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先祖供養、特に傍系先祖を祀って感じたのは、自らの慈悲心の欠如である。何故かしきりに、傍系の場合は供養をシテアゲテイルって、不遜な思いが実施中も湧き上がるんだ。「そんなことを考えちゃいかん」と思いつつもどうしょうもないんだな。直系先祖の時は、これ程は思わないのにね。・・・自らの最低な面を、神聖なご供養の場で先祖に告白しているようなもんですよね(笑)。自分自身、色々と精神状態のコントロール、ここでは「慈悲心」をいかに持続させて供養に臨めるか悩んだ時期があった。
数年経って、「そう云えば、うちは日蓮さんもそうだが、お大師さんにも縁が深かったなぁ」と思った。そこで、普段寝室に使っている部屋で、奥の院にある大師御廟をイメージし、お大師さん・稲荷大明神・高野大明神に先祖の冥福を祈願した。すると如何だろう、全然傲慢な気持ちが起こらないんだ。それから家にある神棚に手を合わせる時には「南無大師遍照金剛」って最初にお唱えすることにしている。
先祖供養で不可欠なものは「大悲」であると思います。お大師さんは大悲の塊なんでしょうね。私のような凡夫にでも信仰を通じて、その何分の一かでも呼び起こしてくれる。本当に有り難いことです。
数年経って、「そう云えば、うちは日蓮さんもそうだが、お大師さんにも縁が深かったなぁ」と思った。そこで、普段寝室に使っている部屋で、奥の院にある大師御廟をイメージし、お大師さん・稲荷大明神・高野大明神に先祖の冥福を祈願した。すると如何だろう、全然傲慢な気持ちが起こらないんだ。それから家にある神棚に手を合わせる時には「南無大師遍照金剛」って最初にお唱えすることにしている。
先祖供養で不可欠なものは「大悲」であると思います。お大師さんは大悲の塊なんでしょうね。私のような凡夫にでも信仰を通じて、その何分の一かでも呼び起こしてくれる。本当に有り難いことです。
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