創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

信仰の空間凝縮

2015-12-01 10:42:05 | 意識・意思・精神
信仰の空間凝縮
 古代の心性として、場所や物などの空間に魂あるいは霊的な何かが宿るという転化が考えられていたといえる。もっとも初源では、より広い広域の空間であり、天空や大地や山全体や海るいは海のはるかかなた全体と考えられ、イメージが大きく膨らんでいた。やがて広域の場所は、より具体的で身近な物へと凝縮されていく。たとえば山の高所や高所にある巨木や巨岩といった対象に意識が絞られていく過程をたどっていった。そらに、それらの遠方からより身近な信仰の対象となり得るトーテムへと移動し、さらに収縮していく。そしてより具体的な対象として人間へと転化され、死者や現人神への信仰へと空間凝縮していったと考えられる。

さらなる拡張としての自己表出

2015-11-30 14:40:58 | 意識・意思・精神
さらなる拡張としての自己表出
自己表出とは、自己意識の全体ではない。自己意識の内で言語化して表現しようと意欲された意識の部分を指している。つまり、意思して、恣意的に外部世界に自分が何かを発しようとする表現であり、その表現を介して自分は外へとなにかを発信する。そのためには行為としての、いずれかの様式が選択される。表出されようとしない沈下している自己、無意識の自己、沈黙する内在化する自己は、この「自己表出」では排除される。
 ただし、固有の自己であり、自己意識が立脚している幻想性としての意識の場が前提となる。
 意識の発信は具体的な現実の行為であり、音声のみではない。声や音を出さない身体のあらゆる仕草、あるいは形態かもしれない。道具を利用した音かもしれないし、感情が抑えきれずに外に現れてしまった感情表現の何かかかもしれない。意思を持って表現される心の中と、それが外化された全領域にまで及んでいる表現である。つまり、それらはさらに適正に細分化すべきであり、私たちはそれらを自己内表出意識と自己外表出表象と区分することで拡張しようとしている。しかも、さらに敷衍すれば自己表出を空間という場所の概念を導入すると、自己がここにいる、という場所の空間性をも含意している。この意識は他人ではないということが前提で、自己存在の位置が無としてではなく、有として存在する自己空間を占有している。その自己意識の空間としての場が、表出意識をさらに細分化する。では、ここには時間制は存在しないのか。ここに存在する固有な個には、今ここにいる現在の時間性も、かつていた過去の時間性、さらには未来の時間性も含む。表出意識には、こうして自己空間性と自己時間性が拡張解釈すべきであることがわかる。

心とは

2015-11-05 13:51:52 | 意識・意思・精神
心とは
生物学者の三木成夫が「心と感覚という二つの世界は異なっている。」という論究から、吉本隆明は「自己表出と指示表出に関係している」のではないかと、自己の理論に取り入れて発展させたのが「母型論」であり「大洋論」であった。そもそも吉本は自身の言語論である「言語にとって美とはなにか」で「自己表出=自己意識」と「指示表出=自己意識の言語表現」を初めて使っている。吉本言語論は精神の動きを言葉を使うという概念に限定し、文学芸術論として展開した初めての試みでもあった。ただ、一方では「心的現象論」として意識世界を論じていたが、この三木成夫の心と感覚の理論が、「自己表出=内臓系の心」と「指示表出=体壁系の心」となって拡張されることとなる。

元少年Aのこと

2015-10-28 10:47:19 | 意識・意思・精神
元少年Aによる「絶歌」を読むこと自体、このFBでは一部ご批判もいただいた。しかし、現代の心の病理と、原始あるいは古代の心性の中にある共同性あるいは普遍的了解との間に橋をかけられないものか。この視点と、現代が生み出す病理の構造を暴くことで、取り組んでみている。彼自身の抑えがたい性的サディズムの心性と、親や社会からの彼が受け取る過敏に抑圧の発現が、少しずつ解き明かされつつある。もう少し、お待ちいただきたい。

サディズムとマゾヒズム 

2015-10-10 11:12:05 | 意識・意思・精神
「有機胎内で作用する死の欲動(根源的サディズム)はマゾヒズムと一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に転化され終わったのち、その残余として有機体内には本来の性愛的マゾヒズムがのこる。」(フロイト:同)
 少年Aが淳君殺害後、死への願望が生じたのはのは、まさにフロイトが分析する充たされたサディズムが、マゾヒズムへと転化し殺されたい要求にかられた精神状態を裏付けている。外部へと投射されたサディズムの行為は、その破壊欲求が自己内部へと求心的に内面へ向けられたわけだ。 無意識的罪悪感が処罰欲求へと転化したとも言い換えられる。