思考の踏み込み

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再開

2015-01-25 08:22:54 | 日記
余りにも仕事と私生活が多忙を極め、投稿する時間が一切とれなかったためしばらくお休みさせて頂いてました。

多少落ち着けたので投稿を再開しようと思います。

書きたいテーマは山ほどあり、頭の中に構想もできているのだが、なにぶん時間が無いので今後はのんびりしたペースで投稿する事になるかもしれない。
とりあえず今回は手頃なあたりで日記系の記事を。





最後の投稿が「DANGEROUS BOX」という劇団についてだったのでその繫がりで観た舞台について。

懇意にさせてもらっているDANGEROUS BOXの役者さんがA P B Tokyo という劇団に客演するので是非いらしてくださいー というお誘い。

聞けばこのAPBは寺山修司劇団との事。

これは面白そう。

ー というわけで丸二日ほど寝ていない合間を縫ってまたまた舞台鑑賞という事になった。



寺山修司。

この、言葉の錬金術師といわれた天才について ー ここで書くつもりはない。

いや、書いてみたい衝動に駆られてはいるのだが、私自身寺山についてあまり詳しくないので自重する。

今回の舞台は昨年亡くなられた寺山の元夫人、九条今日子追悼公演ということであった。



演目は九条が好きだったという「疫病流行記」。

九条はこのAPBをいつも観にきて目にかけていたという。

寺山が世を去ってすでに30年以上経つ。
にもかかわらず、寺山の作品に魅了され、その世界観を描き出そうとし続ける劇団が今なおいるというだけで、寺山修司という男の価値がいかに揺るぎないものだったかがわかる。

大袈裟ではなく、私個人的には長い日本史におけるあまたの文学者達の ー きらびやかなその系譜に、確固たる地位でもってその名は刻まれるであろうと思っている。

そのくらい寺山の言葉は鋭くて自在である。

それはむしろこれから、よりその評価が再発見され見直されて、高まっていくのではないだろうかと思う。



DANGEROUS BOX4

2014-11-17 01:12:23 | 日記
今回の演目はDBのテーマ曲から見ると、内容がそれにストレートに沿ったものであった。

色をひさぐ花魁という遊女たち。

その心の慟哭。

進行上で主要な位置を占める一華 (いちはな) は言う。

「私達は金魚。外から見られる事で美しく泳いでいける。」



「だけど…その水槽の内側は…。」


一華は悲しそうに謳う。


" 月も朧に 白魚の
篝も霞む 春の空

冷てえ風も ほろ酔いに
心持ちよく うかうかと

浮かれ烏の ただ一羽… "


DBの舞台は音楽的だと言ったが、台詞の一つ一つは極めて繊細な言語感覚で貫かれた文学性を有している。

活字で台本を読むことができれば、それはそれで面白いであろうと思う。

ここでは歌舞伎の「三人吉三」の有名なお嬢吉三の独白が引用されている。





" ー ほんに今夜は 節分か
西の海より 川の中

落ちた夜鷹は 厄落とし
豆だくさんに 一文の

銭と違って 金包み
こいつぁ春から 縁起がいいわえ "


本来はお嬢吉三の気丈さを描写している科白であるが、最後の場面で涙ながらに一華はそれを語る。

遊女という、特殊な生業でもって生きる者の、人生との向き合い方を浮かび上がらせることはその事じたいをより象徴的に我々に提示してみせる。

最後の一華による、お嬢吉三の名文句は ー その文句の威勢の良さと対称を成して彼女の哀しみを強調する効果を生み、演出として見事な成功を果たしたー 。





DBに興味のある方は一度ご覧になってみてはいかがだろうか。

近頃は役者陣のレベルもあがってきて、構成の高さに追いついてきている。
願わくばー 今後もこの劇団がブレる事なく真っ直ぐに歩み続け、表現芸術における新境地を開拓せんことを。









DANGEROUS BOX3

2014-11-16 01:32:46 | 日記


" ー 別に好きでこんな服を着てるわけじゃない。

別に好きでこんな顔をしてるわけじゃない。

だって派手な衣装で隠さなきゃ。
だって派手な化粧で隠さなきゃ。

だって剥げた心を指差して。
貴方達 笑うじゃないの ー 。"





中村 中 (あたる) の名曲 「リンゴ売り」
がDBのテーマ曲の様になっている。
舞台の幕開けはこの曲と共に始まる。

これはどんな演目のときも、必ず流れる。
私自身大好きな曲である。

それは一人でたくましく生きる女心の悲しみと切なさをやや自虐的に謳い上げる曲である。

自虐性などは愚かな感情である。
しかし、強く精一杯生きる者には、時に心が弱った時、そういう感情に襲われることは珍しい事では無い。

そういうとき、人は "自虐" という心の酒成分を分泌させることでその悲しみを柔らげる事をする。

これは真剣に人生と向き合っていない者には伝わりにくい感情かもしれない。
また単なるマゾヒズム的な自己愛に浸る性格の者たちのそれとも少し違うであろう。



性同一性障害を告白し、矛盾を矛盾のまま受け止めてしなやかに生きる、この ー 歌い手の曲をオープニングテーマとして流し続けていることは、そのままDBの表現しようとする世界観を雄弁に語りだしている。

生きていく中で時にどうすることも出来ないことなどはいくらでもある。
現実を受け入れる以外に、どう足掻いてもどうしようもない時や事は誰にでも、どんな者にも訪れる。

それでも前に進む。

歪まず、諦めず、やけを起こさず。

その途上で倒れることがあったとしてもそれは仕方ないではないか。

ー そんな "生きる" という事の悲哀をDBはいつも鋭く切り取り、演劇という手法を使い描きあげる。

中村中の「リンゴ売り」はこう続く。





" ー 誰にだって いい顔ばかりしたいわけじゃない。


だけど軽い口調で流さなきゃ。
だけど軽く笑顔で答えなきゃ。

勝手な事 散々言っといて。
貴方達 笑うじゃないの。


私を買って下さい。
一晩買って下さい。

綺麗な服も 長い睫毛も 何も残っていない。

私を抱いて下さい。
一晩抱いて下さい。

お金じゃなくて 体じゃなくて 愛は在りませんか……。




DANGEROUS BOX2

2014-11-15 08:19:30 | 日記
今回の演目のタイトルは "晩餐協奏獨祭" 。

遊廓と花魁という世界を題材にして、色と欲と、金と見栄と、美しさと儚さと、愛と狂気と、純粋さと醜さとー 。




様々なテーマがめまぐるしく移り変わる。

これこそDBの真髄であるが、場面の展開において連続性も脈絡もほとんど重要視されない。

演劇というのは強いて分類するならば文学的なカテゴリーに入ると私は思うのだが、DBに関してはまるっきり異色である。

彼らの演劇はまったく音楽的である。
それも特別な主旋律もない、ただ美しい音だけを散りばめて即興的に音楽を奏であげるジャズに近い。



そこで展開されるセリフは人物が交錯し、過去と未来が入り乱れ、複数の場面が同時に重複して、なおかつ同じセリフを同時に違う役者が叫び、ハーモニーを奏でポリフォニーに発展し時にヘテロフォニーを成す。

それは例えば佐々木昭一郎の映像詩のように、物語性という演劇における骨格をハナから粉々に破壊してかかる。

しかしそれは破壊だけを目的とした安易でエセな芸術的志向などとは毛色が違う。
物語性にはどうしても間伸びした説明や、退屈な接続語などが伴うものである。
DBのスタイルはそれらをを省いていって、鋭くー あくまでも鋭く "台詞" という表現の可能性を追求した結果によるモノであると私は思う。



それでいてDBの舞台は、毎回中盤から終盤に掛けて、強烈に演劇としてまとまり始める。




セリフという和音は、主題という主旋律に回帰して作品としての統一を果たしやがてそれはピークに達する。

(ここでいう主題は演目としての主題ではない。彼らが劇団として常に訴え、叫ぶところの、言ってみれば "人生" というテーマである。)


これはけして万人受けする内容ではない ー 。

始めて彼らを観たときにそう思った。
果たして彼らはいつまでこの方向性で歩めるのか。
そんな危惧も同時に抱いた。

それから既に5年は経つだろうか。
ありがたいことに彼らはほとんどブレていない。
万人受けする為に、観客に媚びようとはしない。
これは見事なことである。




DANGEROUS BOX

2014-11-14 06:50:43 | 日記
11月初頭、大好きな劇団の舞台を久々に観に行った。




「デンジャラスボックス」


このー 我が愛すべき劇団について書いてみようと思う。

もともと私は舞台演劇というものが好きではない。
舞台に限らずあらゆる芸術表現において、表現者の一生懸命さや必死さが伝わり過ぎるとその表現を見つめる側には重苦しいだけである。

これはスポーツを観ていればそんな事はないのだが、芸術表現世界になると生ずる不思議な感覚である。



その原因は芸術の本質と関係してくる質のモノだが、その事は「新しさ」という主題で既に投稿してあるので省く。

ここではあくまでDBという集団について書きたい。

ただ彼らももちろん以上の範疇で言えば、そうした演者の "汗" を隠すとかいった美意識はない。
その感覚を突き詰めれば "能" という舞台芸術における最高峰に向かわざるを得ないが、そうでなければならないとは限らない。

彼らがやっていること、やろうとしている事はその舞台演劇の弱点を相殺して余り有る魅力があり、なおかつ常に既存の在り方から自由になろうとする強い意思を感じる。

その辺りが本来舞台演劇を好まない私が毎回観に行ってしまう理由でもある。



そもそも始めのきっかけはDBの女優さんと知り合い、舞台に誘われて付き合い半分で行ってみたという程度であった。

しかし一回でファンになってしまった。
ある固有の演者さんのファンになったとかではない。
脚本でもない。

構成と演出にである。
従って誤解を招かずに言えば舞台の内容そのものは、この劇団に限ってさして重要ではない。