創造的深化

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青少年期と学校

2015-09-12 11:03:24 | 教育
少年少女期とは年齢的におおよそ10歳以上位からを指すのだろう。当然、個人差があるのは、成長が必ずしも年齢とイコールにはならないからだ。年齢で画一的に、ある限定的な概念を固定化したり、あるいは平均化して個人の姿を消してしまう資料主義がえてして落ち込んでしまう場所ともいえる。私たちが青少年期とあえて取り出そうとしている理由は、人は成長とともに自分自身の「性」を意識し始めるからだ。それはあるとき徐々にしかし突然、身体の変化とともに対自的になることを強いられ、成長する自分の身体と向き合い、強く内向し、個人としての自己意識に目覚めることを強いられる時期でもある。それは家族を意識し、家族と対峙し自己世界を作り上げる契機でもあり、生殖行為が可能な異質な段階へと入ることにある。その戸惑いと躊躇と自制と、性欲の衝動やその解放とも絶えず身体の内側から突き上げられながら葛藤を始める時期になる。異性への憧れは質を変え始め、人間的自然である性行為と性愛と、実態としての社会環境と、家族や学校や 地域といっ共同性と自己性欲とが分裂を強いられ、自分のいままで気づかなかった強い衝動は、自覚や自己抑制と葛藤を強いられながらも、巨大化していく身体の性衝動が、粗暴な行動や、異常性や残酷さへと変化することに気づくと共に自制できない細胞内に託された性衝動が噴出を始める。
 しかし、今まで続いてきた日常は変わりなく連綿として周囲では続き、自分の変化と周囲の停滞との異和感は異質な社会意識をも感じさせる。ある行動やある意識が自己コントロールの効かないことだとも感じるが、その不協和音や不連続音、不快音や反響さらに変調は今まで感じなかった外圧との格闘であり、人類が生存し続けてきた性欲と性行為と性愛と、異性として直接的にあらわれてきた異性全体の性の実質的な疎外の対象、その共同性としての異性の意味を、精神という人類の蓄積の別の意識世界の体系で推測すべき課題を与えられる。無倫理な衝動と倫理な社会との狭間での葛藤が始まる時期でもある。
 しかし、人間は植物的な生命の起源をも同時に宿している。つまり、異性との性行為を主導する激しい動物的な願望と同時に、植物的な静的身体の営みとを続ける身体域との同在が、身体内部の激変と同時により顕著に自身を分裂させ格闘させる。この青少年期の変化こそが、よくいわれる不安定な時期ということになる。動物性と植物性との身体内葛藤は、精神の深層をも揺さぶり、無意識の内部に睡る精神の核の沈下した部分を、より鮮明に露出させ明るみに登場させることになる。内向と外向の格闘であり、またまるで二重人格のように作用し、それらの精神統合ができるまでに多くの時間が要求される場合も出てくる。一生涯抱えなければならない神経症や統合失調症、パラノイアといった精神病理との葛藤に悩む場合も発生してくる。
 青少年期は社会性が未だ未成熟な分、生きていくための手段としての生活あるいは労働による矛盾や差別や、駆け引き妥協や虚偽や偽装といった、資本制社会の中で生きるためにやむを得ず習得し、実行し体得していく関係意識がまだ十分に芽生えてはいない純粋さと同時に、次第に目に入る社会性の模写としての悪と善の誇張された歪みが、顕著の模倣あるいは模写される時期でもある。
 また自己内部では次第にそのバランスが両極化し、内面世界の広がりと確保は自己内世界の領域を拡張し、 極度に領域を膨脹しはじめている内面の精神の部分と、身体内部の細胞のひとつひとつから突き上げてくる身体の変化と性の衝動との間を自己の領域として、親、親族、仲間や知人や社会との関係に再度自己意識の触手を伸ばし、距離を確かめながら、 社会適応の学習をしていく。習俗というそれぞれの地域の特性を受け入れながら、もっとも多感な感性を研ぎ澄まし、濃密な時間を享受していく。仲間との共時的なさまざまな体験や、親族との関係は自由を広げようとする心の遠隔対象性と、彼等や社会から受け取る現実の抑止や規範と出会う。 共和制と背反や葛藤と同時に、膨大になっている自己世界と、それ以外の過少な他者の世界をどう自我の中に受け入れて位置づけ、その精神世界のための領域を占有させていくか。この受け入れなければならにない他者という意識の了解は、過去に親や親族などからすり込まれている無意識の領域のあり方にも影響されてしまう。他者はあるがままの他者として自我意識の中に対象備蓄される場合と、実像が歪められ、変形されて一種の病理として登場する場合もある。こうした個人によっての多様性はあるが、この時期に乳幼児期に次いで大きな人格形成の第二段階を迎えるといえることになる。男子は母親に対しては、まだ幼児性の部分を保持しているため、母もしくは女性に対しても母性への甘えと憧れを二重化して保存せざるを得ない。そのは少年少女期を本来なら脱出して良いはずの年齢になっていたとしても、抜け出せずに保存せざるを得ない心の病理を抱えている場合もある。逆に女子は同性である母と同化するか、拒否することで異質の欠落したはずの女性像である同性か、父性としての男性を求めることになる。 しかし、いずれも仮構された両親への撞着か離反が性としての心性に作用しているのが、この時期である。
 この時期における西欧近代の教育の柱は、いわゆるスパルタ教育だった。ヘーゲルの考えを反映し、性衝動が身体を突き崩すほどに激しく噴出するこの時期には、徹底的に抑え込む。この方法が最良といえるとは考えられないが、折檻や体罰による躾は、もっとも近代西欧的な教育の柱であった。しかし、これでは、バランスの良い精神の発達や学習と成長は臨めないという現代教育が、それを否定することで誕生してきている。こうした教育の変換は、抑制の紐を緩めた。 モラルの柱を失い、一気に自由な振る舞いが若者達に蔓延した。動きは拍車がかかる。性愛は低年齢化し、性と妊娠は分離され、関係する相手は同世代から異世代へと拡がった。多重に社会の変化に影響を受けて、学校という不自然な時期は、やがて矛盾を噴出し、教育全体の内容すべてが青少年期に同伴する課題として社会全体をも左右することになっている。


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