創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

性意識の源泉とは

2015-12-01 11:00:37 | 意識・意思・精神
■性意識の源泉とは
幼児期の夫婦の不和や結婚の不幸ともいえる状態は、小児の性愛の発達障害を生じる原因となる。小児は神経症にかかる可能性を持つのは、小児期の経験が親との関係性が根源となる。嫉妬深い男性、不感症で夫に冷たい女性なども親との関係障害が成人となってから生じる例だ。すべては幼児期の両親との関係にある。
 本人に責任はないが、本人の解決方法は相手を誤りなく選ぶということになる。ただし、成功は困難を伴う。男性にとって、子供の時の母親あるいは、手にゆだねられた他の女性との情愛の記憶は、女性を選択するうえで重要となる。父親に対する幼児期に経験した威圧や、父との競争的な立場は同性愛を避けさせる働きをする。もしこの父性が欠落している場合、同性である男性を父親像として求めることがある。その場合の自分は女性である母親と同化している。つまり性目標の倒錯は一方では正常な発達の抑制であり、他方ではその解体でもあると考えられる。つまり、性愛の相手は小児期の多様な興奮が総括されて位とつの統一体となり、同性もしくは異性を対象として選択する。その性的欲求が保護者との関係で形成される。フロイト理論は、小児はすでに性活動の萌芽を携えて誕生するものであり、栄養摂取がその性の満足を生み出す源泉にもなっていると指摘した点にある。そして「おしゃぶり」行為が、その確認行為だということであった。しかし、2歳から5歳くらいの間に潜伏期にはいるために、思春期に初めて性欲が出現すると考えられがちである。その誤認を理論づけたものだった。その潜在期においてすら性的興奮は活発に活動しており、そのエネルギーはそれ以外のものへと分散していると考えた。それをフロイトは「小児期における性欲動は中心を持たず、対象のない自体愛だ」と考えた。

幼児性と不安症

2015-12-01 10:59:57 | 意識・意思・精神
幼児性不安症
 自分が愛している保護者がいなくなりはしないかという不安 が、幼児のもつ根源的な不安のひとつだ。様々な要因は、幼児期の音もそのひとつになる。ふだん生活環境の中で接していなかった音や音量は、幼児の不安を掻き立てるし、見知らぬ人物との出会いは見慣れていないということでの不安であり、暗闇は保護者が見えなくなることからくる不安でもある。リビドーを満足させることができなくなると、不安を感じるという。また逆に、成人でもリビドーが満たされずに神経症になっていると、不安から小児のように振る舞ったり、保護者のように愛してくれる人物がいないために孤独に耐えられず、不安や恐怖を解消するために、子供っぽいやり方で解消しようと心のバランスを取ることがある。

思春期をどうとらえるか

2015-12-01 10:57:43 | 意識・意思・精神
■思春期をどうとらえるか
 フロイトにいわせると思春期という子供から大人へと移行する過渡期は、心と体の発育過程が分離してしまう。しかし、「性器の神経支配」にまで及ぶ「激しい愛の激情の爆発」により、正常な「愛の機能は統一」されるのだという。誰しもが感じ、ほとんどの心理学者や教育者も同類のことを言っている。ただ、性器の神経支配と表現した学者は見たことがない。身体が急激に脱皮していくように大人へ身体的な変身を遂げることは確かだ。細胞内に組み込まれた遺伝子が、有性生殖の宿命を身体内部のひとつひとつの細胞に創造主が命令を下すとしか言いようがない。神とはいえないが、生命を誕生させた創造主が作り上げた宿命に従い、私たちは命の継承の役目をひとりひとりの体が受け継いでいることは確かだ。冬眠していた「性」がムックリと起き上がる。しかし、予告なく突然、その命令は私たちの身体内部から目を覚ます。この時、人間は自分の体と「対自的」になる。つまり向き合うことを強いられる。しかも、性の欲動はまさに異性を意識するように激しく突き上げることは確かであり、その快感を対自的に体感し、自己内へと閉じ込める快感が初めに訪れるといえる。この快感をともなく性の実行行為への誘惑や、性についての現実的な情報は、このときから切実な課題となって突然出現する。実行を伴う性愛の現実は、閉じることと、外に向かうべきこととの両極が分離した状態で襲い掛かってくるともいえる。この両極と向き合う事態を、個人で受け止めることになる。このとき、乳幼児期から無意識に形成されていた人格のすべてが、大混乱を起こしながらなんとか実社会と折り合いをつけようと、今まで過ごしてきたように自分の変化した体を、日常の生活のなかへと連れ出さざるを得ない。ただし、自分が昨日とは違っている。異性が、別の存在として現れる。もちろん自分の別の存在となっているに違いない。しかし、何事もなく変化のない、今まで通りの日常が周囲は流れている。これが、身体に変化が起きてからの象徴的な実感のはずだ。「性器の神経支配」は、性欲動の奇襲から身体内部の遺伝子の命令で始まった。むろんリビドーも表裏一体となって現実社会をゆがめて見せる。「激しい愛の激情」は、性対象として異性へと関心が激変してしまうにもかかわらず、精神的な交流が新たな課題として現れる。相手は性の対象であるはずにもかかわらず、心の世界も広がりを見せてくる。愛の幻想と現実との落差、性の欲動と性対象としての異性との均衡をどう折り合いをつけるべきかが、このとき実は大きな、しかも人類にとっての普遍的な課題として個人を捉えていることになる。異性へのあこがれと現実的な性行為とは、どう折り合いをつけるのか。「愛の機能の統一」などという、たやすい言葉で済ませるものではないことが分かるはずだ。このとき、個人をなにが左右するかで、本人の生き方も大きく変わるはずだ。

人類とは

2015-12-01 10:56:18 | 意識・意思・精神
人類とは
動物と異なる「原人間」は観念的前提を獲得していた。しかし、それは自然過程に不要ではあった。そして原人間があらゆる観念の世界を組織化し、あるいは体系化した。そして、さらには桎梏や矛盾をも生み出していった。その過程こそが、人類の歴史過程であると言い直してもよかった。

フロイトの性倒錯の意味と本質

2015-12-01 10:55:18 | 意識・意思・精神

■フロイトの性倒錯の意味と本質 
 この幼児期の食と性の混合を、人間がもつ植物神経系器官としてとらえ、口腔から胃や腸を経由して肛門へとつながる植物の茎から根を、口と肛門を幼児期という受乳期の食から幼児期の排泄快感までを展開しているとまとめた。こうして乳幼児の性理論は、フロイトにとって食と性の満足を、リビドーという飢えで接続している。もっとも低次の植物神経の食の飢え=性的快感の飢えが、乳幼児期のフロイトの性理論の原型といえよう。
 また本能の根底にある異性との性欲動と、その充足を満たすものではない「性欲」の発動は、「倒錯」=「変態」と規定する。つまり性欲動が生殖目的であれば、人間的自然本性として、正当でゆがみのない性だとしている。しかし、吉本はフロイトのこの考えを次のように批判する。
 ●「性欲」は人間において大なり小なり<観念>的であり、そのためそれ自体を自己目的としうるという性格をもっている。いいかえればリビドーとして<倒錯的>でありうるということは、大なり小なり人間をその他のすべての動物から区別する標識であるといっていい。<倒錯>は人間的な矛盾がもっともよくあらわれている。人間は<類>的な存在として本質を貫徹しようとするとき、「性欲」の対象に向かう志向性を<倒錯>とするという矛盾に当面する。そしてこの矛盾がもっともはげしく露わになる時期を<個体>の生命の過程に求めれば、<アドレッセンス初葉>がもっともその時期にあたる。(心的現象論本論:吉本)

 ここで吉本は観念の世界が性と出会うことで、自己矛盾にさらされていることを指摘している。フロイトは生殖行為以外はすべて倒錯としてしまうのに対して、吉本は人間が持つ観念的な世界が原因となって性の多様性が生じてしまうのだ。ここに人間が抱える性的矛盾が存在すると指摘している。特に、それが顕著に生じる時期は思春期だと断定する。性の多様性を志向しあるいは考えてしまう人間の観念の世界は、それ自体で倒錯的であるともいっていることになる。仮に同性愛は性倒錯であるとして、人間本来の性愛からは外れてしまう異常性だと位置づけ、そこに原因があることを論証するフロイトと、別の極から俯瞰して人間が抱えてしまう観念的な世界が、性の矛盾をも生み出す必然性を指摘している吉本の理論がある。この両者ともに性の意味を形容し、捉えることのできている本質論であるといえよう。
  倒錯批判の根拠の論点(追加)
 性欲を生殖目的から切り離して、リビドーから倒錯をなしうるのが「人間の本姓」だと吉本は規定した。人間の思念は、観念の世界を宇宙の果てまででも独り歩きさせることもできる。性欲あるいは欲望対象を、思念の対象としてさまざまに拡張や萎縮をもさせることで多様な性の実践方法や性愛の相手の選択を可変的にすることなどたやすいことであった。フロイトが身体の諸器官に性的意味を与えようが、それは誇大に固着したフェティシズムという観念にすぎないともいえる。もし性愛の空間的な場に制約があるとすれば、二義的な手段で代替えの世界を生み出すことすらも観念の世界はやってのけることができる。たとえば直接の接触のない画像での性的解消も、音声による性的対価行為も意識が生み出しうる「倒錯」の世界といえる。これを吉本は「観念の性」ととらえているが、幻想の性といいかえてもよかった。なると、私たちが婚姻し家庭という場を確保することの意味は、観念の世界が生み出す性と、器官的な直接的性愛が同時に満たし得る矛盾のない空間ということになる。性器官による異性同士の一対一の直接的な関係が、もっとも本質的な関係といえるが、ここでも「倒錯」は可能である。 
                    (訂正を加えて再掲)