銀河夜想曲   ~Fantastic Ballades~

月が蒼く囁くと、人はいつしか海に浮かぶ舟に揺られ、
そして彼方、海原ワインのコルクに触れるを夢見、また、眠りにつく……

たあくんのうみ

2007年11月29日 23時06分48秒 | 絵本・童話・児童文学
作/絵 こみ まさやす
ひかりのくに



たあくんという男の子が、段ボールの船に乗って自分だけに見える海を旅する短い話。語り部は、公園で昼寝している犬のボク。

ここ最近、保育園で毎日子供たちから読んでと頼まれる絵本。読み進めていると、彼等が他の絵本とは違った興味を示しているのが良く分かる。

内容に関して細かく紹介してしまうと面白くないので、もし読まれる機会があったら(なかなか入手困難かもしれないが)是非一読を。子供なら誰でもする見立て遊びを、犬の視点から捉えていて非常に面白い。ユニークで、絵本ならではの遊びを活かしている作品。




小山実稚恵――12年間・24回リサイタルシリーズ 第4回――

2007年11月10日 23時53分40秒 | クラシック音楽

[プログラム]

シューマン : クライスレリアーナ 作品16
バッハ : 半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV.903
シェーンベルク : 6つの小さなピアノ曲 作品19
ショパン : 幻想曲 ヘ短調 作品49
ラフマニノフ : ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品36 (1931年・改訂版)



12年で24回のリサイタルを行うシリーズは、今回初めて聴きに行った。各回はプログラムに沿った色のイメージとそのコンセプトが明示されていて、この度の第4回は【濃青紺 : 意思のある幻想~幻想と現実~】と銘打たれたもの。小山実稚恵は、その色の衣装を纏って舞台に現れた。
座ったのはS席であったが、やはりオーチャード・ホールは音響がいまいち良くない。“ クライスレリアーナ ” やラフマニノフのソナタにおいて、パッセージの早い箇所で幾度も音が濁って届いたのは演奏者の不遜ではないだろう。

“ クライスレリアーナ ” は15年前に発売されているCDと基本的な解釈は同じように感じたが、タッチの柔らかさや、シューマンのクララに対する想いを湧き上がらせる演奏者自身の深みが随分と増していた。特にオイゼビウス的性格を持つ楽曲ではその場の時が止まるかと思われる程に瞑想的で、『想いを織り込む』という事を丹念に体現していたように思う。唯一残念だったのは、第7曲の中間部の繰り返しを飛ばしてしまった事。

バッハとショパンでは、作曲者に対する敬意が溢れていた。淀みなく紡ぎながらも作品の規模を一切損なわなかった前者と、揺蕩いつつ次第に香り立たせていった後者。とりわけショパンの、情熱的な主題を余すところなく経た後の、最後の音の解き放ち方は感動的だった。舞台の暗闇から浮かんだピアノの、その空間にいつまでも想いを保っておきたいという彼女ならではの慈しみを感じた。

休憩を挟んでからの、シェーンベルク以降の曲では1度も舞台から下がらずに演奏していたのには少し驚いた。シェーンベルクは6曲合わせても5分前後にしかならない(小さなピアノ曲どころか、文学で例えれば掌編とでも言うべき)作品ではあるが、後半3演目を続けて演奏したのには彼女なりの意図があるのだろう。とはいえ、そのシェーンベルクの曲は作品自体がどうにも興味深いものとして捉えられなかった。最後の第6曲は、マーラーを追悼するものであるそうだが…。

ライヴならではという点で一等秀でていたのは、ラフマニノフのソナタ。2001年にサントリー・ホールで1913年版を聴いたが、その時よりも圧巻だったかもしれない(CDで発売されているのも1913年の初版)。第1楽章と第3楽章における音の大饗、第2楽章の美しく静かな佇まい。楽想が『鐘』であるという事を、遺憾無く発揮していたのではないだろうか。

改めて実感したのは、小山実稚恵は1つ1つの音を非常に大切にするピアニストだという事。それも、ただ掌に包むように大切にするというのではなく、音の意思を十二分に尊重しているのが伝わってくる。プロの演奏者なら誰でもそうだろうが、彼女の場合はそれが一味違う。作曲家によって刻まれた意思を彼女の手(意思)によって浮かび上がらせながらも、双方が歩み寄っている趣を感じさせる卓越さとでも言ったら良いだろうか。そうした点においても、『意思のある幻想』が2時間の時を巡ったリサイタルであったと思う。



[アンコール]

ラフマニノフ : 前奏曲 変ホ長調 作品23-6
ラフマニノフ : 前奏曲 嬰ト短調 作品32-12
ラフマニノフ : 前奏曲 嬰ハ短調 作品3-2




辻井伸行 “ debut ”

2007年11月03日 22時41分15秒 | クラシック音楽
辻井伸行のCDは2005年のショパン・コンクールでのライヴ音源が先に発売されているものの、これが公式としてのデビュー・アルバム。1枚目はクラシックの演目で、2枚目が自作曲を並べた構成になっている。

自作曲の中では “ ロックフェラーの天使の羽 ” が飛び抜けて素晴らしい(試聴はこちらで可能)。一昨年、NHKの『スタジオパークからこんにちは』に出演してこの曲を弾いた時は当アルバムよりも情熱を帯びていた気がするが、切々と歌い上げているこの収録版も哀感が胸に沁み渡る。ライナー・ノートに記載されている通り、深々と降り積もる雪の様子や天使の羽のオブジェに触れた彼の感動が直裁に伝わってきて、冬の夜に聴けば尚更感慨が深くなる事だろう。雪降る夜空一面に、あたかも私達1人1人が胸を泣かせながら両の手を仰いでいるかのように…。この曲を小学6年生で作曲したというのだから、彼の感性が如何に早くして人一倍豊かであったかが分かる。
3曲目の “ 花水木の咲く頃 ” は春特有の感傷さが匂っていて、別れと出会いの交錯、新たな始まりの中にあって幸福だけれどもちょっとした憂いも微香を差す、そうしたものが静々と流れている。レコーディングの前に彼が花水木に触れて香りを楽しんだ故に生まれた即興的な作品との事だが、こういうフレーズは嗅覚が鋭敏な者でないと湧き上って来ないだろう。

クラシックの曲目では “ スケルツォ第2番 ” や “ 英雄ポロネーズ ” 、“ メフィスト・ワルツ第1番 ” は淀みがない。一気呵成に最後まで聴かせる。盲目のピアニストという形容は、彼にはもはや不要だ。一方 “ 子守唄 ”や “ 亡き王女のためのパヴァーヌ ” & “ 水の戯れ ” では、もう少し弱いタッチを散りばめて弾いても良かったように思う。
総じて敢えて難を言えば、演奏が実直過ぎる。つまり、良い意味での遊びがないのだ。古今東西種々雑多なピアニストを聴いている者にとっては、その辺りの面白さが感じられないかもしれない。テクニックは圧倒的で申し分ないのだから、ファンとしてはそこから先をどう表現していくかに期待していきたいと思う(もしかしたら、彼にとってはライヴの方が実力を発揮できるのかもしれない)。

とかく音色が美しい。生演奏に触れたら、それがもっと伝わってくるだろう。演奏者の性格が演奏にそのまま反映されるという事が、十二分に再認識させられるデビュー・アルバムである。
クラシックの楽曲と自作曲、どちらも片手間にならないよう活動していくのはなかなか困難なのかもしれないが、彼の感性を余すところなく感受したい者としては今後もその両輪で活躍して欲しいと切に思う。




ふみ子の海

2007年11月01日 23時59分26秒 | 映画
原作:市川信夫
監督:近藤明男
脚本:篠原高志
音楽:沢田完
出演:鈴木理子、高橋惠子、藤谷美紀、高橋長英、中村敦夫、水野久美、高松あい、あおい輝彦、遠藤憲一、遠野凪子、平田満、尾崎千瑛(他)



<物語前半の粗筋>

昭和10年の新潟県頚城郡。幼くして盲目になってしまったふみ子は、8歳の時に高田盲学校の教師・高野りんと出会い、点字の存在を知る。しかし貧しいふみ子には、盲学校へ通うだけの余裕は無い。本家の大旦那・善吉に必要な金額を用立ててくれるよう頼んでみるが、逆に働いてはどうかと持ちかけられる。新潟県高田の按摩屋が、ふみ子を弟子にしてくれるというのだ。ふみ子の母・チヨは、ふみ子を盲学校に通わせようと奮起するが、その矢先、病に倒れてしまう。 ふみ子は母を助けたい一心で、雪の中を一人、善吉を訪ねるのだった。
行商の古川に手を引かれ、ふみ子が弟子入りしたのは高田の按摩・笹山タカ。 来る日も来る日も厳しい按摩の修行。真っ赤に腫れあがる、ふみ子の小さな手。 辛い修行の中、心の支えになったのは、あの日海で拾った小さな巻貝。耳に当てれば、潮騒が響き、大好きな海を感じる事が出来る。たくさんの温かい人々に巡り会い、ふみ子は一人前の按摩へと成長してゆく。
そんなある日、ふみ子はかつて点字の存在を教えてくれた高野りんと運命的に再会。タカに内緒で盲学校に通い、点字を習い始めるふみ子。 「字が読める、目が見えなくとも教科書が読める!」 その喜びは、一旦消えかかっていたふみ子の向学心に火をつけた。皆が寝静まったあと、暗闇でヘレン・ケラー自伝に小さな指を這わせ、未来への大きな道標を得る。
しかし、運命はそんなふみ子に、思いがけない試練を与えるのだった…。



現在公開中の映画 “ ふみ子の海 ” 。原作は市川信夫の同名小説で、彼は小学校教員、盲学校・養護学校の教師として人間の原点を学び、また、児童文学に志して坪田譲治に師事したとの事。

注)ネタバレの感想なので、これから鑑賞したいと思っている方は、この先を読まないで下さい。



殊更この映画は、ふみ子を演じた鈴木理子のひたむきさと逞しさが光っている。撮影当時10歳であった彼女の、役柄に素直に心を注いでいる様子は鑑賞する者の心を掴み、その献身さが本作を一等秀でさせていると言っても過言ではないだろう。健気でもあり凛々しくもあるふみ子の姿を見事に演じていて、非常に好感が持てる。例を挙げれば「海の音を持って歩く」という台詞が前者を、「舌で花見するんだ」という台詞が後者を如実に物語っていて、特に後者では陸軍少尉相手に発するその言葉と共に表情が気高く、ふみ子の意志の強さを決定付けている。
また、按摩の師匠・笹山タカを演じた高橋惠子も名演。ふみ子に厳しく接しながらも、完全な冷徹人間ではなく温かみを持った人物だという事が登場序盤から伝わってくる。物語が進むにつれて優しさを帯びてくる加減が実に上手い。
母の元を離れて本当は心細いはずであろうふみ子と、自身もまた盲目で苦労してきたタカの遣り取りは、まるでもう1組の親子のように映る。「目の見えない者同士が騙し合ったら何を信じるんだい!」というタカの台詞が、それを端的に表しているのだ。こうした師匠と弟子の関係は、今では失われつつあるのかもしれない。
 

ふみ子の姉弟子・サダは、劇中同じ台詞を2回言う。「オラ、何でして生まれてきたんだろう」、と。特に2度目の、病院の床でそれを口にした直後に「お母ちゃん」と発して息絶えてしまう姿はあまりに痛い。
滝壺薬師の住職である慈光は、本堂に群がって読経する盲目の者の前で「自分の無力さを突き付けられている」と、無念さを口にする。昭和初期、貧しさ故に満足に母乳が出ず、結果、子供の栄養失調が盲目に至ってしまったというケースがこれ程までに多くあったという事を、恥ずかしながら今回初めて知った。サダは失踪してしまったふみ子を捜そうとして命を落としてしまう訳だが、仮にそういう運命に至らなかったとしても、貧しさ(=盲目)という出発点が彼等彼女等の前に厳然として立っているのだから理不尽極まりない。

盲学校の教師・高野りんが、ヘレン・ケラーに会いたいというふみ子の気持ちをタカの前で代弁し、どうか1日だけ按摩を休ませて欲しいと懇願する場面がある。「サダだって生きてりゃヘレン・ケラーに会いたかったろうよ」と言うタカ。しかしそう口にしながらも彼女たちの願いを聞き入れ、「はぁ、煩わしい」と言いながら座敷を立ち去ったタカと、その直後に号泣するもう1人の姉弟子・キクの姿にはどうしたって泣けてくる。ふみ子が涙を見せていないのに、私たち観客が、だ。何故ならそこに至るまでに、ふみ子がどれだけの困難にぶつかり、どれだけの人に助けてもらったかを、本編の流れを受けながら私たちも投影的に縷々と経験しているからだ。

しかし欲を言えば、ふみ子が按摩の修行へ出ると決心した際の、母・チヨの葛藤を描いて欲しかった。本当ならば盲学校へ行かせてやりたかったのに貧困さが娘の学業を絶たせずにはいなかったからで、その辺の親としての辛さ・無念さが描かれていれば尚、それを乗り越えよう(母を助けよう)とするふみ子の逞しさが光って映っただろう。
更に言えば、題名が “ ふみ子の海 ” なのだから、主人公と海にまつわるエピソードをもっと挿入して欲しかったとも思う。そうすれば、ふみ子が持ち歩いていた貝殻も、小道具として更に活きただろう。

演出も音楽も声高に叫ぶ事なく、かといって終始淡々としている訳でもない。ふみ子にいつも寄り添うかのように流れるテーマ音楽は壮大で、しかし大袈裟ではなくしみじみと響く。まるで、ふみ子が携えていた貝殻から聴こえる潮騒のように。
音楽を担当した沢田完は、山本直純のもとでアレンジャー・オーケストレーターを務めたとの事。

点字も按摩も、どちらも指先の細かな神経を使う行為。ふみ子にとってのその2つの関係性が掘り下げられて描かれているのかどうか、原作が読みたくなった。




世知辛く悲惨な事件が後を絶たない現代にあって、映画に限らずこうした作品はもっと多く生み出されるべきだろう。
実話が基になっているからでもなく、登場人物がハンデを負っているからでもなく、ましてや御涙頂戴的な演出があるからでもなく、切々と訴えかけてくるものが真摯に息衝いているからこそ、心の底まで感銘できるのだ。

労りとは何であろうかと考えさせてくれる映画でもあり、子供時代の麗姿を海面に揺らぐ光のように甦らせてくれる映画でもある。