ぬけヨガ神戸◎しちみのブログ ~猫とさかな通信~

神戸でヨガと畑、始めました♪
ヨガで深まる心地よさを共有したくてぬけヨガクラスやイベントしたり、畑で野菜を育てたり~◎

見つけた光

2016-03-11 | 暮らし方を変える◎
おはようございます。
ぬけヨガ神戸の、しちみです。

2011年3月11日。
あの大きな地震の起きた日から、丸5年が経ちます。
地震、津波、ひとりひとりの受けた甚大な被害。
そのうえ原発まで爆発して、
いまも避難生活を続けざるを得ない方たちがいます。
カウントされてはいないけれど、
わたしも含め、それぞれの理由や意志で、
避難、移住を選択した無数の人たち。
あれからのひとりひとりの時間、
たくさんの想いが、
消え去り、積み重なって、
5年になります。

震災5年、避難なお17万人超え 災害公営住宅、建設遅れ(朝日新聞デジタル)

わたしは、あの地震によって魂ごとぶん殴られたような衝撃を受け、
それまで自分の立っていると思っていた足元が、
文字通り、揺れ崩れました。
自分の暮らし方、生き方が根本から揺さぶられ、
このままではいけない、と思い知るようになりました。

そのあたりの経緯は、こちらにも書いています。
ちょっと長い、移住にいたるまでの話

何よりも、こわかったのです。
深度の異なる"こわさ"が次々と立ち現れ、
それが現実だと認識するまでにたくさんの時間がかかりました。
地震の揺れもこわかったし、
明らかになっていく被害もこわかった。
津波、原発、救助活動、泥、避難所、対策として東電が"オムツ"を投入、
計画停電、だけどわたしの住んでいるあたりは停電にならなかった、
なぜなら東電の"偉いさん"が住んでいるからという噂、
水道水から放射性物質が検出され、あらゆる店からミネラルウォーターの消えた日、
閑散とした電車、大きなサムソナイトをごとごとひいていく家族、
爆発した原発のなかで起きていること、
爆発した原発をどうにかしようと働いている人、
その他の稼働している原発で働いている人、
放出されているもの、
報じられること、
報じられないこと。

このままではマズい、ということがよくわかりました。

特別ぜいたくをしていたわけではないけれど、
わたしは身近にある"便利さ"を疑うことなく、
まるで便利なことが当たり前であるかのように暮らしていました。
在来種や無農薬の野菜を買って食べ、
電気がどこから来ているか考えもしない生活。
2、3分も待てば電車はきて当然だし、
モノも料理も仕事もヒトも学ぶ場も遊ぶ場も、
なんでもかんでもあって当たり前の暮らし。
そういったことの向こう側にあるものを薄々感じながらも、
なるべく目を逸らし、深く考えないようにしていた。

その"見えないこと"にしていた部分が、
次々と目の前に突き付けられました。

原発に関して言えば、
当初、わたしはこれですべての原発が取りやめになるのだろうと思っていました。
これだけの規模の事故を起こしたのだから、
もう2度と、原子力による発電は行われなくなるはずだと。

ところが、まったく違いました。
政府の方針、国策、原子力ムラ、膨大な利権構造、核兵器を作る潜在的能力の保持……
原発を動かすための理由が表に裏に並べられました。
電気は足りていても、原発はなくならない。

原発の近くに住む人たちの安全は確保されているの?
働く人に被曝を強いる原発は本当に必要?
万が一、再び事故が起きた場合の対策は?

疑問だらけです。
だけど、被曝するとわかっていても、
原発で働かざるを得ない人たちもいる。
安全ではないとわかったいまでも、
原発に頼らないと成り立たない土地がある。

一気にすべてが変わることなど、
とても無理だということが、
わたしにもわかってきました。

震災から3年と2ヶ月弱経ったころ、
わたしは暮らし方を変えようと、
東京から神戸に移住しました。

長年住んでいた大好きな東京を離れるのは、
そうたやすいことではありませんでした。
だけど"東京を離れる"ことは、
それまでの暮らしをよしとしないという、
わたしの意思表示のひとつになると考えました。

誰かの犠牲のうえに成り立つ生活。
消費するばかりの、いいとこどりの暮らし方。
気づいてしまった以上、
そのままではいられなかった。

それぞれの人にそれぞれの事情があり、
それぞれの意志の表し方があるのだと思います。

わたしにとってのそれは、
東京を離れる、
暮らし方を変える、
でした。

仕事のあてもないまま移住し、
環境にもできる限り負荷をかけない方法で、
わたしの大好きな無農薬の野菜を育て始めました。
ほしいものがあったら何も考えずに買う前に、
いまあるものを工夫してみたり、
自分の使ったお金がその先でもいい流れに乗るように、
なるたけ買う場所や相手を吟味するようになりました。
電車を15分待つことにも、ずいぶん慣れました…(笑)。

わたしがすこしばかり暮らし方を変えたからといって、
すぐに何かが変わるわけでもないでしょう。

それでも、ほんのささやかなことだとしても、
わたしの暮らし方は、変わった。
それも移住を決意したときのように、
意志的に"暮らし方を変える"というのではなく
いざ新たな暮らしを始めてみると、
自然とより心地いいほうへと流れが生まれて、
どんどん変わり続けていくのです。

わたしだけではなく、
わたしの知っている範囲に限っても、
たくさんの人がそれぞれの想いや考えから暮らし方を変え、
消費するだけの暮らしではなく、
つくりだす暮らし、
何かのかげで誰かが泣いていることのなるたけない、
ずっと続いていく世の中を目指し、
もぞもぞごそごそのんびりと動いています。
そういう人たちとのたのしくゆるやかな出会いが、
連なるようにやってきます。


いまも"こわさ"は様相を変えて、立ち現れます。
笑ってのんきに暮らしていても、
通奏低音のように常にそれは感じるし、聴こえている。

5年前の3月11日金曜日。
あの日から、何もかもが変わりました。
ものごとは変わり続けるのだと実感としてわかったことが、
わたしにとっての光かなと思っています。


ちょっと長い、移住にいたるまでの話

2016-02-26 | 暮らし方を変える◎
こんにちは!
ぬけヨガ神戸の、しちみです◎

猫はなごなご鳴き始め、
ご近所さんの庭木や鉢植えの花が一斉に咲き始めました。
ピンク、きいろ、しろ、
眩しいくらいの陽射しに明るい色がよく似合い、
ああ春だなぁと感じます。
でも、風は冷たい…。
三寒四温、まだまだ冬のお尻は重たいようです。

ちなみに七十二候は、
霞始靆(かすみ はじめて たなびく)だそうですよ。
おお、春霞~♪
そこにどうにか、
猫始鳴(ねこ はじめて なく)
も入れてほしいなぁ(笑)。


いま時分になると、
わたしはどうにも、
からだの芯が落ち着かなくなります。
刻み込まれた怖さや諦め、
からっぽになった店や道や電車や気持ち……
いろんなことが季節の巡りのなかで甦り、
奥底で続いている震えがまた表に浮かび上がってきます。

2011年3月11日金曜日、14時46分。
わたしは、東京にいました。

週末に出張で韓国へ行き、
かなりハードなスケジュールで動き回って火曜日に帰国。
水曜日は荷物の整理と情報の整理と熟睡。
木曜日は打ち合わせ。
金曜日はまだ疲れが残っているなぁ、
からだが重いなぁと思いつつ、
午後から見逃していた映画を観に出かけました。

揺れは、強烈でした。
映画館の椅子が船に乗ってるように前後に大きく動き、
わたしは怖くて肘掛けを握りしめながら逃げようと思い、
でも誰も立ち上がらなくて、
誰も逃げないことがまた怖くてわたしは外に飛び出しました。
すぐにゾロゾロ人が出てきました。

道には、たくさんの人が呆然とした顔で立っていました。
並木の根っこのあたりのアスファルトが抉れ、
看板が落ちて割れ、
向こうに電車が駅の手前の高架の上で止っているのが見えました。

何が起きたの?
どこが震源??
いろんな情報が飛び交っていました。
映画館の人が出てきて、
「東北地方で大きな地震があったようです。
劇場の安全の確認をしましたので、
上映を再開します」
と告げました。

ええ?
上映再開?
じゃ、大丈夫なの?
気持ちの悪い揺れだったけど、
おおごとじゃないのね?

ぞろぞろと映画館に戻り、
さっきの続きが始まった途端、
もう一度、ぐわっときました。

すぐに外へ出て、家へ向かって歩き始めました。
これはただごとじゃない。
電車はたぶん動かないだろうし、
事態を把握するためにも早く家に帰りたい。

途中で銀行のATMに寄って、
お金をおろしました。
実家に電話をかけてもつながらず、
家族の携帯が一瞬、通じたものの、
何度リダイヤルしてももう反応はありませんでした。

学校やビルからどんどん人が出てきて、
歩いている。
車道はとっくに渋滞になり、
ほとんど止った状態。

歩きながら、ふとお店の中を見ると、
テレビが点いていました。
盛んにニュース映像が流れている。
横目でチラチラ見ながら何軒かやりすごし、
大きな画面が外向きに置かれているお店の前で、
思わず立ち止まりました。
足がすくんで立ち止まった、
と言ったほうが正確かもしれません。

自分が何を見ているのか、
すぐにはわかりませんでした。
この映像が何を映しているのか、
カメラの向こうで何が起きているのか、
うまく理解できなかった。

津波。

とにかくとにかくとにかく歩いて、
帰りに寄ったスーパーで卵を1パック買い、
3時間半で家に帰り着きました。
ガスが自動的に止まり、花瓶がひとつ落ちていました。
それだけ。

テレビを点け、
ネットで情報を追いました。

こわくてこわくてこわくて、
居ても立ってもいられなくなって、
ご飯を炊いておにぎりにし、
買って帰った卵をぜんぶ茹で、
自転車で最寄りの区役所まで行きました。

たくさんの人がまだまだ歩いていて、
でもコンビニにはもう食べ物が残っていなくて、
区役所でお味噌汁を配っている。
その横っちょで、
少ないけれどお握りと茹で卵を配りました。
「まだあったかい…」
東京も、寒い夜でした。


居ても立ってもいられない。
地震のあとの数日間、
わたしはまさにそんな状態でした。
何をすればいいのか、
何ができるのかはわからないけれど、
居ても立ってもいられない。

大きな地震が起き、
津波が陸を呑み、
原子力発電所が爆発した。

あのときの恐怖は、
シンプルだけど複雑に入り組んでもいて、
ものすごくつらい。

わたし自身も家も、身内や知人友人も、無事でした。
それでも、3月が近づくと、
たまらないものがあります。

あれからたくさんのことがあり、
わたしは長年住んだ、
離れるつもりのなかった東京を後にする決心をし、
関西へ移住しました。

原発が爆発したことで、
いまも避難生活を強いられている人たちがいます。
自分の家に帰れない人たちが、たくさんいます。

それなのに、
今日、福井県の高浜原発4号機は、再稼働されました。
3号機は既に再稼働され、
九州の川内原発も再稼働されています。


わたしは東京に住んでいる間、
福島県双葉郡大熊町、双葉町にある、
東京電力福島第一原発で発電された電気を使い、
暮らしていました。
楢葉町、富岡町には福島第二原子力発電所があり、
新潟県にも、わたしの使っていた東京電力の
柏崎刈羽原子力発電所があります。

でも事故が起きれば、
最も被害を受けるのは、
電気を使っている東京のわたしたちではなく、
原発の近くの土地、
そこに生きているものすべて、
そこに暮らしている、
ひとりひとりのいのちや健康、生活のすべて。

この事実は、
わたしにとって、
あまりにも大きかった。

間もなく、3月11日がやってきます。
また、つづきを書きます。