李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【 徳 川 家 康 の 評価 】  改定

2020-02-03 03:53:26 | Weblog

2014-12-08 15:53:21 | Weblog


ーー サムライ社会 の 政治土壌 ーー

「日本は経済一流だが、政治外交は 二、三流」というのが、列島で一般の自己評価になっている。

経済一流とは、具体的に云うと、トヨタ、ホンダ や キャノン、 ニコン、電気洗濯機 や 冷蔵庫 などなど の物品生産 と 販売が先に進んでいるという事で、もっと、平ぺったく云うと、職人芸 或いは物作りが一流であるという事を意味する。

しかし、経済(けいざい)というのは:

英語の economy であれば、人間社会における生産・分配・流通・消費等の活動をめぐる関係性の総体を意味するものであり。

中国古典に現れる「経世済民」(世をおさめ民をすくう)の略語であれば、今日でいう政治・統治・行政全般を意味する。

このように、「経済」というのはもっともっと幅の広い頭脳作業であり、単なる物作りではない。闇雲に物を作り、集中豪雨のような対外輸出をやって、短期間でバブル景気を作り上げ、同じく、短期間でそのバブル崩壊を招いて、今は長期不況で苦しんでいる日本は、だから、「経済一流」とは云い難い。日本経済の中身の実態を見れば、「物作り一流」という表現の方が正しい。

通常、政治と経済は、目的と手段のような一体関係にあるものなので、経済は一流だが、政治は二、三流というのは一寸考えられない、本来なら、「日本は物作り一流だが、政治、経済、外交は二、三流」と云うべきではなかろうか。

物作りは、人が「物」を相手にする作業であるが、政治、外交は、人が「人」を相手にする作業である点で、両者は大きく異なる。

列島は、商人ではなく、職人の国だから、「対物」関係は得意だが、「対人」関係は然程得意ではない。「対物」関係は一方的で、相互の意思疏通は必要ないが、「対人」関係は相互の意思疎通が基盤になっているので、必然的に、日本は、物作り ( 経済 ) 一流、政治、外交二、三流という「姿」に結びつく。

これは、同じ外来の種子島銃を、僅か十年やそこらで立派な製品を作り出した事と、英語( 外国語) を百六十年間学習してもいまだに不得手である、という現実を比較して考えれば良く分かる。

列島の「人的土壌」はサムライである、即ち、喧嘩と刀を振り回す事にその特質を見ることが出来る。「士農工商」という言葉は、列島が唐土から借用したものであるのは、衆知の通りで、実際の使用に当って、列島は、唐土で「文人」を代表する「士」という字を「武士」に切り換えて使っている。

だから、同じ「士農工商」でも、唐土では「文人」が最も尊重されているが、列島では「武士」が最も威張っている。なぜ、このような違いが生じるのだろうか?

ゴルフ場で一緒に回った初対面の中年日本人が、日本と中国の違いについて、極めて、簡潔な一言でもって、その特質を言い表し、私を驚かした事がある。

彼曰く、『われわれ ( 日本人) は、中国人ほどの「頭脳」はない、その代わり、「身体」をもっている』。

確かにその通りだが、その点をよく見極めている日本人は然程多くないようである。

ここで、主題の家康公に登場して貰う。

列島史上、二百六十余年の平和な、そして文化の栄えた「江戸時代」を築き上げた家康公の列島に於ける評価は意外にも低い。

日本のウエブで、戦国三匹男の記事を出してみると、( 12 ー4 ー2014 )。

    信長   2、150、000 件
    秀吉   1、470、000 件
    家康   1、320、000 件

で、家康がびりっこになっているから、家康は外国人にも「人気はない」と思っている人が多いと、想像するが、試しに、日本と同盟関係の米国のウエブを見てみる。
 ieyasu top   641、000 件
    nobunaga 二位    443、000 件、
    hideyoshi が三位   247、000 件

で、恰度、本場の日本と逆になっていて、家康の人気が一番高い。

これだけで、意外に思うのは、未だ未だ早い。今度は、中国人を代表する「華語」のウエブを見ている。 

  家康  3、310、000 件
     信長    58、000 件
     秀吉    56、800 件

で、日本人には、気が転倒するような結果である。

米国と中国の文化は異質である、にも拘らず、米中の評価というか、人気というか、共に同じく家康が top で、二、三は信長、秀吉となっている。勿論、これは「偶然の一致」ではない。

本国で評価されない家康が、世界の二大大国の人々に高く評価されている。正に、「日本の常識は世界の非常識」を地で行くように、そのまま具体的に表わしている。

そして、信じ難いのは、漢語ウエブの 信長と秀吉の記事が二人会わせても家康の五 % にも達しないという事である。一見、華夏の末裔が列島の英雄を見下しているように見えるが、そうではないというは、家康を極端に高く評価している事からも分かる。

ただ、言えることは、鳴かないホトトギスは殺してしまえという信長 ( 短気非情 ) や、鳴かしてみせようという秀吉( 法螺吹き ) などのような人物に較べて、鳴くまで待とうという家康のような、恩情あり、忍耐力の強い人物に対し、唐土の人は非常に高く評価する。

台湾の或る私立高校二年生三人の共同作業による『徳川家康與織田信長的比較』論文が Yahoo Taiwan に出ている。その結論に、家康成功の特質を下記のように要約している。

  << 家康成功の非常に重要な性格の一端 : 「他人が堪え忍べ       
    べないことを、堪え忍ぶことが出来る」。この性格は
   、如何なる段階に於いても、その表現は彼が非凡であ
    ることを充分に感じさせる。 ( 原文は漢文 ) >>

日本では、家康はタヌキだから嫌いという人、俺は関西人だから家康に票を入れるわけにいかない、という評価の仕方をする人が多い。タヌキというのは謀略家の代名詞みたようなもので、要するに、頭脳の鋭い人物は嫌われる、又、地域対抗意識で好き嫌いを決める、共に、日本社会独得の土壌であり、外国の常識とはかなり異なる。

人間誰しも「畏怖を感じる」人には、一目を置くものである。華夏の末裔が信長、秀吉を眼中に置くいていないのは、この二人に「恐ろしさ」を殆んど感じないからであり、家康に多大な関心を持ち、性格の特質を分析研究するのは、家康を「恐い相手」だと判断しているからに外ならない。西洋の米国人も同じ考え方である。

列島は、家康のような人物を好まない、ということは、家康の如き外国に恐れられる人物が居ても、列島では「芽が出る」見込みはまず無い。これは、日本と対抗或るいは競争する立場にある外国に取り極めて都合が良い。

家康を高く評価している米国との先の戦争で、「脳ある」家康人物の出る幕は無く、「有勇無謀」の兵( つわもの) が戦 ( いくさ) を起こしたので、結果は一敗地に塗れ、帝国崩壊となった。秀吉が朝鮮出兵で、豊臣家を亡ぼしたのと全く同じ轍 ( てつ) である。

今時の日本の政治人物は概して「秀吉」型が多い。然程強くもない日本を、兎にも角にも、「強く見せよう」とする事にばかり腐心しているようで、それで、相手に勝てると思うのであれば、先の大戦で日本は米国に勝っていた筈である。

米国から遥か遠くの列島を眺め、家康に似たような人物は居ないかなと、時折、余計な事を考える。家康如き「大物」に育つかどうかは知らないが、鳩山由紀夫という人物は、目先にとらわれず、長い目で物事を見る性格の持ち主であるように見え、云うなれば、家康型に属する。

彼を「国賊」扱いにする人も居るようだが、嫌われる家康、嫌われる吉田茂が列島の為に大事を成した史実に照らして見れば、嫌われる鳩山由紀夫にやらせてみたらどうかな、と思うのは、筆者の単なる愚昧な見方であろうか。