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思考の踏み込み

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前田智徳4

2014-08-01 07:33:11 | 
前田にとって打席に立つということは、真剣勝負そのものであった。

斬るか斬られるか ー 。




野球など所詮はその本質はゲームである。
即ち楽しむべきものであってスポーツの本質自体はそれ以上でも以下でもない。

その "ゲーム" であるはずのモノに真剣勝負をこの男は持ち込んだ。
いや、スポーツの世界でも高いレベルで競い合う次元に行けば、誰もがそのくらいの気持ちでやっているのだが、前田ほど本気でそれを実践できる者はいない。

従って前途した前田のエピソードは、傲慢で自己中心的な話などではなく、命懸けの男のサシの勝負にくだらないチームの駆け引きを持ち込むな!という前田の純粋過ぎる叫びと見るべきだろう。

(野球はチーム競技だから駆け引きは当然のことなのだが、投手対打者に限って野球は個人戦である側面を持つ。そして野球の真の醍醐味もそこにある。)



これは同じ夏 ー 甲子園でのエピソードからも読み取れる。

熊本大会を制し、甲子園出場を決めた熊本工業の一回戦、第一打席。
前田は見事にライト前にタイムリーヒットを放つ。



ところがベンチに帰った前田は何故か泣き崩れ、攻撃が終わっても守備につこうとしない。

「ダメです。オレはもうダメです。」

頭を抱えて前田はうずくまっていたという。

高校球児は誰もがまず、そこに出場する事を夢見る。
そして少しでも活躍する事が出来れば、それまでの ー 同じ年ごろの高校生達とは比較にならない程の厳しい練習の日々も報われるのである。

ところが、この男だけは見ている場所の次元が違う。

彼にとってはタイムリーヒットでさえ、納得のいくバッティングでなかったならば、それは敗北であって、真剣勝負である以上は "死" でさえある。

従ってとてもではないが、守備になどつけない。
野球部部長の田爪 (前田が恩師と仰ぐ人物) は頼むから守備についてくれ、と拝み倒してようやく送り出したという。

田爪は言う。
"こんな選手は甲子園史上一人もおらん。守備についてくれた時、ワシの仕事は終わった、と思った ー 。"



このエピソードの裏話としてよく言われるのが、同学年のライバル元木大介が既にホームランを甲子園で連発していたことに対抗した前田が、ヒット止りであったことを悔しがった、というものである。

だが、これは前田の世間向けのジェスチャーに過ぎないだろうと、思う。

まさか "あの瞬間、僕は真剣勝負で負けた。それは死んだことと変わらない" とはマスコミに言えまい。

だから周囲を納得させる為に元木の名を出したに過ぎない。
なぜなら、元木の活躍に対抗する機会はまだいくらでもあったわけで、甲子園初戦の、第一打席で全ての判断をする必要などないからだ。

何より前田の見ていた場所は、、そんなたわいもない結果などの世界ではないはずである。

前田本人の発言であるからといってそのまま額面通りに受け取れば、我々はこの愛すべき男の真の価値には近づけない。


前田智徳3

2014-07-31 00:22:59 | 
前田を天才と評する人物は数えきれないが、私はその事自体にはあまり興味はない。このことは後述する。

またよく言われる事だが、前田が "怪我さえなければー " という仮定の話でもって、記録を色々引き合いに出して他者と比較する事もそれほどに意味を感じない。
記録は記録でしかない。

記録に現れないところに、計り知れない魅力があるからこそ、人はわざわざ球場まで足を運ぶのである。

どんなにOPSやRCWINとかいった詳細な評価のシステムが作られても、野球選手の全ての価値をデータ化することなどできない。

当然、私が前田に感じている魅力はそんな所にはない。




前田の魅力はその生き様にこそある。


尽きることのない "高み" を目指し、一切の妥協をしない厳しさ。

その為には余分なモノを全て切り捨てる、ストイックなどという言葉で説明していたら物足りないほどの追求心。

前田には宗教性は見当たらないから、求道という言葉も本来当たらないのだが、その推進力を既存の言葉で表すにはやはり "求道" という言葉を選ぶしかない。

その片鱗は高校時代のエピソードで既に見受けられる。



高校三年の夏、熊本県大会決勝。
0ー1で前田の熊本工業がリードしている四回表、前田の打席。

既にその実力は知れ渡っている前田に対し、相手ベンチは歩かせても良い、と指示する。

相手投手は指示に従い、ボール球を二球続けた、そのとき ー 。

「ストライクいれんかい!勝負せんかい!」

バットを持ったまま前田はマウンドに歩み寄り怒鳴った。
相手投手もまた立派な "肥後もっこす" 。
「何やとこら!?。」


審判が間に入り、「こらこらお前ら、喧嘩と違うぞ」と取りなして事なきを得たが、プレー再開後、相手投手がベンチの指示を無視して真っ向勝負で投げ込んできた球を ー 前田はライトスタンドへ叩き込んだ。




ー こんな高校生が何処にいるだろうか?
これは戦後の大時代的な雰囲気の頃の話ではない。

昭和すら終わった平成元年夏の ー 実話である。






前田智徳2

2014-07-30 00:15:32 | 
前田の魅力や凄さについて語られるとき、決まって取り沙汰されるのがイチローの発言であろう。


「僕は天才じゃない。本当の天才、それは前田さんの事 ー 。」



そう語り、若き頃のイチローは憧れの選手として公言していた。

しかし、現在のイチローは前田について語ることはないし、内心では前田などとっくに超えている、と思っているかもしれない。

そんな事はどちらでもよい。
要は何年も前のイチローの発言を引っ張り出す必要など今さら無い、ということである。

そんな事をしなくとも前田の野球界における打者としての天才性は、そのムダのない動きを観ていればプロでなくとも判ることである。




イチローの古い発言を引っ張り出す事は、今さらイチローもいい迷惑であろうし、前田もむず痒いだけだろう。

だが身勝手なファン心理というのは、この手の話題が大好きでたまらないものでもある。
今回はあえてそこに乗っかってみてもいいかもしれない。

天才は天才を知るというが、前田の天才性を評価しているのは、いずれも超一流のプレイヤーばかりである。

落合博満は現役時代の前田を評して語っている。


「今の野球界で真の天才は前田だけだ。子供に真似させていいのは、前田のバッティングだけだ。」


たしかに落合のフォームは子供にはマネできないだろう。
というより "オレの高度なバッティング技術は誰もマネできまい" という落合の強烈な自信が、この言葉の奥底にはあるかもしれない。



だがこれは深読みのし過ぎかもしれない。
落合は前田の打撃についてこうも言っている。

「それはプロ野球50年の歴史の中でずっと理想とされてきたフォームなんだ。皆がお手本として良い打撃だー 。」


前田自身もまた、落合の事は認めていた形跡がある。
前田は謙虚な男であるから目上の人物には礼儀正しいが、それを差し引いても落合は別格に見ていたと思われる。

イチローについては 「内野安打なんか打って何が嬉しいのか」という前田の発言が痛烈である。


これはイチローと前田の、ヒットに対する考え方の違いに過ぎないが、理想の打球を追求して求道者の如くあり続けた前田だからこそ言えるセリフでもある。



(イチローの為に弁護しておこう。彼の内野安打は、彼の高度なバットコントロールの結果である。即ち野手の間を抜く ー 狙った所に打つ、という彼にしか出来ない技術が、たまたま野手に追いつかれた、というケースのモノであって、やはりそれは尋常なテクニックではなく、メジャーも含めた野球の長い歴史の中でも "至宝" と呼んで差し支えない程の技術である。)






前田智徳

2014-07-29 00:31:18 | 
"前田" といえば私にとって、前田敦子でも前田吟でもなく、前田日明でもないし、前田太尊でもない。
むろん前田慶次郎でも利家でもない。

私にとって前田といえば、広島東洋カープの前田智徳以外にはない。




以前榎本喜八についてふれた時、いずれ前田智徳について書きたいと予告していたので、ここらで書いてみようと思う。

近年のカープファンにとっても前田といえば "マエケン" 前田健太の印象の方が強いかもしれない。

前田健太は素晴らしい一流の投手である。
人間としても野球選手としても明るくて努力家で立派な人物といえよう。




だが、人間として、少なくとも "男" としての魅力で前田智徳には及ぶべくもない。
私にとっては生涯前田といえば、前田智徳であることは変わらないだろう。

"前田智徳" ー この孤高の天才は去年惜しまれながら引退した。

しかし、不思議と悲しくはなかった。

それよりも前田の為にホッとした、というのが正直なところである。
これは前田を愛する者たちであれば共通した感覚ではないだろうか。

あまりにも永く厳しい怪我との闘いの日々、何度も倒れては立ち上がり孤高の道を歩み続けた二十有余年…。
前田はもう十分にやった、ゆっくり休んで欲しい…。

前田引退の報を聞き、感じた想いは以上の様なモノであって悲しくはなかった。しかし、もう前田は観られないのか、と思うと広島カープ自体よりもプロ野球自体に対する興味まで薄れていった寂しさを感じたことは覚えている。



"長嶋" 引退の頃は私は知らないが、長嶋ファン達が感じた寂しさは何となく想像できた。

その長嶋茂雄をもってしても、"天才" と呼ばしめた男 ー サムライ前田智徳という男について書いてみようと思う。


完璧9

2014-05-01 08:09:42 | 
本当はスポーツ自体には問題などない。競技性の面白さや余分な体力の発散には極めて有効である。

それをことさらに問題視する理由は、教育に組み込まれているからである。
体育とスポーツは同義だと思われているが、体育の一要素にスポーツがあってもスポーツそのものは体育に必ずしもならないことになかなか気づく者はいない。

むしろ身体を壊してしまう者の方が多いし、特に道具を使った競技は身体のバランスを崩しやすく、近年の器具によるウェイトトレーニングは脆く見掛け倒しな肉体を造るばかりである。



要するにスポーツにはスタート地点である程度才能に気付ける者にしか達人への道を用意していない。
しかしスポーツの問題点や人間の持つ深淵な可能性はここでの主題ではない。

これは次回、「ブッダ」というテーマで触れることにしようと思っている。

だが、そのスポーツの世界においても圧倒的に高い能力によって偉業を成し遂げた者達の "動き" の美しさはやはり目を見張るモノがあり、"自在性" という世界に限りなく近いところまで迫っている。

近いところでいえば、バスケットの神様といわれたマイケルジョーダン。



全盛期のロナウジーニョの鋭いフィジカル。



エル フィニート、52戦無敗の王者リカルド ロペス。



六階級を制したフィリピンの英雄マニー パッキャオ。



400戦無敗といわれたヒクソン グレイシー。



呼吸器の限界に挑戦したジャック マイヨール。



日本人トップクライマー平山ユージ。



そしてイチロー。走攻守全ての所作が美しい。( 彼は自分がいかに美しくプレーしているか自覚している。その意識が多少露骨に過ぎる気配もあるが、それを差し引いても彼の洗練された動きは見事というしかない。)



そのイチローをして最高の投手といわしめたペドロ マルチネス。実際メジャー史上でも最高の投手の一人だと思う。



彼ら全てに共通しているものは競技に関係なく、身体バランスの美しさだろう。当然だが、手足の長さとかいった事ではなく、フォームの事である。

どんなに激しい動きの中でも軸がブレずに中心が安定している。
それは鋭さを伴った美の表現を可能にしている。芸術といっても差し支えない。

"美" とはけして女性が独占すべき言葉ではない。
むしろ男のためにこそ存在する言葉ではないかと彼らを観ていると思ってしまう。

そのパフォーマンス性の高さは "自在" に極めて近くて、"完璧" な現象に迫りかけた偉大な者たちである。