おはようございます。
ぬけヨガ神戸の、しちみです。
2011年3月11日。
あの大きな地震の起きた日から、丸5年が経ちます。
地震、津波、ひとりひとりの受けた甚大な被害。
そのうえ原発まで爆発して、
いまも避難生活を続けざるを得ない方たちがいます。
カウントされてはいないけれど、
わたしも含め、それぞれの理由や意志で、
避難、移住を選択した無数の人たち。
あれからのひとりひとりの時間、
たくさんの想いが、
消え去り、積み重なって、
5年になります。
震災5年、避難なお17万人超え 災害公営住宅、建設遅れ(朝日新聞デジタル)
わたしは、あの地震によって魂ごとぶん殴られたような衝撃を受け、
それまで自分の立っていると思っていた足元が、
文字通り、揺れ崩れました。
自分の暮らし方、生き方が根本から揺さぶられ、
このままではいけない、と思い知るようになりました。
そのあたりの経緯は、こちらにも書いています。
ちょっと長い、移住にいたるまでの話
何よりも、こわかったのです。
深度の異なる"こわさ"が次々と立ち現れ、
それが現実だと認識するまでにたくさんの時間がかかりました。
地震の揺れもこわかったし、
明らかになっていく被害もこわかった。
津波、原発、救助活動、泥、避難所、対策として東電が"オムツ"を投入、
計画停電、だけどわたしの住んでいるあたりは停電にならなかった、
なぜなら東電の"偉いさん"が住んでいるからという噂、
水道水から放射性物質が検出され、あらゆる店からミネラルウォーターの消えた日、
閑散とした電車、大きなサムソナイトをごとごとひいていく家族、
爆発した原発のなかで起きていること、
爆発した原発をどうにかしようと働いている人、
その他の稼働している原発で働いている人、
放出されているもの、
報じられること、
報じられないこと。
このままではマズい、ということがよくわかりました。
特別ぜいたくをしていたわけではないけれど、
わたしは身近にある"便利さ"を疑うことなく、
まるで便利なことが当たり前であるかのように暮らしていました。
在来種や無農薬の野菜を買って食べ、
電気がどこから来ているか考えもしない生活。
2、3分も待てば電車はきて当然だし、
モノも料理も仕事もヒトも学ぶ場も遊ぶ場も、
なんでもかんでもあって当たり前の暮らし。
そういったことの向こう側にあるものを薄々感じながらも、
なるべく目を逸らし、深く考えないようにしていた。
その"見えないこと"にしていた部分が、
次々と目の前に突き付けられました。
原発に関して言えば、
当初、わたしはこれですべての原発が取りやめになるのだろうと思っていました。
これだけの規模の事故を起こしたのだから、
もう2度と、原子力による発電は行われなくなるはずだと。
ところが、まったく違いました。
政府の方針、国策、原子力ムラ、膨大な利権構造、核兵器を作る潜在的能力の保持……
原発を動かすための理由が表に裏に並べられました。
電気は足りていても、原発はなくならない。
原発の近くに住む人たちの安全は確保されているの?
働く人に被曝を強いる原発は本当に必要?
万が一、再び事故が起きた場合の対策は?
疑問だらけです。
だけど、被曝するとわかっていても、
原発で働かざるを得ない人たちもいる。
安全ではないとわかったいまでも、
原発に頼らないと成り立たない土地がある。
一気にすべてが変わることなど、
とても無理だということが、
わたしにもわかってきました。
震災から3年と2ヶ月弱経ったころ、
わたしは暮らし方を変えようと、
東京から神戸に移住しました。
長年住んでいた大好きな東京を離れるのは、
そうたやすいことではありませんでした。
だけど"東京を離れる"ことは、
それまでの暮らしをよしとしないという、
わたしの意思表示のひとつになると考えました。
誰かの犠牲のうえに成り立つ生活。
消費するばかりの、いいとこどりの暮らし方。
気づいてしまった以上、
そのままではいられなかった。
それぞれの人にそれぞれの事情があり、
それぞれの意志の表し方があるのだと思います。
わたしにとってのそれは、
東京を離れる、
暮らし方を変える、
でした。
仕事のあてもないまま移住し、
環境にもできる限り負荷をかけない方法で、
わたしの大好きな無農薬の野菜を育て始めました。
ほしいものがあったら何も考えずに買う前に、
いまあるものを工夫してみたり、
自分の使ったお金がその先でもいい流れに乗るように、
なるたけ買う場所や相手を吟味するようになりました。
電車を15分待つことにも、ずいぶん慣れました…(笑)。
わたしがすこしばかり暮らし方を変えたからといって、
すぐに何かが変わるわけでもないでしょう。
それでも、ほんのささやかなことだとしても、
わたしの暮らし方は、変わった。
それも移住を決意したときのように、
意志的に"暮らし方を変える"というのではなく
いざ新たな暮らしを始めてみると、
自然とより心地いいほうへと流れが生まれて、
どんどん変わり続けていくのです。
わたしだけではなく、
わたしの知っている範囲に限っても、
たくさんの人がそれぞれの想いや考えから暮らし方を変え、
消費するだけの暮らしではなく、
つくりだす暮らし、
何かのかげで誰かが泣いていることのなるたけない、
ずっと続いていく世の中を目指し、
もぞもぞごそごそのんびりと動いています。
そういう人たちとのたのしくゆるやかな出会いが、
連なるようにやってきます。
いまも"こわさ"は様相を変えて、立ち現れます。
笑ってのんきに暮らしていても、
通奏低音のように常にそれは感じるし、聴こえている。
5年前の3月11日金曜日。
あの日から、何もかもが変わりました。
ものごとは変わり続けるのだと実感としてわかったことが、
わたしにとっての光かなと思っています。
ぬけヨガ神戸の、しちみです。
2011年3月11日。
あの大きな地震の起きた日から、丸5年が経ちます。
地震、津波、ひとりひとりの受けた甚大な被害。
そのうえ原発まで爆発して、
いまも避難生活を続けざるを得ない方たちがいます。
カウントされてはいないけれど、
わたしも含め、それぞれの理由や意志で、
避難、移住を選択した無数の人たち。
あれからのひとりひとりの時間、
たくさんの想いが、
消え去り、積み重なって、
5年になります。
震災5年、避難なお17万人超え 災害公営住宅、建設遅れ(朝日新聞デジタル)
わたしは、あの地震によって魂ごとぶん殴られたような衝撃を受け、
それまで自分の立っていると思っていた足元が、
文字通り、揺れ崩れました。
自分の暮らし方、生き方が根本から揺さぶられ、
このままではいけない、と思い知るようになりました。
そのあたりの経緯は、こちらにも書いています。
ちょっと長い、移住にいたるまでの話
何よりも、こわかったのです。
深度の異なる"こわさ"が次々と立ち現れ、
それが現実だと認識するまでにたくさんの時間がかかりました。
地震の揺れもこわかったし、
明らかになっていく被害もこわかった。
津波、原発、救助活動、泥、避難所、対策として東電が"オムツ"を投入、
計画停電、だけどわたしの住んでいるあたりは停電にならなかった、
なぜなら東電の"偉いさん"が住んでいるからという噂、
水道水から放射性物質が検出され、あらゆる店からミネラルウォーターの消えた日、
閑散とした電車、大きなサムソナイトをごとごとひいていく家族、
爆発した原発のなかで起きていること、
爆発した原発をどうにかしようと働いている人、
その他の稼働している原発で働いている人、
放出されているもの、
報じられること、
報じられないこと。
このままではマズい、ということがよくわかりました。
特別ぜいたくをしていたわけではないけれど、
わたしは身近にある"便利さ"を疑うことなく、
まるで便利なことが当たり前であるかのように暮らしていました。
在来種や無農薬の野菜を買って食べ、
電気がどこから来ているか考えもしない生活。
2、3分も待てば電車はきて当然だし、
モノも料理も仕事もヒトも学ぶ場も遊ぶ場も、
なんでもかんでもあって当たり前の暮らし。
そういったことの向こう側にあるものを薄々感じながらも、
なるべく目を逸らし、深く考えないようにしていた。
その"見えないこと"にしていた部分が、
次々と目の前に突き付けられました。
原発に関して言えば、
当初、わたしはこれですべての原発が取りやめになるのだろうと思っていました。
これだけの規模の事故を起こしたのだから、
もう2度と、原子力による発電は行われなくなるはずだと。
ところが、まったく違いました。
政府の方針、国策、原子力ムラ、膨大な利権構造、核兵器を作る潜在的能力の保持……
原発を動かすための理由が表に裏に並べられました。
電気は足りていても、原発はなくならない。
原発の近くに住む人たちの安全は確保されているの?
働く人に被曝を強いる原発は本当に必要?
万が一、再び事故が起きた場合の対策は?
疑問だらけです。
だけど、被曝するとわかっていても、
原発で働かざるを得ない人たちもいる。
安全ではないとわかったいまでも、
原発に頼らないと成り立たない土地がある。
一気にすべてが変わることなど、
とても無理だということが、
わたしにもわかってきました。
震災から3年と2ヶ月弱経ったころ、
わたしは暮らし方を変えようと、
東京から神戸に移住しました。
長年住んでいた大好きな東京を離れるのは、
そうたやすいことではありませんでした。
だけど"東京を離れる"ことは、
それまでの暮らしをよしとしないという、
わたしの意思表示のひとつになると考えました。
誰かの犠牲のうえに成り立つ生活。
消費するばかりの、いいとこどりの暮らし方。
気づいてしまった以上、
そのままではいられなかった。
それぞれの人にそれぞれの事情があり、
それぞれの意志の表し方があるのだと思います。
わたしにとってのそれは、
東京を離れる、
暮らし方を変える、
でした。
仕事のあてもないまま移住し、
環境にもできる限り負荷をかけない方法で、
わたしの大好きな無農薬の野菜を育て始めました。
ほしいものがあったら何も考えずに買う前に、
いまあるものを工夫してみたり、
自分の使ったお金がその先でもいい流れに乗るように、
なるたけ買う場所や相手を吟味するようになりました。
電車を15分待つことにも、ずいぶん慣れました…(笑)。
わたしがすこしばかり暮らし方を変えたからといって、
すぐに何かが変わるわけでもないでしょう。
それでも、ほんのささやかなことだとしても、
わたしの暮らし方は、変わった。
それも移住を決意したときのように、
意志的に"暮らし方を変える"というのではなく
いざ新たな暮らしを始めてみると、
自然とより心地いいほうへと流れが生まれて、
どんどん変わり続けていくのです。
わたしだけではなく、
わたしの知っている範囲に限っても、
たくさんの人がそれぞれの想いや考えから暮らし方を変え、
消費するだけの暮らしではなく、
つくりだす暮らし、
何かのかげで誰かが泣いていることのなるたけない、
ずっと続いていく世の中を目指し、
もぞもぞごそごそのんびりと動いています。
そういう人たちとのたのしくゆるやかな出会いが、
連なるようにやってきます。
いまも"こわさ"は様相を変えて、立ち現れます。
笑ってのんきに暮らしていても、
通奏低音のように常にそれは感じるし、聴こえている。
5年前の3月11日金曜日。
あの日から、何もかもが変わりました。
ものごとは変わり続けるのだと実感としてわかったことが、
わたしにとっての光かなと思っています。