ーー 「筋道」 「理屈」 「道理」 の違い ーー
ーー 「筋道」は日本語で、「理屈」は外来語 ーー
ーー 自分の為だけにある「筋道」が理屈である ーー
ーー 他人にも通じる 筋道が論理になる ーー
ーー 列島 文字文化の 伝統的 集積癖 ーー
ーー 集めるだけ、整理出来ないから、ゴミに成って残る ーー
理屈(りくつ)と膏薬(こうやく)はどこへでも付(つ)く,
理屈は、つけようと思えば何にでもつけることができる。
理屈に、このような俗語は沢山あるが、論理には、このような俗語は無い、
ウエブに、「筋道と理屈」を入力してみたら、1,080,000 の記事数があって、その最初の記事が『【筋道】 と 【理屈】 と 【道理】 はどう違いますか?』 という質問であった。
日本語が「摩訶不思議」な言葉と言われる訳は、この質問に正体が隠されているようである。
この質問の回答が、同じ記事の中に出ていた。凄く興味をそそる回答で、辞書を引用して、次のように答えている。
道理 ーー 物事の正しい筋道。
筋道 ーー 物事がそうなっているわけ。事の条理、道理。
理屈 ーー 物事の筋道。道理。
この回答に、最も多く使われている文句は、筋道と道理の二つである。理屈の解説に至っては、筋道と道理とはっきり言っている。 すると、筋道 理屈 道理の三者は同じ者である、という事になる。
外に、「論理」という文句もある。辞書で見ると、
1 考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式。「論理に飛躍がある」
2 事物の間にある法則的な連関。
となっており、やや難しくなる。理屈とはどう違うか、その解説を見ると、次のような説明になっている。
《《 論理的と理屈っぽいは、どちらとも筋道が立っていることですが、決定的な違いがあります。 論理的とは、第三者である聞き手や読み手にとって、「客観的に筋道が立っていること」です。 一方、理屈っぽいとは、「自己満足的に筋道が立っていること」です。 》》
だから、論理的、とは言うが、論理っぽい、とは言わない。そして、理屈っぽい、とは言うが、理屈的、とは言わない。
ーー 「理屈」の意味ですら 良く分らない ヤマト人種 ーー
「理屈」とは何か ?
日本国語大辞典に、もっともな論理、すじの通ったわけ、と一つの解釈だけが出ているが、一方、大辞泉では、(1) 物事の筋道、道理。(2) 無理につじつまを合わせた論理、こじつけの理論。という二つの字義を載せている。
よって、日本語大辞典に従うなら、「理屈」は筋の通った道理であり、大辞泉に従うなら、「理屈」とはこじつけの理論でもある。つまり、屁理屈にもなる。
更に、三省堂をも巻き込むと、益々混沌として来る。
理(り) 道理 事理 論理 論法 理路〈整然と説明する〉 条理 訳〈の分かった人〉 筋(すじ) 筋道 筋合い 辻褄(つじつま)〈を合わせる〉。 と、三省堂は解説している。
果たして、どれを取るべきであろうか ? 大半の日本人は、それも知らずに、この言葉を使っている。人により,屁をつけ「屁理屈」と言うて使う人もいる。実際は、同じ事である。
ーー 論語知らずで 李白も読めない ーー
文壇の老大家 故阿川弘之に「論語知らずの論語読み」という著書がある。序説の書き出しが可成り写実的で面白い;
《 うちに遊びに来た豚児のガールフレンドや豚女のボーイフレンドたちに「君たち、論語を知ってるか?」と訊ねたら「知ってるわよね、論語くらい」という返事。
「論語の中のどんな言葉が印象に残ってる?」と聞いたら「さあ・・・」とれっきとした大学生なのに黙ってしまう。
「例えば、朋アリ遠方ヨリ来ル、亦楽シカラズヤ、とかいうやつの二つや三つ知らないの?」と追い討ちをかけると。「知りません、論語がどうかしたんですか?」とくる 》
このように、知っているようで知らないのが「論語」という曲者であり、それを凡人達は安易に「知っているわよ」と云う。
論語というと、孔子様、 その孔子様に「子路」という弟子がいた。子路は春秋魯国 ( 山東) 季氏の家臣であったから、昔の地方の小役人になる。
この子路が学びに然程真面目でない「子羔」という人を山東省費縣西南の町長に任命した。それを聞いた孔子が、「 子羔を害する事」だと評した。つまり、「そのような重い責任を与えると、あの人をだめにしてしまうぞ。」と忠告した。
すると子路は、「費には無位の民も有位の民もおります、社も稷もあります。読書をし知識を広めてから学び、熟してからのち政治を担当する必要がどこにありましょう」、と反論した。
そこで、子曰く;「是故惡夫佞者」。つまり、「このように、口先で人に勝とうとするから、口達者なものを悪むのだ」と。
「是故惡夫佞者」という古文は分かり難いので、後日、朱子が「子路之言,非其本意,但理屈詞窮,而取辯於口以御人耳。」という注釈を付けた。つまり、「子路の言は彼の本意ではない、ただ、道理につまり言葉に窮した為に.口先で人に勝とうとしただけの事だ」。
この朱子の注釈に使われた「理屈詞窮」という成語が、日本語の「理屈」という言葉の元祖であるのはこれによって分かる。その本来の意味する所は「道理につまる」「筋の通らない道理」であり、今日の列島で云う「屁理屈」にほぼ該当する。だから、日本語で、理屈と言っても、屁理屈といっても、結果的には同じ事である。
何れにしても、今日列島で使われている「理屈」という言葉の意味は、孔子様の意とする所、或いは、朱子先生の注釈とは、意味が逸脱している事は間違いない。
文豪漱石は「理屈っぽい所がある」と良く云われる。次の逸話が如実にそれを物語っている ;
漱石が教師であった頃、授業中に懐手をしている学生がいて、漱石が注意すると生徒に「彼には手がありません」といわれた。「あ、そうか」と言って済ますべき所、漱石は、「私も無い知恵を出して講義してるんだから、君も出したまえ」と、心にもない理屈を口にした。
漱石だから「理屈」で通るだろうが、並の人なら「こじつけ」や「屁理屈」になるだろう。
「理屈」という言葉が「論語」から派生したものである、という事を知っている人は果たしてどのくらい居るのだろうか。
「論語」は唐土或いは列島で昔から「バイブル」並みに扱われて来たが、「バイブル」をよく知らないクリスチヤンが多く居るように、「論語」を良く知らない人びとは唐土や列島に溢れているのも実状であり、特に列島では「論語読みの論語知らず」という諺まである。
「論語」を読んでもよく知らないのであれば、論語から派生した「理屈」の意味がすっきりしない訳も分かる、というものではなかろうか。
ーー 白髪三千丈 の ヤマト人種理屈(屁理屈) ーー
先ず、論理に叶う、或いは、論理的な言い分の例を挙げて見る。
雲があって 始めて 雨が降る
雲が有ると 空は曇る
だから 雨天の空は曇っている
ソクラテスは人間である
人間は死ぬものである
だから ソクラテスも死ぬ
日本人は論理に弱い、と言われているから、このような「論理的」な言い方に、興味のある人は多くない。
ウエブで、「日本人は論理に弱い」を入力して、その度合いを見て見ようと思った。 一ぺージ目から、『日本人はなぜ「論理思考が壊滅的に苦手」なのか 』という記事が軒並みに現れた。成程、弱い!
唐土の詩仙李白を、列島の人々は、限りなく敬慕している。特に、李白の名句「白髪三千丈」を知らない日本人は居ない程である。
所が、大半の日本人は、この名句を「詩」から切り離して、法螺吹きの「俗語」として使っている。
白髪三千丈は 李白の詩句である
白髪三千丈は 法螺吹きである
だから 中国人は法螺吹きである
という具合に使っている。これは、全く論理に合わない、
白髪三千丈は 李白の詩句である
白髪三千丈は 法螺吹きである
だから 李白は法螺吹きである
という具合にならなければ「論理」に合わない、が、日本ではそうなって居ない。「最終句」が「だから 中国人は法螺吹きである」になっている。 デタラメな言い分になる。 これは、紛れも無く「屁理屈」である。 「論理思考が壊滅的に苦手」であるという最適の実例でもある。
主観的とは、辞書によれば、主観に基づくさま。自分だけにしか通用しない、ひとりよがりなさまである、と書いているので、理屈っぽいという言葉が意味する、「自己満足的に筋道が立っていること」の意味合いに合致する。つまり、「中国人は法螺吹き」だと言うのは、紛れも無く「屁理屈」になる。
白髪三千丈を誇張だというのは、全世界で日本人だけである。原産地の中国は固より、其の他の国で、この詩句が「誇張」である、と言うのは居ない。 思うに、日本人は、李白が読めないから、誇張だと言っている訳で、筋道からは全く外れている。
孔子を敬慕しても、論語知らずである、のと同じように、李白を敬慕しても「白髪三千丈」が読めない日本人が大半である。それで、名詩句を俗語に格落ちさせて、列島で法螺吹きの代名詞として使っている。
数千年の唐土文化の薫陶を受けた、ヤマト人種の「智能程度」が、「理屈」というれっきとした言葉であろうと、「白髪三千丈」という古今の名詩句であろうと、その理解程度の余りにも低次元である事に、大変な驚きを感じる、と、共に、なぜ、ヤマト人種は、無知を恥ずかしい、と思わず、反って、唐土をバカにするような「言行」を好むのか、と、限りなく不思議に思う。
ーー 昔の夷人は 、 今日の日本人ではない ーー
「東夷」という呼称が正式に世に表れたのは、物の本によると、「西周」の金文であったという。西周とは、約前11世紀―前771年に存在した古代唐土の王朝で,今を去る三千年余り前の昔になる。
その時分、朝鮮、日本、琉球、台湾などの島々には、勿論「国」というものは無く、列島は、縄文人の部落があっちこっちに散居していた時代であったと思われる。「日本」という国も、「日本人」という人種もないし、且つ、縄文人、即ち日本人の祖先である事も、今の日本人は認めていない。
つまり、昔昔、「東夷」と称された「列島人」と今日の「日本人」との間に、数千年を経て可成りの変化があって、殆んど別種の人間に進化しているのが実情であり、それは、古代から列島に定住していた「アイヌ」を、日本列島の「原住民」として認める事に、「日本人」がずっと抵抗を感じ、近年に至り、しぶしぶとその現実を認めた事からも、良く分かる通りである。
それでいて、古代の「列島」が「東夷」と称された事に、今日の日本人があれは「バカ」にされたと言って憤慨するのは、大変可怪しい、と思わないだろうか。
三千年前に、「東夷」と称されたのは、今日の中国の遼東、河北、山東、江蘇、安徽の各省が主体であり、更に漠然と、海の彼方の朝鮮、日本、琉球、台湾なども包括していたようであるが、この内、昔昔の呼称である「東夷」に、今日反撥を示し、文句を付けているのは「日本」だけで、朝鮮にしろ、琉球、台湾にしろ、又、同じ「唐土」である遼東、河北、山東、江蘇、安徽の各省ですら、全くそれを問題にしていないのに、なぜ、遠い海の彼方に位置する「日本」だけが、今日に至るもそれを問題にしているのか、どう考えても不思議である。
そこで考えられる事は、列島でよく言われる「自意識過剰」という日本人の特殊性格によるものではなかろうか、ということである。
他人の目、他人の言う事などを必要以上に気にするという特殊性格から、「日本をどう思いますか?」という問いが頻繁に外国人に対して発せられる事になるが、気に入った回答であれば喜んで微笑むが、期待通りの回答が戻って来なければ、ソッポを向いてしまう。
歴史学者によると、列島に「日本」という国が成立したのは、千三百年ほど前の事であるが、未だに、「日本」という名称の始まり、「日本人」は何処から来た、「天皇」は何処から来たなどなどの問題討議で「定説」が確定しないままに、世論を賑わしている。
なのに、三千年もの昔の「東夷」の呼称が、どうのこうのとウエブで29、200、000 件 ( 千万単位 ) の記事を出し、討議した所で、結論の出しようはなく、何の意味があるのだろうか?
「夷」という漢字を、「蔑称」に限定して使用するのは、自分の卑下を悪化させる弊害を生み出すだけで何の役にも立たない事が分かる。これは、列島の特殊性格によるもので、「夷」という漢字そのものを解すると云うよりよりも、単なる「自夷識過剰」を満足させる為に使用しているのではないか。
ーー 列島は 文字文化の「ゴミ屋敷」(囤積症) ーー
日本語と言うのは、世界中から, 特に、系統も考えずにただ単に寄せ集めたもの。言うなれば「がらくたの寄せ集め」に該当する。
その良い例の一つが、本文で挙げた「理屈」という言葉である。論語から出た「理屈」は、本家の中国で、理に屈する、即ち、こじつけの理論として使っている(大辞泉 参照)。所が、分家の日本では、もっともな論理、すじの通ったわけ (日本国語大辞典 参照)として使っている。
そして、同じ分家の辞書三省堂では、理(り) 道理 事理 論理 論法 理路〈整然と説明する〉 条理 訳〈の分かった人〉 筋(すじ) 筋道 筋合い 辻褄(つじつま)〈を合わせる〉。 と、多岐多彩な解説しているから、 全般的に、日本に於ける「理屈」の意味は混沌としている。だから、屁理屈だとか理屈っぽいという、素性のすっきり用語が良く使われる。
漢字の本家である中国では、「道理」に叶うかどうかに絞って、使っている。なぜ、日本で、理(り) 道理 事理 論理 論法 理路〈整然と説明する〉 条理 訳〈の分かった人〉 筋(すじ) 筋道 筋合い 辻褄(つじつま)〈を合わせる〉などなどと、十以上の文句を使う必要がある ?
勿論、必要はない。ただ、集めた文句が沢山あるので、それらを披露したまでの事で、個人の「ゴミ屋敷」に相当するものではなかろうか。
今一つ、理屈よりも、もっとひどいゴミ集めがある。バカや阿呆を表わす言葉は、米国で主に二つ、fool か stupid で、中卒なら誰でも学校で習った通りである。 そして、人口十四億の中国で、で普段使われている「馬鹿」という言葉は Weblio には「笨蛋」(ben 4 dan 4 ) や「傻瓜」(sha3 gua1) の二つしか出ていない。
所が、国土、人口など遥かに小さい島国日本では、日本語の「馬鹿」の同義語が、Weblio 辞書によると、九十四の多きに達する。信じ難い事である。 ヤマト人種は、そんな桁外れに「バカ」が多いのかなあーと、首を傾げたがる。 「馬鹿」や「阿呆」の二つも有れば、充分ではなかろうか。
「論理」という文句は、辞書で見ると、
1 考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式。「論理に飛躍がある」
2 事物の間にある法則的な連関。
と出ていて、考えや議論を系統的に思考し、筋道を組み立てる法則や形式である。
日本人は、論理に弱い、そして、外国人との意思疎通(communicationn ) がままならない、のは周知の通りであり、其の根本原因を考えてみるなら、列島文字文化の「ゴミ屋敷」症状が、主な原因である、と、認めざるを得ない。
なぜ、日本の文部省は、思い切って整理をしないのかな、と良く思う。
漢字が誕生して、既に、三千年以上の歳月が過ぎた。「上」という漢字の筆画は、この間、二つでずっと使用されて来た。一つは、タテ ヨコ タテ、 今一つは、ヨコ タテ ヨコ で、本家でも何の問題も無く使用されて来た。
所が、日本の文部省は、三千年後の今日に至り、突然、何を思ったのか、二通りの筆画を一通りに纏めるべく、数年前、五人の書道家に決定を依頼して、筆画を一つに纏めた。その通りに書かないと、試験は不合格になると言う。
その新聞報道を見たときは、開いた口が不がらない、という心情であった。僅三画の字である、タテから始めるか、ヨコから始めようか、結果は「上」の字になる。なにが問題になるのか。
所が、列島の文部省は、そのような 極めて「微細」な事に頭を使うが、国家の文字文化の「ガラクタ ゴミ」を整理しよう、とする声は聴いた事も無い。 摩訶不思議な事である。
少なくとも、千年以上に亙る、東西文字の「ゴミ集め」、玉有れば、石もある。日本文化は、玉石混交である、と言われる訳は、そこにある。
整理することを、本文主題 『 「筋道」「理屈」「道理」、の違い 』 を例に挙げて言うならば、理屈という外来語をはずし、「筋道」という国産語を残せば、充分足りる筈。ちょっとしたお相伴が必要なら「道理」も残す、という事で、文字文化としては完璧である筈。整理をすれば、三省堂のような込み入った 訳の分からない 解説の必要は、毛頭ない。 残るのは、するかしないか、だけである。
明治以来、「自慢嗜好」の強い列島は、軍事大国、経済大国を喧伝し続けて来たが、ついに、文化大国という文句を口にしたのは、聞いた事が無い。当たり前である。文字文化が混沌としているからである。世界中の文字を拾い集めた結果が、文字文化の混合、そして、混沌を招いて、はっきりと雑種文化の様相を呈しているので、「文化大国」とは、お世辞にも言えない。
日本は 世界唯一の「語学音痴」の国である。世界中の言葉を、只だと思って、収集して来たが、実際に使用出来る、或いは、使用しているのは、僅かであり、残りは「ゴミ」となっており、列島自体の文字文化の開発発展の妨げになっている。「語学音痴」になるべくしてなった、と言える。
近年来、列島「美人芸能人」の「ゴミ屋敷」が公になり、大変な反響を呼んでいる。美人とゴミ集積、どう考えても,異常で病気の内に入る。
ならば、国家の文字文化の「ゴミ集積」に見向きしない政府に、庶民からの抗議の声を聴かないのは、ヤマト人種に、ゴミ収集癖が、伝統的にあったもの、かとも思える。
果たして、実態は、どちらなのか ?
ーー 「筋道」は日本語で、「理屈」は外来語 ーー
ーー 自分の為だけにある「筋道」が理屈である ーー
ーー 他人にも通じる 筋道が論理になる ーー
ーー 列島 文字文化の 伝統的 集積癖 ーー
ーー 集めるだけ、整理出来ないから、ゴミに成って残る ーー
理屈(りくつ)と膏薬(こうやく)はどこへでも付(つ)く,
理屈は、つけようと思えば何にでもつけることができる。
理屈に、このような俗語は沢山あるが、論理には、このような俗語は無い、
ウエブに、「筋道と理屈」を入力してみたら、1,080,000 の記事数があって、その最初の記事が『【筋道】 と 【理屈】 と 【道理】 はどう違いますか?』 という質問であった。
日本語が「摩訶不思議」な言葉と言われる訳は、この質問に正体が隠されているようである。
この質問の回答が、同じ記事の中に出ていた。凄く興味をそそる回答で、辞書を引用して、次のように答えている。
道理 ーー 物事の正しい筋道。
筋道 ーー 物事がそうなっているわけ。事の条理、道理。
理屈 ーー 物事の筋道。道理。
この回答に、最も多く使われている文句は、筋道と道理の二つである。理屈の解説に至っては、筋道と道理とはっきり言っている。 すると、筋道 理屈 道理の三者は同じ者である、という事になる。
外に、「論理」という文句もある。辞書で見ると、
1 考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式。「論理に飛躍がある」
2 事物の間にある法則的な連関。
となっており、やや難しくなる。理屈とはどう違うか、その解説を見ると、次のような説明になっている。
《《 論理的と理屈っぽいは、どちらとも筋道が立っていることですが、決定的な違いがあります。 論理的とは、第三者である聞き手や読み手にとって、「客観的に筋道が立っていること」です。 一方、理屈っぽいとは、「自己満足的に筋道が立っていること」です。 》》
だから、論理的、とは言うが、論理っぽい、とは言わない。そして、理屈っぽい、とは言うが、理屈的、とは言わない。
ーー 「理屈」の意味ですら 良く分らない ヤマト人種 ーー
「理屈」とは何か ?
日本国語大辞典に、もっともな論理、すじの通ったわけ、と一つの解釈だけが出ているが、一方、大辞泉では、(1) 物事の筋道、道理。(2) 無理につじつまを合わせた論理、こじつけの理論。という二つの字義を載せている。
よって、日本語大辞典に従うなら、「理屈」は筋の通った道理であり、大辞泉に従うなら、「理屈」とはこじつけの理論でもある。つまり、屁理屈にもなる。
更に、三省堂をも巻き込むと、益々混沌として来る。
理(り) 道理 事理 論理 論法 理路〈整然と説明する〉 条理 訳〈の分かった人〉 筋(すじ) 筋道 筋合い 辻褄(つじつま)〈を合わせる〉。 と、三省堂は解説している。
果たして、どれを取るべきであろうか ? 大半の日本人は、それも知らずに、この言葉を使っている。人により,屁をつけ「屁理屈」と言うて使う人もいる。実際は、同じ事である。
ーー 論語知らずで 李白も読めない ーー
文壇の老大家 故阿川弘之に「論語知らずの論語読み」という著書がある。序説の書き出しが可成り写実的で面白い;
《 うちに遊びに来た豚児のガールフレンドや豚女のボーイフレンドたちに「君たち、論語を知ってるか?」と訊ねたら「知ってるわよね、論語くらい」という返事。
「論語の中のどんな言葉が印象に残ってる?」と聞いたら「さあ・・・」とれっきとした大学生なのに黙ってしまう。
「例えば、朋アリ遠方ヨリ来ル、亦楽シカラズヤ、とかいうやつの二つや三つ知らないの?」と追い討ちをかけると。「知りません、論語がどうかしたんですか?」とくる 》
このように、知っているようで知らないのが「論語」という曲者であり、それを凡人達は安易に「知っているわよ」と云う。
論語というと、孔子様、 その孔子様に「子路」という弟子がいた。子路は春秋魯国 ( 山東) 季氏の家臣であったから、昔の地方の小役人になる。
この子路が学びに然程真面目でない「子羔」という人を山東省費縣西南の町長に任命した。それを聞いた孔子が、「 子羔を害する事」だと評した。つまり、「そのような重い責任を与えると、あの人をだめにしてしまうぞ。」と忠告した。
すると子路は、「費には無位の民も有位の民もおります、社も稷もあります。読書をし知識を広めてから学び、熟してからのち政治を担当する必要がどこにありましょう」、と反論した。
そこで、子曰く;「是故惡夫佞者」。つまり、「このように、口先で人に勝とうとするから、口達者なものを悪むのだ」と。
「是故惡夫佞者」という古文は分かり難いので、後日、朱子が「子路之言,非其本意,但理屈詞窮,而取辯於口以御人耳。」という注釈を付けた。つまり、「子路の言は彼の本意ではない、ただ、道理につまり言葉に窮した為に.口先で人に勝とうとしただけの事だ」。
この朱子の注釈に使われた「理屈詞窮」という成語が、日本語の「理屈」という言葉の元祖であるのはこれによって分かる。その本来の意味する所は「道理につまる」「筋の通らない道理」であり、今日の列島で云う「屁理屈」にほぼ該当する。だから、日本語で、理屈と言っても、屁理屈といっても、結果的には同じ事である。
何れにしても、今日列島で使われている「理屈」という言葉の意味は、孔子様の意とする所、或いは、朱子先生の注釈とは、意味が逸脱している事は間違いない。
文豪漱石は「理屈っぽい所がある」と良く云われる。次の逸話が如実にそれを物語っている ;
漱石が教師であった頃、授業中に懐手をしている学生がいて、漱石が注意すると生徒に「彼には手がありません」といわれた。「あ、そうか」と言って済ますべき所、漱石は、「私も無い知恵を出して講義してるんだから、君も出したまえ」と、心にもない理屈を口にした。
漱石だから「理屈」で通るだろうが、並の人なら「こじつけ」や「屁理屈」になるだろう。
「理屈」という言葉が「論語」から派生したものである、という事を知っている人は果たしてどのくらい居るのだろうか。
「論語」は唐土或いは列島で昔から「バイブル」並みに扱われて来たが、「バイブル」をよく知らないクリスチヤンが多く居るように、「論語」を良く知らない人びとは唐土や列島に溢れているのも実状であり、特に列島では「論語読みの論語知らず」という諺まである。
「論語」を読んでもよく知らないのであれば、論語から派生した「理屈」の意味がすっきりしない訳も分かる、というものではなかろうか。
ーー 白髪三千丈 の ヤマト人種理屈(屁理屈) ーー
先ず、論理に叶う、或いは、論理的な言い分の例を挙げて見る。
雲があって 始めて 雨が降る
雲が有ると 空は曇る
だから 雨天の空は曇っている
ソクラテスは人間である
人間は死ぬものである
だから ソクラテスも死ぬ
日本人は論理に弱い、と言われているから、このような「論理的」な言い方に、興味のある人は多くない。
ウエブで、「日本人は論理に弱い」を入力して、その度合いを見て見ようと思った。 一ぺージ目から、『日本人はなぜ「論理思考が壊滅的に苦手」なのか 』という記事が軒並みに現れた。成程、弱い!
唐土の詩仙李白を、列島の人々は、限りなく敬慕している。特に、李白の名句「白髪三千丈」を知らない日本人は居ない程である。
所が、大半の日本人は、この名句を「詩」から切り離して、法螺吹きの「俗語」として使っている。
白髪三千丈は 李白の詩句である
白髪三千丈は 法螺吹きである
だから 中国人は法螺吹きである
という具合に使っている。これは、全く論理に合わない、
白髪三千丈は 李白の詩句である
白髪三千丈は 法螺吹きである
だから 李白は法螺吹きである
という具合にならなければ「論理」に合わない、が、日本ではそうなって居ない。「最終句」が「だから 中国人は法螺吹きである」になっている。 デタラメな言い分になる。 これは、紛れも無く「屁理屈」である。 「論理思考が壊滅的に苦手」であるという最適の実例でもある。
主観的とは、辞書によれば、主観に基づくさま。自分だけにしか通用しない、ひとりよがりなさまである、と書いているので、理屈っぽいという言葉が意味する、「自己満足的に筋道が立っていること」の意味合いに合致する。つまり、「中国人は法螺吹き」だと言うのは、紛れも無く「屁理屈」になる。
白髪三千丈を誇張だというのは、全世界で日本人だけである。原産地の中国は固より、其の他の国で、この詩句が「誇張」である、と言うのは居ない。 思うに、日本人は、李白が読めないから、誇張だと言っている訳で、筋道からは全く外れている。
孔子を敬慕しても、論語知らずである、のと同じように、李白を敬慕しても「白髪三千丈」が読めない日本人が大半である。それで、名詩句を俗語に格落ちさせて、列島で法螺吹きの代名詞として使っている。
数千年の唐土文化の薫陶を受けた、ヤマト人種の「智能程度」が、「理屈」というれっきとした言葉であろうと、「白髪三千丈」という古今の名詩句であろうと、その理解程度の余りにも低次元である事に、大変な驚きを感じる、と、共に、なぜ、ヤマト人種は、無知を恥ずかしい、と思わず、反って、唐土をバカにするような「言行」を好むのか、と、限りなく不思議に思う。
ーー 昔の夷人は 、 今日の日本人ではない ーー
「東夷」という呼称が正式に世に表れたのは、物の本によると、「西周」の金文であったという。西周とは、約前11世紀―前771年に存在した古代唐土の王朝で,今を去る三千年余り前の昔になる。
その時分、朝鮮、日本、琉球、台湾などの島々には、勿論「国」というものは無く、列島は、縄文人の部落があっちこっちに散居していた時代であったと思われる。「日本」という国も、「日本人」という人種もないし、且つ、縄文人、即ち日本人の祖先である事も、今の日本人は認めていない。
つまり、昔昔、「東夷」と称された「列島人」と今日の「日本人」との間に、数千年を経て可成りの変化があって、殆んど別種の人間に進化しているのが実情であり、それは、古代から列島に定住していた「アイヌ」を、日本列島の「原住民」として認める事に、「日本人」がずっと抵抗を感じ、近年に至り、しぶしぶとその現実を認めた事からも、良く分かる通りである。
それでいて、古代の「列島」が「東夷」と称された事に、今日の日本人があれは「バカ」にされたと言って憤慨するのは、大変可怪しい、と思わないだろうか。
三千年前に、「東夷」と称されたのは、今日の中国の遼東、河北、山東、江蘇、安徽の各省が主体であり、更に漠然と、海の彼方の朝鮮、日本、琉球、台湾なども包括していたようであるが、この内、昔昔の呼称である「東夷」に、今日反撥を示し、文句を付けているのは「日本」だけで、朝鮮にしろ、琉球、台湾にしろ、又、同じ「唐土」である遼東、河北、山東、江蘇、安徽の各省ですら、全くそれを問題にしていないのに、なぜ、遠い海の彼方に位置する「日本」だけが、今日に至るもそれを問題にしているのか、どう考えても不思議である。
そこで考えられる事は、列島でよく言われる「自意識過剰」という日本人の特殊性格によるものではなかろうか、ということである。
他人の目、他人の言う事などを必要以上に気にするという特殊性格から、「日本をどう思いますか?」という問いが頻繁に外国人に対して発せられる事になるが、気に入った回答であれば喜んで微笑むが、期待通りの回答が戻って来なければ、ソッポを向いてしまう。
歴史学者によると、列島に「日本」という国が成立したのは、千三百年ほど前の事であるが、未だに、「日本」という名称の始まり、「日本人」は何処から来た、「天皇」は何処から来たなどなどの問題討議で「定説」が確定しないままに、世論を賑わしている。
なのに、三千年もの昔の「東夷」の呼称が、どうのこうのとウエブで29、200、000 件 ( 千万単位 ) の記事を出し、討議した所で、結論の出しようはなく、何の意味があるのだろうか?
「夷」という漢字を、「蔑称」に限定して使用するのは、自分の卑下を悪化させる弊害を生み出すだけで何の役にも立たない事が分かる。これは、列島の特殊性格によるもので、「夷」という漢字そのものを解すると云うよりよりも、単なる「自夷識過剰」を満足させる為に使用しているのではないか。
ーー 列島は 文字文化の「ゴミ屋敷」(囤積症) ーー
日本語と言うのは、世界中から, 特に、系統も考えずにただ単に寄せ集めたもの。言うなれば「がらくたの寄せ集め」に該当する。
その良い例の一つが、本文で挙げた「理屈」という言葉である。論語から出た「理屈」は、本家の中国で、理に屈する、即ち、こじつけの理論として使っている(大辞泉 参照)。所が、分家の日本では、もっともな論理、すじの通ったわけ (日本国語大辞典 参照)として使っている。
そして、同じ分家の辞書三省堂では、理(り) 道理 事理 論理 論法 理路〈整然と説明する〉 条理 訳〈の分かった人〉 筋(すじ) 筋道 筋合い 辻褄(つじつま)〈を合わせる〉。 と、多岐多彩な解説しているから、 全般的に、日本に於ける「理屈」の意味は混沌としている。だから、屁理屈だとか理屈っぽいという、素性のすっきり用語が良く使われる。
漢字の本家である中国では、「道理」に叶うかどうかに絞って、使っている。なぜ、日本で、理(り) 道理 事理 論理 論法 理路〈整然と説明する〉 条理 訳〈の分かった人〉 筋(すじ) 筋道 筋合い 辻褄(つじつま)〈を合わせる〉などなどと、十以上の文句を使う必要がある ?
勿論、必要はない。ただ、集めた文句が沢山あるので、それらを披露したまでの事で、個人の「ゴミ屋敷」に相当するものではなかろうか。
今一つ、理屈よりも、もっとひどいゴミ集めがある。バカや阿呆を表わす言葉は、米国で主に二つ、fool か stupid で、中卒なら誰でも学校で習った通りである。 そして、人口十四億の中国で、で普段使われている「馬鹿」という言葉は Weblio には「笨蛋」(ben 4 dan 4 ) や「傻瓜」(sha3 gua1) の二つしか出ていない。
所が、国土、人口など遥かに小さい島国日本では、日本語の「馬鹿」の同義語が、Weblio 辞書によると、九十四の多きに達する。信じ難い事である。 ヤマト人種は、そんな桁外れに「バカ」が多いのかなあーと、首を傾げたがる。 「馬鹿」や「阿呆」の二つも有れば、充分ではなかろうか。
「論理」という文句は、辞書で見ると、
1 考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式。「論理に飛躍がある」
2 事物の間にある法則的な連関。
と出ていて、考えや議論を系統的に思考し、筋道を組み立てる法則や形式である。
日本人は、論理に弱い、そして、外国人との意思疎通(communicationn ) がままならない、のは周知の通りであり、其の根本原因を考えてみるなら、列島文字文化の「ゴミ屋敷」症状が、主な原因である、と、認めざるを得ない。
なぜ、日本の文部省は、思い切って整理をしないのかな、と良く思う。
漢字が誕生して、既に、三千年以上の歳月が過ぎた。「上」という漢字の筆画は、この間、二つでずっと使用されて来た。一つは、タテ ヨコ タテ、 今一つは、ヨコ タテ ヨコ で、本家でも何の問題も無く使用されて来た。
所が、日本の文部省は、三千年後の今日に至り、突然、何を思ったのか、二通りの筆画を一通りに纏めるべく、数年前、五人の書道家に決定を依頼して、筆画を一つに纏めた。その通りに書かないと、試験は不合格になると言う。
その新聞報道を見たときは、開いた口が不がらない、という心情であった。僅三画の字である、タテから始めるか、ヨコから始めようか、結果は「上」の字になる。なにが問題になるのか。
所が、列島の文部省は、そのような 極めて「微細」な事に頭を使うが、国家の文字文化の「ガラクタ ゴミ」を整理しよう、とする声は聴いた事も無い。 摩訶不思議な事である。
少なくとも、千年以上に亙る、東西文字の「ゴミ集め」、玉有れば、石もある。日本文化は、玉石混交である、と言われる訳は、そこにある。
整理することを、本文主題 『 「筋道」「理屈」「道理」、の違い 』 を例に挙げて言うならば、理屈という外来語をはずし、「筋道」という国産語を残せば、充分足りる筈。ちょっとしたお相伴が必要なら「道理」も残す、という事で、文字文化としては完璧である筈。整理をすれば、三省堂のような込み入った 訳の分からない 解説の必要は、毛頭ない。 残るのは、するかしないか、だけである。
明治以来、「自慢嗜好」の強い列島は、軍事大国、経済大国を喧伝し続けて来たが、ついに、文化大国という文句を口にしたのは、聞いた事が無い。当たり前である。文字文化が混沌としているからである。世界中の文字を拾い集めた結果が、文字文化の混合、そして、混沌を招いて、はっきりと雑種文化の様相を呈しているので、「文化大国」とは、お世辞にも言えない。
日本は 世界唯一の「語学音痴」の国である。世界中の言葉を、只だと思って、収集して来たが、実際に使用出来る、或いは、使用しているのは、僅かであり、残りは「ゴミ」となっており、列島自体の文字文化の開発発展の妨げになっている。「語学音痴」になるべくしてなった、と言える。
近年来、列島「美人芸能人」の「ゴミ屋敷」が公になり、大変な反響を呼んでいる。美人とゴミ集積、どう考えても,異常で病気の内に入る。
ならば、国家の文字文化の「ゴミ集積」に見向きしない政府に、庶民からの抗議の声を聴かないのは、ヤマト人種に、ゴミ収集癖が、伝統的にあったもの、かとも思える。
果たして、実態は、どちらなのか ?