法華経で説かれる一心三観、爾前・権教も此の法華一心三観に開会すれば下種足り得るはずです。
天台で仏宝→阿弥陀・大日、法宝→法華経、僧宝→観世音と説かれたものがあります。
南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華経・南無観世音菩薩での三宝です。阿弥陀、観世音には体として三諦が組み込まれていますから、法華の魂である一心三観を吹き込んであげれば開会の念仏になります。因みに観世音菩薩のお経として延命十句観音経は秀逸です。大日如来は阿字に極まりますが、法報応三身のアバンランカンケン・アビラウンケン・アラハシャナ、阿字三諦が玄義かと思います。法華を軸とした天台の一大円教論は下種にも通じる様に思いますね。
一念三千観は託事・附法・約行の三観あるうち、附法観から派生した教理です。止観の根本は一心三観なんですね。故に天台口伝の一心三観秘訣の多いこと、多いこと。天台が何故阿弥陀に拘るのか?其れは一心三観の御本尊だからなんですね。歴史的にも慈覚大師円仁から始まり、恵心僧都源信等、阿弥陀念仏の行法に凄く肩入れしています。念仏行の守護神として摩多羅神まで祀っていますし。私自身、お念仏を唱えるんで日蓮聖人のような念仏無間観ではまずいんですね。私の浄土教観は西山義が根本ですが、天台の阿弥陀思想も勿論享受しています。お念仏は大変功徳があるんで偏頗な考え方だけは避けて欲しいですね。
阿弥陀如来の因位は法藏菩薩、久遠釈尊は上行菩薩、観世音菩薩は体が其のままなんですが、本は正法明如来で衆生利益のため菩薩として示現されています。大乗仏教の教えで方便と云われようが、爾前・権教と非難されても真の救い慈悲を説いているのは観無量寿経なんですね。法華には阿弥陀浄土も説かれていますが、梵語の法華経では観世音菩薩普門品に法藏菩薩と阿弥陀如来のことも書かれています。即ち観経を法華で開会することにより、浄土の慈悲の教えが仏の真意、極説であることがハッキリする構成になっているんですね。
何故爾前・権教として説いたかと云えば、悪行を静止するためです。機に応じて説いたことにしなければならなかった理由、其れは実の教えで説けば幾ら悪行を行っても最後は仏様が助けて下さるんだと、そのように考える輩を防ぐ意味合いも在るんですね。お経の真意を見抜いた法然上人が浄土教の真意を披歴すると悪行を平然とする人達も実際に現れました。凡夫を教化するのは本当に難しいんですね。
天台で仏宝→阿弥陀・大日、法宝→法華経、僧宝→観世音と説かれたものがあります。
南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華経・南無観世音菩薩での三宝です。阿弥陀、観世音には体として三諦が組み込まれていますから、法華の魂である一心三観を吹き込んであげれば開会の念仏になります。因みに観世音菩薩のお経として延命十句観音経は秀逸です。大日如来は阿字に極まりますが、法報応三身のアバンランカンケン・アビラウンケン・アラハシャナ、阿字三諦が玄義かと思います。法華を軸とした天台の一大円教論は下種にも通じる様に思いますね。
一念三千観は託事・附法・約行の三観あるうち、附法観から派生した教理です。止観の根本は一心三観なんですね。故に天台口伝の一心三観秘訣の多いこと、多いこと。天台が何故阿弥陀に拘るのか?其れは一心三観の御本尊だからなんですね。歴史的にも慈覚大師円仁から始まり、恵心僧都源信等、阿弥陀念仏の行法に凄く肩入れしています。念仏行の守護神として摩多羅神まで祀っていますし。私自身、お念仏を唱えるんで日蓮聖人のような念仏無間観ではまずいんですね。私の浄土教観は西山義が根本ですが、天台の阿弥陀思想も勿論享受しています。お念仏は大変功徳があるんで偏頗な考え方だけは避けて欲しいですね。
阿弥陀如来の因位は法藏菩薩、久遠釈尊は上行菩薩、観世音菩薩は体が其のままなんですが、本は正法明如来で衆生利益のため菩薩として示現されています。大乗仏教の教えで方便と云われようが、爾前・権教と非難されても真の救い慈悲を説いているのは観無量寿経なんですね。法華には阿弥陀浄土も説かれていますが、梵語の法華経では観世音菩薩普門品に法藏菩薩と阿弥陀如来のことも書かれています。即ち観経を法華で開会することにより、浄土の慈悲の教えが仏の真意、極説であることがハッキリする構成になっているんですね。
何故爾前・権教として説いたかと云えば、悪行を静止するためです。機に応じて説いたことにしなければならなかった理由、其れは実の教えで説けば幾ら悪行を行っても最後は仏様が助けて下さるんだと、そのように考える輩を防ぐ意味合いも在るんですね。お経の真意を見抜いた法然上人が浄土教の真意を披歴すると悪行を平然とする人達も実際に現れました。凡夫を教化するのは本当に難しいんですね。