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戦国夜話21

2014-03-31 08:18:35 | 歴史
小田原征伐の後、秀吉は鶴岡八幡宮を訪れ、源頼朝像に語りかけたと「関八州古戦録」は伝える。
このあたり、文語の原文よりも口語訳されたものの方が秀吉の感覚が出やすいというのも秀吉という男の不思議さである。

「日本広しといえども、微賤の身から天下統一までなしとげたのはあんたとオレだけだ。
だがあんたには血筋があった。
おれはなにもなかった。
だから創業の功でいえばオレの方が上さ。」

こういって頼朝の木造をホトホトと叩き、少し政治的配慮をしたのか、あわてて「だけどあなたとオレは天下友達だね」とよくわからないことを言い、カラカラ笑いながら出て行ったという。

これは秀吉の実感だったことだろう。

最初の武家統一政権を打ち立てた源頼朝という人物と肩を並べるところまでオレは駆け上った。
そしてよくよく聞いてみればオレの方がはるかに悪条件ではないか。
驚くべきオレのエラさよ ー。

若き日の秀吉、稲葉山城を命がけで登る



そしてこの頼朝像に語りかけた頃が秀吉のピークであり、秀吉の限界でもあった。

なぜならたしかに秀吉は最底辺から自力で這い上がった男だが、その後の豊政権の寿命はあまりに短い。

頼朝が歴史的にまったく好かれないことと秀吉の人気の差もこの辺にある。
頼朝はその後の政権の安定のために冷酷なまでに政策を打ち続けた。

この政治的冷徹さと歴史上の人気の無さという意味で頼朝と家康、さらには大久保利通の三者は酷似している。
だがいずれの者も次の時代の基礎を強力に作り上げている。

秀吉ほどに聡明な男もこればかりは出来なかった。
子種がなかったということは別にしても、朝鮮出兵などしているくらいなら、自己の政権の基盤を強固にする布石を打つべきだっただろう。

(太閤検地や刀狩りなど優れた政策もうってはいるが、それらの効は朝鮮の役で消し飛んでしまっている。)







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