窓ガラスに絵をかく少女
1968年
絵本 “ あめのひのおるすばん ”
水色の雨をなぞっていたら、
青がうまれて
薄紅色の雨をなぞっていたら、
紫がうまれたよ
そうしてここにたくさんの滴が流れ着いて、
わたしはひとつの、大きな雨になった
あの日のてるてる坊主、どこに行ったかな
わたしを思い出して、今、ここにいるのかな
さっきから左手がきゅっとなって
わたしの心が海に流れるみたい
そう
母さんの帰りを待っている
昔のわたしのように
雨がね
また小川にうまれかわるのは
窓にこの手紙を
とどけるからなの
1968年
絵本 “ あめのひのおるすばん ”
水色の雨をなぞっていたら、
青がうまれて
薄紅色の雨をなぞっていたら、
紫がうまれたよ
そうしてここにたくさんの滴が流れ着いて、
わたしはひとつの、大きな雨になった
あの日のてるてる坊主、どこに行ったかな
わたしを思い出して、今、ここにいるのかな
さっきから左手がきゅっとなって
わたしの心が海に流れるみたい
そう
母さんの帰りを待っている
昔のわたしのように
雨がね
また小川にうまれかわるのは
窓にこの手紙を
とどけるからなの
子供が窓ガラスの水滴で絵を描く仕草って
こんな感じですよね。
文章もしみじみと染み通りました。
私も小さいころ、よく曇ったガラスに絵を描きました。
雨の日は外で遊べないし、することがなくて手持ち無沙汰に描いてみたり、ひとりの世界に浸ってみたり。。
私が小さいころは「暇」な時間があれば自分で何をしようか考えたものです。本を読むことが多かったかな・・・何度も飽きるほど読んでいる本でも他にすることがなかったから仕方なく読んでました。。
今の子供は、そういう習慣はあまりなさそうですね。
テレビやゲームがあふれているから、何をしよう
って考える「暇」な時間はなさそうな気がします。。
ところでこの詩、「さっきから左手がきゅっとなって
わたしの心が海に流れるみたい」がショパン3世らしくてすばらしい。
だから、その前後に説明がされすぎ?かな、と思いました。その一文がなお輝くにはもう少し詩全体が短くてもよいかも。
素人意見でごめんなさい
こんな感じですよね。
子供のふとした仕草を捉えるのは、やはり、ちひろの真骨頂ですね。
この絵は、少し背伸びして顔より上に手を伸ばしているところがポイントだと思います。大人が窓ガラスの水滴で絵を描くとしても、こういう体勢にはならないですものね。
僕の文章は、これからも絵の邪魔にならない程度に添えられたらと思っています。
いや実に、本当に仰る通りだと思います。
例えば僕が保育園で紙芝居を読もうとすると、「それはもう聞いたから(他の先生が読んだから)」と興味を示さない子が多いんです。話が頭の中に入ってて、また同じものを読まれてもつまらないという訳です。それでも僕は、自分なりに話に抑揚をつけたり登場人物の声色を軽妙に変えたりして、何とか物語に聞き入ってもらえるようにはしているんですが…(笑)。
同じ作品に繰り返し触れる、それはミイさんが書かれているように他に娯楽が溢れている影響でもあるし、根本的に物をあまり大切にしようとしない(愛着を持たない)事でもあるのでしょうね。
手持ち無沙汰な時間、ゆるりと過ごす時間、自分の中の物語と話す時間……それは大人も子供もできなくなってきています。想像は創造につながり、それが生きる本質であるのだという事を僕も今1度じっくり噛み締めて、保育園の子供達に伝えられたらと再認識しました。
>だから、その前後に説明がされすぎ?かな、と思いました。その一文がなお輝くにはもう少し詩全体が短くてもよいかも。
そういう感想も欲しいです☆正直な意見は参考になりますから、これからも気兼ねなく書いて下さいね♪