創造的深化

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フロイトの性倒錯の意味と本質

2015-12-01 10:55:18 | 意識・意思・精神

■フロイトの性倒錯の意味と本質 
 この幼児期の食と性の混合を、人間がもつ植物神経系器官としてとらえ、口腔から胃や腸を経由して肛門へとつながる植物の茎から根を、口と肛門を幼児期という受乳期の食から幼児期の排泄快感までを展開しているとまとめた。こうして乳幼児の性理論は、フロイトにとって食と性の満足を、リビドーという飢えで接続している。もっとも低次の植物神経の食の飢え=性的快感の飢えが、乳幼児期のフロイトの性理論の原型といえよう。
 また本能の根底にある異性との性欲動と、その充足を満たすものではない「性欲」の発動は、「倒錯」=「変態」と規定する。つまり性欲動が生殖目的であれば、人間的自然本性として、正当でゆがみのない性だとしている。しかし、吉本はフロイトのこの考えを次のように批判する。
 ●「性欲」は人間において大なり小なり<観念>的であり、そのためそれ自体を自己目的としうるという性格をもっている。いいかえればリビドーとして<倒錯的>でありうるということは、大なり小なり人間をその他のすべての動物から区別する標識であるといっていい。<倒錯>は人間的な矛盾がもっともよくあらわれている。人間は<類>的な存在として本質を貫徹しようとするとき、「性欲」の対象に向かう志向性を<倒錯>とするという矛盾に当面する。そしてこの矛盾がもっともはげしく露わになる時期を<個体>の生命の過程に求めれば、<アドレッセンス初葉>がもっともその時期にあたる。(心的現象論本論:吉本)

 ここで吉本は観念の世界が性と出会うことで、自己矛盾にさらされていることを指摘している。フロイトは生殖行為以外はすべて倒錯としてしまうのに対して、吉本は人間が持つ観念的な世界が原因となって性の多様性が生じてしまうのだ。ここに人間が抱える性的矛盾が存在すると指摘している。特に、それが顕著に生じる時期は思春期だと断定する。性の多様性を志向しあるいは考えてしまう人間の観念の世界は、それ自体で倒錯的であるともいっていることになる。仮に同性愛は性倒錯であるとして、人間本来の性愛からは外れてしまう異常性だと位置づけ、そこに原因があることを論証するフロイトと、別の極から俯瞰して人間が抱えてしまう観念的な世界が、性の矛盾をも生み出す必然性を指摘している吉本の理論がある。この両者ともに性の意味を形容し、捉えることのできている本質論であるといえよう。
  倒錯批判の根拠の論点(追加)
 性欲を生殖目的から切り離して、リビドーから倒錯をなしうるのが「人間の本姓」だと吉本は規定した。人間の思念は、観念の世界を宇宙の果てまででも独り歩きさせることもできる。性欲あるいは欲望対象を、思念の対象としてさまざまに拡張や萎縮をもさせることで多様な性の実践方法や性愛の相手の選択を可変的にすることなどたやすいことであった。フロイトが身体の諸器官に性的意味を与えようが、それは誇大に固着したフェティシズムという観念にすぎないともいえる。もし性愛の空間的な場に制約があるとすれば、二義的な手段で代替えの世界を生み出すことすらも観念の世界はやってのけることができる。たとえば直接の接触のない画像での性的解消も、音声による性的対価行為も意識が生み出しうる「倒錯」の世界といえる。これを吉本は「観念の性」ととらえているが、幻想の性といいかえてもよかった。なると、私たちが婚姻し家庭という場を確保することの意味は、観念の世界が生み出す性と、器官的な直接的性愛が同時に満たし得る矛盾のない空間ということになる。性器官による異性同士の一対一の直接的な関係が、もっとも本質的な関係といえるが、ここでも「倒錯」は可能である。 
                    (訂正を加えて再掲)

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