nekomitu日記

ポンコツ日記

寂しい?

2016-07-21 08:53:17 | 日記


先日、私のブログやSNSを見ている方から
「あなたは寂しいの?」と聞かれた…

私はこう答えた
「全て寂しい訳ではなく一部分だけ寂しい時もある」と…

これは正直な気持ちだった。

私は基本的に一人の時間が好きだ。一人の時間を確保できないととにかく疲れる。

だけど時々
無性に誰かにそばに居て欲しいと感じる時もある。あくまでもそれが全てではない
そう…たまに「そんな時もある…」わけです。

このブログも寂しいから…誰かに見てもらいたいから…という理由で書いているのではなく、

その時の自分の感情を書き留める感覚だし、履歴を残すという目的がある。

確かに…その人が言うように、誰でも見れる状態にする必要はないだろう。

これまでも自分のブログで折に触れて、ブログやSNSを投稿する目的や、背景を書いてきたが、要は「そうしたいから…している」以外何も理由はない。

にしても…
私はそんなに寂しい人間に見えるのか?とそもそも「寂しい」って?どんな意味だろ?と思い、言葉の意味を調べてみた(笑)

《形》活気を失い、満ち足りない。
親しい人が居ないなどで、心が満たされず物悲しい。

とあった…。

あれ?活気もあるし、満ち足りてるぞ??

ついでに「さびしんぼ診断」なるものを見つけ、暇だったのでやってみた(笑)↓

http://mirrorz.jp/article/samishinbo-test/

結果
「あなたは独りで居ることも苦ではない、でも他人と一緒でも楽しめる、という孤独と協調を使い分けできるタイプです。大勢の方が楽しいけれど、少人数や独りでもそこそこ楽しめる。大抵は友達と行動するけれど、たまには独りで自由に行動したい。寂しさ、孤独に対するバランスが取れているため、結果として他人からも「付き合いやすい人」と思われることが多く、結果として寂しさとは無縁の生活を送れているはずです」…

と結果が出た。他人から「付き合いやすい人」と思われているかどうかは別として…そうそう!そのまんま!その通り‼︎と納得の結果だった(笑)

何かに囚われたり、執着する事をやめてから
寂しい、淋しい、とはあまり感じなくなった気がする。

囚われと執着の対象となる事柄や人が
ままならないから寂しい、淋しい、辛いと感じるんだと…。

とはいえ…

私も感情ある人間であり完璧ではないので、ふっと「なんか寂しい」と思う日がある訳です。

もし仮に、寂しい…この寂しさを埋めたい…と強く願うのならば、埋める為の努力を惜しまないだろう…

また、孤独に対する耐性を自らに問う時、自分が弱い人間なのか?強い人間なのか?にしても同様のことが言える…「弱くなる時もある」が私にとっては正しい。

このように、寂しいか?寂しくないか?強いか?弱いか?二元的な考え方をやめるようになった時、ありのままの自分を受け入れるようになった時、心に静寂が取り戻せると私は思っています。

禅語でいう「両忘」の思考でしょうか…
何でもかんでも白黒はっきりさせようとするから
人は悩み苦しむのだとこの禅語は教えてくれます。

生きている時に「死んだらどうしょう」とくよくよ考えないで、生きる事に徹すると、死を忘れる事ができる…

さらに、死ぬことも生きていることも両方とも忘れると、心に静寂が得られるという感じです。

更に恋愛でいえば…

「あの人は自分をを愛しているのか?愛していないのか?」白黒はっきりとさせなければ気がすまない…

もし、相手が愛していないという結論出ても満足なのだろうか?愛しているのなら、愛することに徹すればいいのでは…。そんな感じでしょうか…

何が言いたいかというと、「それが全て」ではなく「そんな時もある」「そんな日もある」若しくは「どちらでもない」が私の捉え方だ。

なので、少なくともブログを書いている時は
実に充実した時間を過ごしていると思う。

ブログもSNSも見た人の捉え方は様々だろう。

偏見と憶測に満ちた目で見れば「あの人自己掲示欲求が強いよね」「寂しいんだろうね」「かまってちゃん」なんだよ…と、私=寂しいかまってちゃん人間なんだ…と結論付けるだろう(笑)

だけど、それでいいんです。

なぜなら…事実は「そうではない」からです。

弁解するつもりも、正当化するつもりもありません。それが私という人間なのですから…。

「今」と「中庸」を基本に物事を捉え、判断し、客観視する事が思考の癖となり、
今を生きる事を楽しんでいる…。それが全てなのかもしれません。