思考の踏み込み

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ブッダ32

2014-06-04 01:18:34 | 
正しく二本の足で立つ ー 。

それは腰が弱いとできないものだ。
しっかりと足の内側に重心をかけ、第一蹠骨で立たねば、腰は決まらない。
猿はついにこの第一蹠骨を発達させることができずに猿のままでいる。




だが心と身体は表れが違うだけで、一つのものであるから覚悟を決めるだけで腰は強くなり、中心がでて拇指球で立てるようになることもある。

身の密なるを心といい、心の疎なるを身という ー 。

光が粒であり、波でもあることに似ている。

真に寄りかかるべき柱の無いことに気づけばこそ、肚が座って身体が統合に向かい、大悟にも至れる。

"撃竹大悟" や "桃花悟道" といったエピソードも同じであろう。
なぜそんな事で悟りに至れるのか、頭で考える者には禅坊主の虚言にしか聞こえまい。

狩野元信 香厳撃竹。

しかしこれも身体の統一へ向かう鍛錬の果てに、ブッダ16で触れた他の一点との統合というのが実際だろう。
芭蕉の "蛙飛びこむ水の音" も質として変わらない。


当然だが理屈でその事を知ったからとて誰も彼らと同じわけにはゆかない。
その前段階のその鍛錬をしるべし。



たとえば ー 国の制度に寄りかかる者、病院に寄りかかる者、家族に依存する者…

スピリチュアルという観念世界に寄りかかって現実から目をそらす者。
(もちろん中には本物もいるが、ほとんどは観念であろう。観念とそうでない確かなものとを区別する方法はD先生の身体技法にある。)

またはパワースポットとかいって何かの力を手軽に得ようとする者。境涯や運命のせいにして自己と闘わない者。
占いに一喜一憂する者…。



政治家に社会の責任をなすりつけること。
(政治家などは真の権力者の操り人形か御抱えの役者でしかない。彼らの政治劇場に振り回されるのもそろそろ止めにしてはどうだろうか。)

あるいは教育そのものを学校や教師に丸投げする親達。
教育とは親もしくは社会が行うものだ。学校は勉強を教わるところである。

一人でも二人でも、こうした寄りかかりの精神構造から抜け出してゆけば少しはマシな世の中になってゆくかもしれない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿