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光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 永観律師に帰依し奉ります。

法華開会からの下種

2023-02-28 21:29:16 | 日蓮・富士門流
法華経で説かれる一心三観、爾前・権教も此の法華一心三観に開会すれば下種足り得るはずです。
天台で仏宝→阿弥陀・大日、法宝→法華経、僧宝→観世音と説かれたものがあります。
南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華経・南無観世音菩薩での三宝です。阿弥陀、観世音には体として三諦が組み込まれていますから、法華の魂である一心三観を吹き込んであげれば開会の念仏になります。因みに観世音菩薩のお経として延命十句観音経は秀逸です。大日如来は阿字に極まりますが、法報応三身のアバンランカンケン・アビラウンケン・アラハシャナ、阿字三諦が玄義かと思います。法華を軸とした天台の一大円教論は下種にも通じる様に思いますね。 

一念三千観は託事・附法・約行の三観あるうち、附法観から派生した教理です。止観の根本は一心三観なんですね。故に天台口伝の一心三観秘訣の多いこと、多いこと。天台が何故阿弥陀に拘るのか?其れは一心三観の御本尊だからなんですね。歴史的にも慈覚大師円仁から始まり、恵心僧都源信等、阿弥陀念仏の行法に凄く肩入れしています。念仏行の守護神として摩多羅神まで祀っていますし。私自身、お念仏を唱えるんで日蓮聖人のような念仏無間観ではまずいんですね。私の浄土教観は西山義が根本ですが、天台の阿弥陀思想も勿論享受しています。お念仏は大変功徳があるんで偏頗な考え方だけは避けて欲しいですね。

阿弥陀如来の因位は法藏菩薩、久遠釈尊は上行菩薩、観世音菩薩は体が其のままなんですが、本は正法明如来で衆生利益のため菩薩として示現されています。大乗仏教の教えで方便と云われようが、爾前・権教と非難されても真の救い慈悲を説いているのは観無量寿経なんですね。法華には阿弥陀浄土も説かれていますが、梵語の法華経では観世音菩薩普門品に法藏菩薩と阿弥陀如来のことも書かれています。即ち観経を法華で開会することにより、浄土の慈悲の教えが仏の真意、極説であることがハッキリする構成になっているんですね。

何故爾前・権教として説いたかと云えば、悪行を静止するためです。機に応じて説いたことにしなければならなかった理由、其れは実の教えで説けば幾ら悪行を行っても最後は仏様が助けて下さるんだと、そのように考える輩を防ぐ意味合いも在るんですね。お経の真意を見抜いた法然上人が浄土教の真意を披歴すると悪行を平然とする人達も実際に現れました。凡夫を教化するのは本当に難しいんですね。
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台当異目

2023-02-08 17:18:11 | 日蓮・富士門流
当家(富士門流→大石寺・保田妙本寺)は証覚の果徳(一心三観・一念三千)を図顕化したものを本尊(妙法曼荼羅)とし、案位の理即から本因妙を説いています。対して台家は証覚の果徳を瞑想・観心の手段・方法として己心を照見しようとしているんですね。行体として当家は従果向因、台家は従因至果になります。案位の理即は蓮祖が初めて説かれた未聞の法理で、此の位から本因妙の仏法、名字即成仏の法門を説いているのが当家なんです。

究竟即の証覚果徳は詰まる処、冥伏していますが名字即果徳と同じなんです。但し究竟即の証覚果徳は法華文上では本果妙、名字即果徳は本因妙となります。亦究竟即は脱、名字即は種です。行観で云えば台家は証覚果徳を広い意味(一大円教論)で行法として捉え、爾前の円も混ぜますから帯権の法門になります。対して当家は爾前の円を混ぜず独一本門だけの証覚果徳のみ観心とする純円行観です。当家の行観は直達正観、法華折伏破権門理を旨としています。

此処で問題になるのが純円です。何故純円なのか?佐渡流罪後赦免され、平左衛門尉から仏法上で下問される内容に爾前にも円があるが(其れではあかんのか?)の問いに、成仏に関して蓮祖は純円正意を主張します。→此処、日蓮仏法の一つの肝の部分なんですね。悪く捉えられた場合、法華原理主義、日蓮原理主義と批判される箇所です。何故純円でないと駄目なんでしょう?天台大師や天台宗は一大円教論を取り、爾前の円を是としています。

想うに、直達正観→証覚の果徳を直道(混ざり気なし)で一心三観・一念三千を己心に返照する観心こそが仏種の正体かと。また其れが真の法華戒、金剛宝(器)戒だと。亦血脈に於いても純円こそ真の法華血脈で、法華血脈こそ仏種の正味だと思います。此の法華血脈とは法体と法門の二つがあり、法門は教理・行法、もう一つの法体は釈尊から蓮祖に人から人に受け継がれる師弟相対かつ唯我与我・師弟一箇の血脈ではないかと考えます。法体と法門の二つが揃っていないと成仏の種に成らないんですね。

人師の血脈を法体と云う其の意如何?本山にある戒壇の大御本尊ではないのかと問われそうですが。戒壇の大御本尊は其の意を具現化した御本尊で、本体は其の意を汲む人に在るからです。其の意を汲む代々の宗門貫主、並びに宗門僧侶が体で在り法体の血脈の正体なんですね。法門の理解だけではなく、先師が定めた化儀に則り法体の意を胎した人師の血脈を汲むことが法理として大切な事柄です。法が勝手に一人歩きして弘まるわけでは在りません。法を胎した人師が衆生に弘めるんです。故に法を胎した人は人法共に尊いんですね。

人師とは誰を指すのか?其れは当家下種三宝中の僧宝、日興上人の法体血脈を汲む貫主であり、宗門僧侶です。創価学会は池田氏を筆頭に挙げていますが、抑々創価学会は宗門僧侶を師匠とした元檀家団体であったことを直視するべきです。師弟の立て分け、此れを踏み外しての論議は戯論でしか在りません。彼等は雄弁ながら仏法の立て分けを無視し、戯論を滔々と吐く謗法団体、提婆達多教団なのです。
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富士門流 非活動でも信心は捨てずに行こうの奨め

2023-02-02 17:37:47 | 日蓮・富士門流
創価を辞めて日蓮正宗に入信しても、法華講のおかしなリーダーに折伏ノルマを課せられたり、何度も登山を勧められたり、良いようにおもちゃにされている感じで嫌になった人も居ると思います。
そんな時は非活動で良いと思います。とにかく信心は捨てずに。
ホント、カルト洗脳教に侵されている変な人も多いので。まあ、創価・顕正の負の遺産ですよね。
只、此の富士門流の信仰だけは本物なので、信心は続けて下さいね。
因みに私も完全な非活動家です。
コメント (68)
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