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思考の踏み込み

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戦国夜話10

2014-03-22 09:35:02 | 歴史
道三、久秀、村重とくれば極め付けはやはり宇喜多直家であろう。

世に下克上の流行していた時代、直家こそはまさにその申し子の様な男といって差し支えないと思う。



毛利元就、尼子経久と共に中国地方の三大謀将と言われているが、悪人ぶりでは直家が小気味いい程に一つ抜けている。

何故なら彼の下克上の手段はほとんど合戦というものがなく、毒殺や闇討ちなどの暗殺、謀殺につきているからである。

ここまで陰惨だといっそ清々しいほどの悪人ぶりといえよう。

だが、この尋常でない所業も直家の幼少期、祖父が暗殺され、父と共に放浪の境涯を送った過去ということを考えると理解できなくもない。

彼はその復讐を成人して後、見事に成功させている。
このあたり、他の戦国成り上がりの野心家達とは少し趣が違うといえる。

だが、その実弟でさえ兄直家の前に出るときは鎖かたびら無しでは恐ろしくて出られなかったという逸話を考えると、その周辺の景色の異様さは戦国の風景の中でも突出している。

人はどこまで悪行を行う事が出来るか ー 直家の人生は心理学者などには貴重なモデルケースといえるかもしれない。

戦国夜話9

2014-03-21 08:40:24 | 歴史
悪人列伝となってくると触れざるを得ない人物がいる。

荒木摂津守村重である。



彼もまた悪人どもの例に漏れず、主を追い権力を手繰り寄せた人物だが、日本史上でも最も理解し難い行動をとった男でもある。

有名な信長への謀反から、有岡城の単身脱出である。

このため村重の一族家臣たちはことごとく処刑された。
村重の不可解さはその後なお、秀吉の庇護を受け生き続けた事にある。

仮にも一時は織田軍団の有能な将として信長に認められたほどの男が、妻子重臣たちが惨殺された後も平然とその余生を送った心事というのは、ちょっと想像し難いものがある。

一説には黒田官兵衛や秀吉と、信長暗殺の陰謀に関わりそれ故に秀吉が保護したともいわれるが、その実際はともかく、それだけでは村重が生に執着したことの説明にはならない。

このことはある一点から焦点を当てて見たときに唯一かろうじて後世の我々を納得させるものがある。

それは何か?

もちろん村重がキリシタンで自殺ができなかったなどという事ではない。

彼は茶の湯の魅力に憑かれていたらしい。

死んでいった者たちの亡霊に夜毎うなされながらも、なお生にしがみ付いたということは、この時代の瑞々しい茶道という、新しい芸術の魔力的なまでの魅力を想像しなければ中々理解に至れない。

だがその一点から荒木村重という人物を見ると、これ程に正直で人間らしい男もいないとさえいえないだろうか。

毀誉褒貶も後世の評判も、全て投げうっても生き続け、浮世の美に執着したこの男の姿はまったく愛すべき戦国の一奇景といえよう。


戦国夜話8

2014-03-20 07:42:49 | 歴史
戦国時代がカラリとしているせいか、史上 "悪人" として扱われている者たちでさえ、どこか愛すべき存在に思えるのもこの時代の日本の特徴ではないかと思う。

彼らの所業は松永弾正久秀に見られるように主筋への謀反や裏切り、さらには中世的権威の象徴たる大仏殿焼き討ち、そして室町将軍の暗殺と、まことに凄まじい。



それは信長をして、常人になし難いことを三つもやりおおせた男。と言わしめたほど。
( 信長は密かにそんな久秀に私淑?していたのか?家臣の所業に厳しいこの男が何故か久秀の裏切りを二度も許し、三度目さえ許そうとしていた。)


彼ら悪人どもは太平の世なれば行い難い事もためらいなくやってしまう。そこには七面倒な正義や悪といった倫理観が置き忘れられたかの如く存在せず、変革期特有の時代のうねりだけが真実として有り、彼らを突き動かしていた様でさえある。

さて、世に三大梟雄といえば北条早雲、斎藤道三、松永久秀であるが、彼らに共通しているのは深い教養と軍事的才能、そしてそれに伴う謀略の力であろう。

そしてこの時代の流行であった茶の湯。

久秀などは名物 "平蜘蛛" と共に爆死した程に傾倒していた。
( 日本史上初めて爆死した男ともいわれる。)

これらの多才さが彼らをして単なる悪人に終わらせていない理由であろうか。
またキリシタンという文化 ー この時代の武将達にとっては "宗教" ではなく文化として受け入れていた感が強い ー も
この時代を彩った重要な要素として注目すべきである。

その刺激によって例えばこの時期の甲冑の美しさと多様性はもはやまぎれもない芸術であり、この戦国という舞台を美しく昇華させる最高の小道具となっている。以下一例。

会津宰相蒲生氏郷

徳川四天王井伊直政

越後の龍上杉謙信

黒田長政大水牛兜

戦国夜話7

2014-03-19 06:31:34 | 歴史
"英雄達" の質の違いや大小の差は時代、地域で変わるものだが、発生密度ということもまた変化のあるものだろう。

この意味で日本史上、最も多くの英雄がいた時代 ー それは "戦国時代" であることは紛れもない。

( 源平時代や幕末なども発生密度が高いが、全国規模である点で戦国期には及ぶまい。)

彼らは現代のマスメディアが生み出す擬似的な英雄でもなければ、漫画家の空想から生まれた架空の存在でもない。

全て ー 大地から湧き上がるようにして現れ、たしかにこの国に実在した者たちである。

それは陳腐な小説や映画の主人公などより遥かに魅力に富んだ存在といえよう。

そして基本的に英雄とは並び立たないものであるが、稀に英雄同士の対決という事が実現する事がある。



世にこれ程の見ものは中々無いだろう。

それが無数に起きたのが "元亀天正 ー 戦国の世" なのである。

そしてこの時代は古びた中世が音を立てて崩れ、新しい世界が生まれようとしている空気感で満ちている。

この点も現代の我々にとって抵抗がなく、無邪気に楽しませてくれる要因だろう。
つまり習慣や伝統というものに囚われない、より生身のニンゲンに近い群像達の時代であったのではないか。

戦国時代の日本の印象がどこかカラリとしているのはこのあたりにもその理由がありそうだ。

戦国夜話6

2014-03-18 07:29:51 | 歴史
"英雄" ー という言葉についてここで一度触れておこう。

いつの時代であれ、英雄、あるいは英雄視される存在というものは居る。



彼らに共通するモノは、絶対的に人を惹きつける魅力、圧倒的な実力と行動力、それを裏打ちする勇気や精力や野心。

あるいは明晰な頭脳であったり、鋭い直感だったり決断力だったり、良く陶冶された人格であったりする。

およそ世にある娯楽の中で "人間" を観るものほど楽しいモノは無い。
と、いうより絵であれ、小説であれ、映画だろうが、スポーツだろうが、その内容そのものを純粋に楽しむモノなど存在し得ない。

全て、そこにある "人の行為" を人間は見ているものである。
この構造があってはじめて "英雄" という存在を常に求める社会心理が成り立つのであろう。

だが、実際は英雄、もしくは英雄的、とされる人間なんて周りにいる者たちにとっては、振り回されるばかりで迷惑なだけであろう。

つまり日常的世界には必要の無い存在だということである。

それを敢えて必要としなければならない "時" がある。
即ち "非日常的時代" である。

それは乱世であったり、変革期であったりするわけだが、この "非日常性" は常に人間の心理として欲せられるモノでもある。当然その背後には "日常" からの脱出というたゆまざる欲求がある。

従って平穏無事な時代であっても、英雄的な人物は大小の差はあれど常に生まれ、また生まれては消えていく。

歴史というものは紛れもなく、人の行為の集積であり、そこには「人は人を観ることが好きな生物である。」という原理が息づいている。

そうした歴史的視点でみると英雄たちの器の大小というものも明快になる。
( これを世界史的な視野にまで広げると、日本の英雄との質の違いが出てくるので、ここでは日本に限って考えている。)