100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL32 明治の統計集5  「下閉伊郡勢一班」 (5) 交通

2014-09-10 18:39:06 | 明治の統計集(下閉伊郡)

明治の統計集 5

(岩手県沿海四郡聯合物産共進会記念写真帳附属諸表)

「下閉伊郡勢一班」 その5 (交通/明治44年)

 

[里道]

 明治の道路は、国道・県道・里道の3種類に区分されていました。市町村道は規定がなく、また下閉伊郡には国道は走っていません。里道とは、法定外の公道であり、大正8年にその内の重要な道が市町村道に指定され、残りは今も所謂赤線道路として取り残されています。但し長年放置されたので、境界が不明確になったり、時効取得を主張されたり、トラブルの原因ともなっています。なお県道は、現在の国道45号と106号です。

 [馬車・荷車・人力車・自転車]

 この時代は宮古でも人力車は代表的な交通機関でした。宮古から山田まで行くことは当たり前で、明治29(1896)の大津波の際、内務大臣板垣退助一行が罹災状況を視察に、盛岡から人力車で県道閉伊街道(宮古街道ともいう、現国道106号)を通って来たといいます。但し当時は道幅は2間(約3.6m)程で荷馬の通行さえ容易でないところがあったといいますから相当難儀されたと思います。(人力車の写真は「宮古のあゆみ」から)

[航路・帆船]

 宮古~塩釜~東京の航路は、三陸汽船のことで、VOL18「明治の鍬ケ崎湊2」に詳しく書いてありますのでご覧ください。灯台は勿論魹ケ崎灯台です。

[客馬車線路]

 線路といっても、レールの上を走るのではありません、路線の意味です。宮古盛岡間の県道は改良工事の結果馬車による運行が可能となり、沿岸と内陸との交流が増えたので、明治39年(1906年)に盛宮馬車株式会社(本社宮古)が設立され、乗合馬車の運行を開始しました。なお区間中に6ケ所の馬継所があり、所要時間は約12時間で1日1本、早朝それぞれ宮古・盛岡を立って夕刻着く旅程であったそうです。それ以前は3日を要したことに較べれば大変なスピードアップです。

 本写真帳に記載がありませんが、その後明治44年に盛岡宮古間の閉伊街道に乗合自動車(今のバス)を運行する事業が検討され、大正2年に運行を開始しました。東北で最初の乗合自動車で、また自動車登録そのものも東北の一番乗り(№1~4)でした。このことについては次回に詳しく書きます。

[電話線]

[馬車・荷車・人力車・自転車]

 この時代は宮古でも人力車は代表的な交通機関でした。宮古から山田まで行くことは当たり前で、明治29年(1896年)の大津波の際、内務大臣板垣退助一行が罹災状況を視察に、盛岡から人力車で県道閉伊街道(宮古街道ともいう、現国道106号)を通って来たといいます。但し当時は道幅は2間(約3.6m)程で荷馬の通行さえ容易でないところがあったといいますから相当難儀されたと思います。

なお当時は馬車から自転車まで全て登録制になっていました。そういえば私の祖父(明治27年生)は、宮古で数台しか自転車が無い時代に乗り回していたと自慢していましたっけ…

 

[航路・帆船]

  宮古~塩釜~東京の航路は、三陸汽船のことで、VOL18「明治の鍬ケ崎湊2」に詳しく書いてありますのでご覧ください。灯台は勿論魹ケ崎灯台です。

 

[客馬車線路]

 線路といっても、レールの上を走るのではありません、路線の意味です。宮古盛岡間の県道は改良工事の結果馬車による運行が可能となり、沿岸と内陸との交流が増えたので、明治39年(1906年)に盛宮馬車株式会社(本社宮古)が設立され、乗合馬車の運行を開始しました。なお区間中に6ケ所の馬継所があり、所要時間は約12時間で1日1本、早朝それぞれ宮古・盛岡を立って夕刻着く旅程であったそうです。それ以前は3日を要したことに較べれば大変なスピードアップです。

 

本写真帳に記載がありませんが、その後明治44年に盛岡宮古間の閉伊街道に乗合自動車(今のバス)を運行する事業が検討され、大正2年に運行を開始しました。東北で最初の乗合自動車で、また自動車登録そのものも東北の一番乗り(№1~4)でした。このことについては次回に詳しく書きます。

  宮古に電話が開通したのが明治41年(1908年)でした。グラハム・ベルが電話を発明したのが、1876年(明治9年)、日本で最初に開通したのが明治23年(1890年)ですから、案外早く普及したのがわかります。

 

「明治の三陸博覧会」記念写真帳とは?


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