英語教育関連業者」がいれば、それは「人目を引くことを宣伝で言って」一儲けようとする業者です。
How are you? に対して I'm fine. Thank you. と応じるのは、最近のハリウッド映画でも使われる表現です。

回答二; 質問の動機が知りたいので、よかったら事情を教えて 下さい。
よろしく。

回答三; 英語が理解出来る人には通じます。

回答四; 通じます。

回答五; 英語だから通じますよ^^

このように、回答の100 % は「通じる」になっている事からも分かるように、これは問題にならない問題を問題にしている質問であり、なぜ、そのような非常識な事態が生じるのかと言うと、ベスト回答者が指摘したように、

『もし、( How are you ? や I'm fine. Thank you は) 使わないという「英語教育関連業者」がいれば、それは「人目を引くことを宣伝で言って」一儲けようとする業者です』

に惑わされている為である。

つまり、日本人の語学音痴は、列島英語産業の救世主であり、偽りの「大本営発表」と同じ洗脳方法で、列島英語産業の長久繁栄を目論んでいる事に他ならない。伝統的に、偽りの宣伝広告にめっきり弱い列島の特殊性格の為に、日本人の英語は「語学音痴」の域から脱っする事が出来ない、という他国には見られない、頭痛課題を抱えている事になる。


【 間抜けた  自己欺瞞 】   仁目子  

2021-06-24 16:57:25 | Weblog
 ーー 言葉を変えて言うと、 精神勝利になる ーー

 
周知のように、戦後、日本のマスコミは、「占領軍」を「進駐軍」に、「敗戦」を「終戦」に言い換えた。

一九二二年生まれで、戦前、戦中、戦後を生き抜いた文芸評論家 佐伯彰一氏は、それを「図々しくも間の抜けた自己欺瞞」だと評した。

そのような「自己欺瞞」は、別に戦後に始まった事ではない。

明治 の初頭まで、プロシア と ロシア の日本に於ける漢字の当て字は「普魯西亜」と 「魯西亜」であった。それが、ある日、「普魯西亜」はそままにして、「魯西亜」だけ 「露西亜」に一字だけ変更した。

何故「魯」を「露」に変えるのか。

「魯西亜」は他意のない漢字の当て字だが、「魯」を「露」に変えると、この国は西アジアにある露( つゆ ) の国 「露西亜」になる。すると、当時の日本は日の出の勢いにあったから、「東の方朝日が昇れば、西の方にある露は消えて無くなる」という、大国ロシアに対する敵慨心に溢れるお呪 (まじな) いであった。それに伴い、腹下しの薬に「征露丸」という名まで付けた。

これで、多くの列島の人びとは憎いロシアを討ち負かしたと喜んだ。口先だけの「精神勝利」である。米英は「鬼畜」というのも同じ事。


結局、先の大戦で日本は苦杯を舐め、「露西亜」は「ロシア」に、「征露丸」は「正露丸」に再び改名せざるを得なくなった。勿論の事「鬼畜」も何処えやら。あれほど小躍りして喜んだ「自己欺瞞」の「精神勝利」は一夜にして露 ( つゆ) と消えたのである。

それにも懲りない人が結構居る。戦に負けても、負けたとは言はない、占領されても、占領されたとは言はない。相変わらずの「精神勝利」である。

このところ、昔さんざ馬鹿にした「シナ」という大国が、めきめきと強くなり、もう力ずくでは馬鹿に出来ない。こうなると「伝家の宝刀」である精神勝利に頼らざるを得ない。そこで抜き出したのが 李白の人口に膾炙する「白髪三千丈」という名句である。

一見、大げさに見える表現だから、漢字、漢詩に弱い列島の善良な民(たみ)を煙に巻くのに持って来いの文句である。

曰く、「白髪三千丈の国柄、人々は嘘つき許りだ」、「中国四千年の歴史は虚構だ」と声を上げて叫ぶ。伝統のお呪いである。

それで、この大国が没落するならそれでも良いが、驚天動地の歴史数千年を有する国、一寸やそっとの呪いで倒せる相手ではない。

しかも、「漢詩読みの漢詩知らず」の凡愚が、李太白先生、極みの名句を振り翳 ( かざ) している、無謀というか、無知に驚かされる。

自己欺瞞は、何度繰り返しても、落ち着く先は虚( うつ) ろな精神勝利に過ぎない。

それよりも、千数百年来の風雪に耐え生き抜いて来た「名句」を上手に味わい、文化的に洗練されてこそ、古い文化を有するお隣と「善隣」のよしみ誼( よし) みを築き上げ、保つ事が可能になるのでないか。お呪いは、再三経験済みのように、もう時代遅れです。






【 遥か 遥か 遠き彼方 のウラル 】  仁目子

2021-06-22 17:50:29 | Weblog
   ーー  そのウラルに 何の 恨みがある ? ーー

『 征露丸 』が腹下しの良薬であるのは、日本人は皆よく知っている。だが 『 征露歌 』を知っている人は余り居ないと思う。

「征露歌」は、別名「ウラルの彼方」とも云う。歌名全文は「露西亜征討の歌」で、この全文歌名だけで、何を唱おうとしているのか大体分かる。

1904年(明治37年)2月11日、日露開戦直後一高にて行われた奉祝集会に於て「征露歌」として披露された。「アムール川の流血や」の様に通例行事の紀念祭に合わせて作成された物ではなく、日露開戦に向けた学生に依る戦意発揚の為に作成された歌である。

この歌は、全文二十首の長い歌で、五分の一の前四首は次のように歌っている;

 一、 ウラルの彼方風荒れて  東に翔ける鷲一羽
     渺々遠きシベリアも  はや時の間に飛び過ぎて

 二、 明治三十七の年黒雲乱れ 月暗き鶏林の
     北滿洲に 声物凄く叫ぶなり

三、 嗚呼絶東の君子国 蒼浪浸す一孤島
   銀雪高し芙蓉峰 紅英清し芳野山

四、 これ時宗の生れし地 これ秀吉の生れし地
   一千の児が父祖の国 光栄しるき日本国


そして、結びの最後五首は、次のように歌っている。

 十六、砲火に焼かん浦塩や  屍を積まん哈爾浜府
   シベリア深く攻入らば 魯人も遂になすなけむ

  十七、 斯くて揚らむ我が国威 斯くて晴れなむ彼の恨
     金色の民鉾取れや  大和民族太刀佩けや

 十八、 嗚呼絶東の君子国 富士の高嶺の白雪や
      芳野の春の桜花  光示さむ時至る

 十九、 忍ぶに堪へぬ遼東や 亦薩哈嗹やアムールや
      嗚呼残虐の蛮族に  怨返さん時至る

 二十、 金色の民いざやいざ 大和民族いざやいざ
      戦はんかな時期至る 戦はんかな時期至る

このたぎる血潮に溢れる長い「雄叫び」を、言葉で形容すると、すさまじい( 凄まじい) の一言に尽きる、と思う。

一次大戦の時、「シベリア出兵」というのがあった。

1918年8月、イギリス・フランス・アメリカ・日本はシベリアのチェコ兵捕虜を救出することを口実にシベリアに派兵、ロシア革命に対する干渉戦争の一環として反革命軍を支援した。

各国の出兵兵力数は、アメリカ 7950人、イギリス  1500人、カナダ 4192人、イタリア  1400人に対し、日本の派兵は  7万3,000人だった。

日本政府は、当初この出兵の目的を、チェコ軍の救出とロシアの領土の保全とし、内政には干渉しないとしていた。しかし陸軍参謀本部は、統帥権の独立を理由として独断で増派し、1918年11月までに7万3千人を派遣した。これは当時の日本軍の約半数におよぶ規模だった。

イギリス、フランスの干渉軍はそれぞれ1919年中に撤退、アメリカも1920年までには撤兵したが、日本軍は事後処理のためとして駐留を続け、20年2月にニコライエフスク事件の悲劇が発生し、日本はそれに対する報復として北樺太(の北半分)を占領した。

1922年のアメリカからの圧力があり、同年10月25日にはシベリア本土から干渉軍を引き揚げた。こうして5年以上にわたる日本のシベリア出兵は、具体的な成果のまったくないまま終結し、北樺太での駐兵はで日本がソ連を承認し日ソ国交が開かれた1925年まで続いた。

以上が、日本の「シベリア出兵」の概要だが、『征露歌』の第十六首の文句が、

  砲火に焼かん浦塩や  屍を積まん哈爾浜府
  シベリア深く攻入らば 魯人も遂になすなけむ
 (注; 浦塩は ウラジオストック、哈爾浜府は ( ハルピン)

になっている所から、アメリカの約十倍、イギリスの約五十倍の兵力を出兵した日本の意図は、単なるチェコ軍の救出を目的とするものだとは言い難い。そして、他国が全て撤兵した後も、日本軍だけがシベリアに居残った事実から、ついに、諸外国から「火事泥」の疑い濃厚と批判されるに至った。

そして、後年、日本の識者により、『シベリア出兵』、「なに一つ国家に利益をも齎すことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」、という貼り札まで付けられた。

これと対応するかのように、第二次大戦後、日本軍捕虜の「シベリア抑留」が有った。この両者に何らかの「因果関係」が有る筈だと思う人が結構居る。

『シベリア出兵 ー  近代日本の忘れられた七年戦争 (中公新書) 』という本がある。

この本の「上位の肯定的レビュー」が2 5 件 ( 五つ星 8 1 % 、四つ星1 5% ) 、「上位の否定的レビユー」が 1 件 ( 4 % ) という数字で分かるように、かなり読み応えのある本で、五つ星のカストマレビユーで、最も多くの賛同者を得た要点を、幾つか、ここに引用してみる。

 『これは現代の日本人が「読むべき」本だと思う。 シベリア侵略(「シベリア出兵」)
   の7年間に及 ぶ戦争が、我々現代日本人の歴史認識の盲点となっていることが、
   よくわかる』

 『日本では、せいぜい、「共産主義の拡大を防ぐために出兵した。」とぐらいしか書いて
   ないシベリア出兵ですが、こんなに詳しく書いた筆者の執筆力に感服しました』

 『 地図を逆さに見た時のような驚きがある 』

 『 ロシアとの関係で言うと、日本はしばしば一方的な被害者としての歴史のみを教えら
   れてきた気がする。しかし、歴史をロシア人の目から見ると、まるで逆に見える。
   本書の冒頭にもシベリア抑留を経験した文化人類学者の加藤九ゾウ氏がシベリアで
   ロシア人研究者と酒を酌み交わしながら、その非道ぶりとロシア歴史書に日本人抑
   留者の記述がないとなじると、ロシア人から「シベリア出兵で日本兵がシベリアで
   行った悪逆非道ぶりが日本の歴史書に書いてあるか」と言い返されるシーンが出て
   くる。
   この二人のやり取りこそが、日本人にとって「忘れられた戦争」であるシベリア出
   兵を敢えて新書で書き下ろした著者の重要な動機の一つとなっていることがうかが
   える』


次に、たった一件の「否定的レビュー」の要点も併せ下記する。

 『著者は、いったい自分は何処の国民だと考えているのだろうか? 帝政ロシア時代か
  ら着々と亜細亜侵略を進めてきたが、日本はシベリア出兵において、その一連の悪行
  に対し反撃を加えたまでのことである』


日本の国粋主義者は、神の國である日本は、史上嘗て外国に攻め込まれた事が無い、と言って自慢をする。攻め込まれた事が無いのは事実で、それは、日本がエライというよりも、好い近隣諸国を持った事が要因であり、好い近隣諸国を持った日本は、幸せだった、と言うべきであろう。

その好い近隣諸国の一つであるロシアを日本はずっと敵視して来た。なぜだろうか、と思う。

前に書いた『長閑なアムール』の一文と、本文の『ウラルの彼方』、を読めば、敵視の原因が、那辺にあるのか良く分かる。

今まで、教科書で教えて呉れなかった事実を、『アムールの流血や』、『ウラルの彼方』 ( 別名、征露歌) を通して、知る事が出来れば、これからの日本人に取って、近隣諸国との付き合いはどうすべきであるか、という考えの貴重な参考になるのは、疑いの余地が無い。

それが、本文を書いた趣旨でもある。