こんにちは。
ぬけヨガ神戸のしちみです。
秋分の日ですね。
暑さは過ぎ去り、空気は乾燥して、”あたたかい”の嬉しい季節となりました。
ソックスを履いて、首もとに何か巻いて、お湯を沸かして、ようやく窓を開ける。
朝のルーティーンも変化していきます。
そのうち「ストーブを点ける」が入ってきたり、夜には「湯たんぽを仕込む」が加わるのだなぁ。
ゆっくり冬へと向かう日々ですね。
今日、何かの記事のタイトルに「農薬は洗って落とせるのか」と書いてあるのを見かけました。
農薬を落とすにはホタテの貝殻の粉がいいとか、何を入れて何分漬けるとか、いろんなことが言われていますが、実際のところはどうなのでしょう。
私が農薬のことを気にするようになったのは、『複合汚染』(有吉佐和子著)を読んだころからかなぁと遠い記憶をたどります。
『沈黙の春』(レイチェル・カーソン著)を読んだときの感触も思い出されます。
実際に生活のなかで、農薬や環境への影響ということなどを意識するようになったのは、ボラボラ島のそれは美しい海で泳ぎ、帰国してボラボラにまた行きたいなぁと思いながらお風呂につかっているときに、「この水は、あの海につながっている」とハッキリわかったことがきっかけだったように思います。
何で洗うか。
何で掃除をするか。
何を流すか。
何をどう捨てるか。
何を肌につけるか。
何を口にするか。
何を選ぶか。
なるたけ水を汚さないもの、自然に負荷のかからないもの、自然に還るものを選ぶようになり、そのうち、そういったものを使っているほうが自分自身も快適であることに気づいていきます。
ただ、無農薬の野菜は、お店で売られているものはあまり元気がよくないように見えて、高くて売れないから萎れかけているのか、無農薬だから虫食いだらけなのか、食べても「おいしい!」をたいして実感することもなくいたところ、素晴らしい八百屋さんとの出会いがありました。
その八百屋さんから、原種とか、固定種とか、有機栽培と自然農の違いとか、いろいろ教わりました。
そして原種の野菜の滋味深く力強いおいしさを身を以て知りました。
その後、3.11の東日本大震災があり、いろんな経緯があって、神戸の西の端っこへ移住することを決めました。
移住したら、畑をする。
消費する生活から、循環する暮らしへ。
なんて理想を思い描いての移住でした。
畑といっても、貸し農園の一角をお借りしての、ちいさな菜園。
野菜を育てるなんて初めてのことだし、「畑に畝を作る? え、私が?? どうやって? 鍬を使う??? どうやって?????」みたいなところからのスタートでしたが、それでも私の暮らしは、大きく変化しました。
『農薬は落とせるのか』というタイトルを見て、ああ私はもうそんな心配と無縁で居られるようになっているのだなと、改めて思いました。
畑で育つ野菜は、本当においしいのですよ。
畑でできるものを食べていれば、旬のものをふんだんに摂っていることになりますし、何より新鮮で、言うまでもなく農薬や化学肥料などは使っていないので、何の心配もなく(青虫がいないかは要チェック!)安心して口にできます。
誰に「安全」を保証してもらわなくても、自分でよくわかっているという安心感。
以前は、大好きな茄子を冬にも食べていましたが、畑をするようになってからは、夏の間に「もういい」ってくらい茄子を食べるので、自然と冬に茄子が食べたいとは思わなくなりました。
むしろ、冬にトマトと胡瓜のサラダが出てきたり、焼き茄子が並べられると、びっくりしてしまう。
出してもらえば、もちろんおいしくいただきますが、それは特別な食事であって、日々のご飯とは別のもの。
そんな感じになるなんて、移住前には考えもしていませんでしたが。
それまでの「ほぼベジタリアン」から、数年前に"ほぼ"が抜け、菜食になったので、あとはお米や調味料、お揚げやスパイスなどがあれば、じゅうぶんおいしく暮らしていけます。
ちいさな暮らしになったなぁと、自分でも驚きます。
ちいさな暮らしだけれど、たいして不足を感じない暮らし。
アレがないと。
もっとしないと。
あの人がいないと。
この人さえいなければ。
そういう急き立てられるような感じが、遠のいていくような。
むしろ、食も、時間も、暮らし自体も、豊かになっているような。
西への移住を決めたころは、畑もしたいけど30分以内に映画館に行ける範囲、とか思って家を探していましたが、いまなら映画館や美術館との距離よりも、家の前に畑のあるところ、がポイントかもしれないなぁ。
できれば、火の焚けるところ。
海がすぐ近くにあるいまの住環境は最高だなと思いつつ、次は樹々に囲まれたところがいいな、なんてこともちらりと頭をよぎったり。
ヒトって変わるものだなぁと、自分をみていてつくづく思います。
でも、変わるけど、変わらない。
あのとき、あっちを選んでいたら。
このとき、そっちにいっていたら。
目の前にあるたくさんの選択肢のなかから、別の選択をしてどんな出会いをし、どんなルートをたどっていたとしても、きっと、だいたいいまくらいの時機に、いまくらいの「私」になっているのだろうなぁと思います。
たいして、変わらない(笑)。
いまのちいさな暮らしから、次はどこへいくのか、いかないのか。
まだまだたのしみは続きます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます