銀河夜想曲   ~Fantastic Ballades~

月が蒼く囁くと、人はいつしか海に浮かぶ舟に揺られ、
そして彼方、海原ワインのコルクに触れるを夢見、また、眠りにつく……

ゲド戦記

2006年07月31日 02時48分02秒 | その他ジブリ作品
あちこちのレビューで批判派が圧倒的に多く見受けられた映画 “ ゲド戦記 ”、公開2日目に立て続けに2回観てきた。

作品内容に則した感想(ネタバレ)なので、観たいと思っている方でまだ鑑賞していない場合はこの先を読まないで下さい。
そして映画を観たいと思っている方で原作を読んでいない場合は、パンフレットなり何かしらの媒体で概要&作品の世界背景を少なからず知っておいた方が、恐らく良いと思います。




しかし、まずは監督の宮崎吾朗氏が比較の二重苦に立たされている事から考慮しなければならない。原作の小説と、そして父である宮崎駿…。前者とは無論の事、後者とも血縁であるが故に否が応でも好奇の眼差しに晒されてしまうのは必至だ。
この偉大な2者と比べるのは全くもってナンセンスなのだが(その論法で考察したら果てがない為)、如何せん僕も原作から入った口であり、且つ宮崎駿作品のファンなので、鑑賞しながら所々で両者との比較が心に立ってしまった。ここにその比較論を綴るのは極力控えたいのだが、それでも四方にそれが散見されてしまう事をまず御容赦して頂きたい。
だからという訳でもないのだが、小説の世界に強い愛着を抱いている人はこの映画を観ない方がいいかもしれない。

さて感想だが、一言で言えば「至る所での、また色々な意味での甘さもあるが、それだけで全編を切り捨てられない実直さや魅力もある」というところだろうか。

冒頭の、荒れ狂う海に翻弄される船の様子から竜が食い合うに至るまでのシーンには受け手側を心地良く煽る勢いが流れていて、その先のただならぬ気配を予感させる。この竜の共食いは、何でも鈴木プロデューサーの発案らしいのだが、映画を発進させる起爆剤としてなかなか適していたのではないだろうか。

その勢いに乗じ、ゲドが登場するまでさほど時間はかからないのだが、ホートタウンに到着するまでがやや冗長かもしれない。アレンを旅の共とするのにも、原作を読んでいない者にとっては少し無理を感じさせるだろう。

父殺しの罪悪感を背負うアレンは、その表情に、これまでのジブリ作品には見受けられなかった焦燥感や悲壮感、並びに諦観から生ずる自虐的な色合いが逐一浮かぶ。この点は、宮崎吾朗氏の新人監督らしからぬ長けた裁量と言って良いだろう。
スタッフと協議して至った表現なのかもしれないが、こうした試行が一石でも二石でも投じられて上手い具合に作品に反映されれば、それは単なる手練手管に終わらずに、今後のジブリを宮崎駿その人一色だけのイメージには染め上げない方向に持っていく事ができるかもしれない。

ただ、問題視されてしまうのはそのアレンが影を背負っている(追われている)設定で、すると必然的に彼がこの映画の主人公にならざるを得ない点だろう。ゲドはあくまで脇に佇む、終始そのサポート的な存在であり、原作との多少の違和感は否めない。タイトルが “ ゲド戦記 ” となっていてもそうした展開運び故に、ゲドが劇中で魔法を行使してもほとんど引き立たない。
やはり、原作各巻を綯い交ぜにした切り口での、2時間という短い枠での世界構築には歪が生じてしまう。その証拠に、会話上での物語事情・背景説明が多いのだ(反対に、真の言葉については説明不充分。これは “ ゲド戦記 ” の世界観そのものなのだから、もっと関連する描写があって然るべきだった)。
説明口調が多用されると受け手に即座に飽きられるのだが、本作ではどうにか崖っ淵で留まった感だ。

歪を補うべくか、映画ならではの展開が幾筋か用意されている。
テルーとアレンとをほぼ同年齢に設定して2人の交感の妙を打ち出す手法や、クモに従えるウサギの幾分コミカルな配置、終盤におけるテルーとクモとの緊迫した対峙、等々……。これ等にも賛否両論あってその枚挙に暇がないだろう。

どうしても蛇足だと感じたのは、テナーに解熱薬をもらいに行く2人の女性の存在。少しの諧謔的要素として、またテルーの火傷に対する村人の偏見と、それに抗うテナーの心意気を表したくストーリーに組み込んだのだろうが、冗漫にしか過ぎなくなっている。

そして異議を唱えたいのは、テナーの性格。あれ程までに垢抜けていると、やや拍子抜けしてしまう。原作に忠実なキャラクターにしてしまうとエンターテイメントとしての作品に仕上がらなく一層重たい雰囲気を醸してしまうからかもしれないが、それを考慮しても、もう少し遣り様があったのではないのかと思ってしまう。これもまた原作との比較論になってしまって、申し訳ないのだが…。

話題を変えて、次に音楽について。
寺嶋民哉氏のそれには、総じて強い印象を受けなかった。緊迫した場面にはそれ相応の旋律が流れていたが、概ね心を動かされるものではなかった。2度目の鑑賞で注意深く耳を傍立ててみたが、やはり秀逸な劇伴とまでは言えない。
更に言うなれば、ゲドとアレンがホートタウンに着きその街並みを歩くシーンで明るく軽妙な曲が付着されていたが(サントラの5曲目 “ 街 ” )、これは不相応著しいのではないだろうか。あの街全体の均衡が崩れ始めていて(無論アースシー自体が、だが…)人々も動物も皆、何もかもが危うくなっているのにも拘わらず、増して不安要素を抱えて降り立ったばかりのアレンが画面上に映っているのにも、だ。あの音楽は頂けない。

一方、挿入歌の “ テルーの唄 ” は、作曲した谷山浩子の感性が光る。歌はメロディーに、より重きがある事を再認識させられる。萩原朔太郎の詩 “ こころ ” を下地に監督が作詞したのも、結果的には良かった。
そもそも挿入歌を登場人物自らが歌うというのは、最近の映画ではまずないのではなかろうか。しかも、アカペラで。器楽演奏が付帯されていない状態はCD等で聴くのとはまた趣を異にしていて、手嶌葵の歌声がダイレクトに届く。否応なく今後の彼女の歌に期待する人は多くいるだろう。とはいえ、個人的にはアカペラでない方が好みだが…。

感想をまた音楽以外に戻そう。
各キャラクターの言動や背景描写にこれまでの宮崎駿作品やその他のアニメ映画の影響を見て取る事のできる箇所があり、それはここで全て挙げないが、宮崎駿なりその世界における先達の良い意味での踏襲と言える。宮崎吾朗監督本人が弁している様に(1つに、古き良き東映アニメ作品の模倣との弁がある)、それは意識的に図られた事なので、その諸所での継ぎ接ぎが返って、表現手段が例えばCG等で行き詰った現行の映画とは違って新鮮ではある。それが逆説的に本人のオリジナルとして成り得ている、と言ったら言い過ぎだろうか。
ただ、人物の絵柄をシンプルに(線を少なく)した事で受け手が必要以上に画面に意識を向けさせるのを半減させ、よってメッセージが骨太でクリアーなものとして伝わる効果を挙げたかは、いささか疑問でもある。
カメラワークや画面の構図(アングル)においては趣向を凝らしていると感じられる所もあり(テルーがクモの館の外壁を1人伝っていく場面等)、とても好感が持てた。

先にアレンとテルーの交感について綴ったが、観ていてかなり面映くもある。そもそも彼等が近しい年齢に設定されている時点でそれは容易に予期できる事なのだが、とりわけ物語終盤において2人の心の接触が顕著だ。これに違和感を持つ人もいるだろう。
しかし、もはやアレンが主人公足り得ている配置なのだから、傾向として止むを得ないのだろう。若き男女がこのスタイルになるのはジブリの因習路線で、逆に古くからのジブリファンの中に安堵を覚える人も少なくないかもしれない。

テルーが竜に変容してしまうのは、それ以前のゲドの台詞「まさか、な」で布石があるとはいえ、唐突である。原作では5巻でその背景が語られるのだが、故にこれも小説を目にしていない者にとっては不明瞭に思えるだろう。
冒頭で共食いを演じた竜の1匹がテルーではないのかという臆測が飛び交うのも無理はない。

観劇中、近くで観ていた子供が「早く家に帰りたい」と母親に何度も愚図っていたが、幼き子供にとってこの作品は適さないだろう。テーマが一筋縄でいかない代物であるし、増してクライマックスでのクモの醜い表情は子供には酷である(大人にはやや滑稽に映るのだが…)。こうした所からも、この映画が既存のジブリ作品とは一線を画していると感じさせる要因だろうが、“ もののけ姫 ” でも似た様な要因はある。

では、何が宮崎吾朗テイストを一番に演出しているのか。それは彼ならではの実直さであろう。
丹波圭子との合同脚本が、果たしてどの程度の分担作業になっているのかは定かでないが、恐らく比重としては宮崎吾朗の方が大きいと思われる。何故なら、彼がこの度監督を引き受けた必死の決意が公式サイトの日誌から汲み取れるし、それが作品に強く底流していなければ甚大なプレッシャーを跳ね除けてまで監督を務めた意義が失われてしまうからだ。
その決意の余波が、作品自体を良くも悪くも荒削りの真摯なものに及ばせた。例えば先に述べた、テナーから解熱薬をもらう女性2人を配したのは監督としては遊び(良い意味での息抜き)のつもりなのだろうが、遊びの場面として成り切れていない。だからこそ、彼が宮崎駿とは違う質の実直さを秘めているのだと伝わってくる。

最後に、声の担当について。
特に素晴らしかったのは、クモの声を担当していた田中裕子。“ もののけ姫 ” でエボシを演じていた時も相当に上手かったが、今回もそれに負けず劣らずの名演技だったと思う。ゲドに対する場面での「笑止!」の声の張り方とその直前の不敵な笑いは出色。アフレコへの俳優起用に難色を示す僕も、彼女は特別に認められる数少ない俳優の1人だ。
テルー役の手嶌葵は確かに棒読みの箇所もあったが、演技経験がこれまで全くないのだからそれを考慮すれば黙認できなくもない。きっと彼女の中では充分に練習を積んだのだろうと思える印象であり、彼女を批判するなら声優として起用したプロデューサーが非難されるべきである。

とりあえず思うままに所感を書いてきたが、こうして1つの作品を、しかも世に名高く謳われている作品を映画として脚色した1つの結果を、切り捨て早計してはならないのかもしれない。
特にyahooのレビューでは酷評を通り過ぎて、悲惨極まりない嵐の如き書き込みが跋扈しているが、ジブリのスタッフや関係各位にしか計り知れない、様々な苦渋や苦悩や葛藤があっただろう。それを慮ってみると、批判一色でこの作品を総括したくはない。

宮崎吾朗氏が監督として抜擢されたと知った当初は本心不愉快だったが、冒頭で述べた比較の二重苦に自身もよく耐えて制作したと思う。万が一彼に次回作があるとしたら、原作有りきのものではないだろう。

ここから余談になるが、鈴木プロデューサーにはプロデューサー然とした姿勢でいてもらいたい。作品の内容やその成り立ちに、さも第2の監督を気取って余計な首を突っ込まないで欲しい。作品はあくまで監督が創り且つ作品は監督のものなのだから、プロデューサーとしての立場を今一度わきまえ、作品樹立への謙虚さを貫いて欲しい。彼ほどまでに四方八方でコメントや顔そのものを出すプロデューサーも珍しい。
映画冒頭における竜の共食いは僕にとっては新鮮に映ったが、おおよそ大した思索もない(と思わせてしまう発言が彼には節々ある)突発的な勘に頼るばかりでいたら、いつまでもそれが功を奏する限りではない。発想を作品に活かすのは演出家の仕事であり、それを入念に練り上げる技は本来、演出家にしか許されないはずだ。配役決定にしても同じ事。無責任で一時的な言動・決断によって周囲を困惑させるのがプロデューサーの役目なのか、と問いたい。

宮崎駿は、血を分けた息子の初陣手腕をどう感じただろう。公になった本作に対する発言、「素直な作りで、良かった」はどこまでが本心で、そして今でもそう思っているのだろうか。
この先、宮崎駿はどういった心境へと移ってそれが彼の新作へどういった影響を及ぼしていくのだろうか……。

今回の宮崎吾朗氏監督抜擢の根源は、宮崎駿が新進監督の出現を期待しつつもその芽を最終的に潰してしまう傾向並びに経緯がこれまでに何度かあったからに他ならないとも言える。鈴木敏夫プロデューサーは、息子になら例え宮崎駿といえども下手に手を出しも口を出しもできないだろうと考えたと推察される。
映画 “ ゲド戦記 ” を非難で塗り潰すのなら、宮崎駿その人もその矢面に立たされるべきだ。しかし僕は、今となってはそこまでしたくない。

スタジオ・ジブリは今作の完成によって、非常に複雑な問題を抱えた。その気配は前々から浮き出ていたが、何よりも一般のファンに一層の不安要素を提示してしまった。宮崎駿の新たな劇場作品が衆目に披露される日まで、この状態は長く続くだろう。

最後に、長文に加えて決して叙述できていないこの所感を最後まで読んで下さった方、有り難うございました。

子守唄

2006年07月28日 03時15分18秒 | 散文(覚書)
ねぇ その子は夢の海で うまれてきたの

七色 まるのなかを くぅるくる

ほっぺに 風さん吹いて 小さな原っぱ

黄色に光るよ 遠くに見える

どこで 遊んできたのかなって

ねこと遊んだ ねこじゃらし



ねぇ その子は夢の先へ すすんでゆくよ

十色 舟のなかで ぷぅかぷか

お手々に 雲さん抱いて 大きな太陽

まぶたに映るよ いつも見える

どこで 笑ってきたのかなって

逢おねと笑った 青写真



ねるんこねみんこ 

そばにいるよ



ねるんこねみんこ

ほら 母さん小指に やさしい五ゆび

ほら 父さん小指に かわいい五ゆび



ぷくってにぎった その音色

耳のハートね こだまする

ジョルジュ・サンドの言葉

2006年07月24日 23時33分55秒 | 文学(一般小説)
ジョルジュ・サンド著 “ 愛の妖精 ” (岩波文庫)の端書に、以下の様な記述がある。ちなみにその前半部分は割愛してある。



ダンテの如く、鉄と火もて鍛えられた魂の持ち主でなくては、地上の悲嘆という苦しい煉獄を眼前に見ながら、象徴の地獄の醜悪な事物の上にその想像力を傾け尽くすというような事は、到底成し得ないのである。

今日では、芸術家はもっと弱く、感じやすくなっていて、自分と大体同じ様な時代全体の人々を反映し反響する人間に過ぎず、したがってこの場合にも、視線を逸らし、想像力を他に転じて平穏と淳朴と夢想との理想郷に想いを馳せたいという、やみ難い欲求を感ずる。彼がかかる行動をとるのは、その弱さのためである。が、それを恥じてはならない。何故なら、それはまた彼の義務でもあるのだ。

人間が誤解し合い憎み合う事から世の不幸が生じている様な時代においては、芸術家の使命は、柔和や信頼や友情を顕揚して、清浄な風習や、優しい感情や、昔ながらの心の正しさなどが、まだこの世のものであり、もしくはあり得るという事を、或いは心を荒ませ或いは力を落としている人々に思い出させてやる事である。現在の不幸に直接言及したり、醗酵しつつある激情に呼び掛けたりする事は、決して救済への道ではない。むしろ、1つの甘い歌、鄙びた鳥笛の一声、幼な児たちを怯えも苦しみもなく寝付かせる1つの物語の方が、小説の色付けによって一層強烈に陰鬱になった、現実の不幸を見せつけるに勝るのである。

人々が殺戮し合っている際に和合を説く事は、砂漠で叫ぶに等しい。人々の魂が、直接の勧告は一切耳に入らぬほど激動している様な時代があるものだ。

--(中略)--

自分と同じ苦しみを感じている人々、すなわち憎悪と復讐の忌まわしさに悩まされている人々を喜ばす事は、この人々が受け容れる事のできる幸福の全部を彼等に与えるものだという事を知っている。誠に儚い、一時的な慰めには違いない。が、それにしても、熱烈な宣言よりは現実的であり、もったいぶった自己表明よりは胸に迫るのである。

1851年12月21日 ノアンにて」




作品の “ 愛の妖精 ” はなかなかに素晴らしいものであった。しかし、このサンドの『芸術家たるもの、かくあるべし』の信条には、読んだ当時かなりの感銘を受けたものだ。

サンドよ、あなたは本当に、燦々と輝かんばかりの言葉を綴った。

サンドよ、あなたのこの想いの丈をこのブログの最初に記す事で、僕のこれからも大いに揺らぐであろう日々の心情を、生活を、行くべき道へと、その都度軌道修正して欲しい…。