宗教・占い探玄  

光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 永観律師に帰依し奉ります。

新興宗教の作りかた

2018-12-31 15:10:18 | 日蓮・富士門流
谷口雅春により作られた生長の家の教義。当に仏教各宗旨の盲点を突く部分で構成されている。
宗教と云うものは、その宗教の独自性がどうしても必要です。俗な言い方をすれば、売りが必要なのです。谷口は初めは大本教の信徒だったが、大本が政府から弾圧を加えられるにあたり、教団を去り独自の教義を打ち立てました。

   (天台・日蓮系)        (生長の家)
   本尊・曼荼羅         教団の神・神道系
                  
     ↑              ↑
   観想法・お題目         観想法・観普賢経(何故か仏教系)
    ↓   ↓           ↓
   受容  折伏         万教帰一

生長の家の観想法は神想観と云っていますが、大本の神道教義に観普賢菩薩行法を引用して作り上げたものです。新興宗教と云うのは理論は既存の宗教教義から拝借しているのが殆んどです。
宗教家と云うのは、信者が付いてこそ生活の糧が得られるので、引き込むための「売り」がその教義コアです。しかし、観普賢経とは。目端のきく宗教家です。まず、顕教の仏教教団は殆んど関心を示しませんでした。この観想法をばらして使えば、立派な教義コアの誕生です。瞑想には憑依とか、霊的な影響を受けやすいですが、大本でそんな状況は沢山観ており、対処方法も学んでいるので指導出来たのだと思います。
生長の家では人は神の子と説きます。キリスト教でも同じことを云いますが、大乗仏教でも衆生は仏子→仏様の子供と説きます。
殆んどの宗教はここからスタートします。一つの真理には違いありません。

さて宗教は人間に一つの規範を与えます。行動の枠組みですね。
話は違いますが、道徳や経済も宗教とある意味同じです。一つの行動規範を絶対視させ、そのくびきで大衆をコントロールするのです。例えば借金で首が回らなくなり、死ぬ人がいますが、あんなもので死ぬ必要は無いのです。
社会に迷惑をかけたとか、自分のプライドがとか云うのは、社会が作り上げた「くびき」です。
生き続けて人間はなんぼですからね。死んでも最初のうちだけですよ。直ぐに忘れ去られるんですから。だいたい日本政府がアメリカのボロ飛行機とか、要らんミサイルを買わなければ、どれだけの人が助かるか?こんなアホみたいな国の規範に従い、ちょっとの借金で死ぬ必要はありません。働けず、金が無ければ生活保護を受けましょう。
くだらないプライドなんかは捨てて、再起を期して欲しいです。

私自身、この規範云々で締め付けられる時があります。そんなときは規範の考え自体、緩めたり、無くしたり、否定して自分で規範を作ります。基本は自分、家族が生き抜くに軸を置いています。故に義理を欠くことやプライドなんかは無視するときも多々あります。そんなもので飯は喰えませんからね。大体、この世界を支配している欧米人自体、反社会性人格障害の輩ですから。日本も世相的に精神科チックになっています。それに対応していかないと、心が折れますからね。
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日蓮の是非を論じて

2018-12-25 20:36:24 | 日蓮・富士門流
1・まず云えるのは、日蓮の妙法曼荼羅は自誓自戒の本尊として非常に優れています。
ただ文字曼荼羅なので自分で観想しなければなりません。難しい面が多々あります。

2・法華経の寿量品が最尊であることは理解出来ます。また、お題目が全ての経典のエッセンスだと云うことも受け入れます。しかし、南無妙法蓮華経だけで一念三千を観想したことになるのは無理があるのではないかと思います。
観想はやはり仏像や仏画が手に入れば用いたいです。日蓮の観心本尊抄には教義の説明はありますが、実際どのように文字曼荼羅を観想すればよいか、真言の様な儀軌がありません。
浄土や真言はイメージする方法が経典にありますが、日蓮が説いた事の一念三千には文字をみていて、題目を唱えれば信仰の力で仏の種が得られるとばかり説明されています。日蓮教義は700年以上経過していますが、日蓮教義の僧侶で悟りを開いた人がいないのは本未有善だからでしょうか?

3・法華経の極説である、人は仏子である。人は仏である。と云う説明は、別に日蓮から説明されなくても、他宗旨の僧侶も同じことを説いています。それにも関わらず、絶対的に日蓮が説いた事の一念三千を観想しないと、人は仏に成れないのでしょか?

4・聖教を否定するのは論外であるが、浄土の教えは法華経を受け入れた中で、最も優れた修行方法であると、私は考えています。

5・その理由として、阿弥陀一仏に集中した行法であることが挙げられます。これが非常にやり易いんです。あれも、これもは無理があります。自身が如来と感じることは、事の一念三千と同じです。一仏を観想するなかに十界互具、牽いては一念三千があると考えます。また、念仏の中には三諦の意味もあり、念仏自体が一念三千と同じです。

6・浄土念仏は経典にも修行方法が詳細に載っており、見性した先人の説明が数々あります。また、奇瑞に纏わる話も多岐に亘ります。

7・法然が聖教を聖道門だと脇に置きすぎたのはやり過ぎだと思います。しかし、この法然さん、読んだ経典類は忘れないし、理解した天才です。また、浄土門には過去に沢山の英才たちがこれを許容した歴史があります。信用にたる教えと考えます。

8・仏種と云うのは過去・現在に於ける仏道修行の薫習により熟成されるものです。戒・定・恵が挙げられますが、自身をどれだけ仏と感じたかが問われるところです。日蓮の教義を全面否定はしませんが、自分の教義しか仏種が得られないとする考えは、到底受け入れられません。妙楽の説明を極右化した捉え方だと思います。

9・宗旨と云うのは自宗を標榜するあまり、偏った教義に成らざるを得ない。妙楽は当時の華厳宗・真言宗の勢いから天台を守るため、法華超八を説き他宗の内実をさらけ出しました。法然は浄土のみ末法に叶う行法と定め他の聖教類を信者から遠ざけました。親鸞は阿弥陀仏と久遠実成釈尊をチャンポンにした本尊観を示しました。これは正確に云えば、権実雑乱の本尊観です。また従来の戒律を否定し、阿弥陀仏一仏に対する自身の信仰心を宗教哲学にまで高めました。日蓮もまた自身の教義を示めさんがため、天台教義を右傾化した考えを前提にしています。(と云うより、彼の教義上右傾化しなくては存在意義を見失う内容だった)

10・日蓮の教義は三秘と五綱に尽きるのですが、その精髄は久遠実成釈迦の悟りを自己返観することにあります。要は他宗旨も久遠釈迦と自宗の本尊を同じと考え、自身に返観すれば法華経と同じです。日蓮の他宗旨攻撃は各宗旨に反省をもたらす結果に繋がったと思います。
また、日蓮教義は一般民衆に正法の直道を示した点で非常に優れていると思います。しかし、その教義自体も自由度が無いため、排他性を強くもつ教えになっています。

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日蓮の曼荼羅

2018-12-23 11:01:44 | 日蓮・富士門流
自分の分際も弁えず、日蓮を批判しまくったんですが。まあ、私が指摘したことは大抵の理屈好きの日蓮信徒は弁えていると思います。それでも尚この信仰を棄てないのか?
それは日蓮が説いた法理が究極の教えだからです。
その秘密はやはり妙法曼荼羅にあると見るべきでしょう。
大乗戒は三聚浄戒といって、摂律儀戒・摂衆生戒・摂善法戒を立て、止悪作善をその定義とします。戒律には事戒と理戒があり、事戒はいちいちあれもしてはいかん、これもしてはいかんと規定し制止していく戒律です。理戒は根本の戒律で根本の悪を制止し、根本の善を勧める戒律です。

先程挙げた大乗戒は権大乗戒で事戒です。小乗の具足戒もまた事戒なんですね。理戒は実大乗、即ち法華経の戒律です。現在の日本では権大乗の戒律を授けています。
法華経の戒律は第一義戒として謗法禁断・対本尊の信仰が挙げられています。以上は戒相です。
戒体は持戒による結果です。小乗の戒では無表色を立てて戒体を保存するとしています。
権大乗では心の中の八識に立てています。身・口の表業によって戒体を発するので色法であるとしています。とにかく、表業に重きを小乗戒も権大乗戒も置いているわけです。
それでは法華経の戒体はどこに置くかというと、私達の当体をただちに戒体としています。
小乗と権大乗の戒体は普段の意識や思いとかけ離れた部分に戒体を立てていますが、法華経はありのままの自身の気持ち、意識の中に戒体を立てています。

この法華経の戒体には迹門の戒体と本門の戒体があります。迹門の戒体は一切衆生は皆仏性を持っているから、いかなる者でも仏であるとしています。所謂天台の教義です。
本門の戒体は仏子の自覚に到達していない者は戒体を許さないのです。たとえ十界互具の体でも信じないものは機会が無いのと同じだからです。
天台系の教義に馴れ親しんでいた者からは、ちょっとびっくりなんですね。
次に受戒の作法ですが、小乗戒は沢山高徳の僧侶を呼ばなければなりません。権大乗は人数が揃わなければ、自誓受戒でOkです。法華経の迹門・本門とも自誓受戒が基本です。多数の集合を必要としません。本門では戒師は久遠実成釈尊の本仏、釈迦牟尼仏。多宝如来をアジャリ。本化の上行菩薩を教授師とします。

戒壇には事壇と理壇がありますが、妙法曼荼羅は理壇としてもってこいです。仏像と違い安価で済みますし。とにかく、妙法曼荼羅に戒壇の要素のみならず定・恵も含むとてつもない教義を日蓮は紡ぎだしたわけです。しかも天台教義を越えて。
だから、この理屈を知っている日蓮信徒は他宗旨の信者から非難されても信仰を棄てないし、スルー出来るんです。
日蓮は本門の法華経を説明するなかで、それを三大秘法としています。所謂、本門の本尊(教門)・本門の題目(観門)・本門の戒壇(教観一致)です。
本門の本尊は本果妙・本門の題目は本因妙・本門の戒壇は本国土妙の三妙を意味します。
本門の本尊とは南無妙法蓮華経です。この七文字の意味は深く、天台大師の灌頂玄旨と伝教大師の血脈でも妙法の一言を妙旨とし、三諦三観、五智、五門、五臟、牽いては妙法を信じる衆生の当体を現します。本門の題目は法華経を信じる信者の実行部分全体を総称しての呼称です。

妙法曼荼羅には受戒の儀式が設備して顕れています。戒体は中央の南無妙法蓮華経の七文字。戒師は釈迦牟尼仏。アジャリ師は多宝如来。教授師は上行等本化の菩薩らです。
本門の三宝を云えば、本門の仏は久遠実成釈迦牟尼仏。本門の法は南無妙法蓮華経。本門の僧は本化上行等諸大菩薩です。
また、観普賢菩薩行法経の受戒、三帰戒も妙法曼荼羅は網羅しています。戒師は久遠実成釈迦牟尼仏。アジャリ師は証明法華多宝如来。教授師は本化上行等の大菩薩。証明には十方三世の諸仏、同伴に文殊普賢等の諸菩薩等。日蓮直筆の妙法曼荼羅で十方三世仏を略している曼荼羅も多いですが、曼荼羅に込められた意味は同じです。戒師釈迦牟尼仏は何を授けるかと云えば、妙法蓮華経の戒体を授与するんですね。これらの全てを一幅の曼荼羅に描き、図顕したのが日蓮が独創した妙法曼荼羅なんです。

日蓮を理解するためには妙法曼荼羅、三大秘法の意味を知らなくてはなりません。日蓮が念仏以外に権大乗の教義まで批判したのは、妙法の戒体が実は法華経の本門にしか存在しないにも関わらず、各宗派が法華の教義を盗み取ったり、法華経を顧みない教義を立てたからなんですね。
故に日蓮が説いた法華経の深義を知る信者は日蓮を大菩薩、大聖人と尊称し、仏教の元祖である釈尊にも勝る信仰心を持つ理由はここにあるんです。
一念三千は理と事、2つあるのですが、天台は理の一念三千。日蓮法華は事の一念三千と日蓮教義では考えます。理の一念三千は衆生の妄念を対象に観察する観法で、自己の中に十界、その中でも仏性・仏界を見いだす法です。対して、事の一念三千は仏の悟りそのものを観察、観想する法です。この事の一念三千こそが仏の種なんですね。理の一念三千は仏の種にはならないのです。凡夫の妄念をいくら探したところで、前段階で仏の種を植えていなければ見つからないわけです。

日蓮の妙法曼荼羅、三大秘法と云うのは、仏の種を植え込む観想法なんです。座禅なんかで見性する人は既に過去世に於いて、妙法の種が植え込まれている、所謂薫習の人です。故に、修行により発現するんですね。
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日蓮の間違い

2018-12-12 20:21:25 | 日蓮・富士門流
日本の仏教宗旨で何を念頭に置いているか?なんですが。
禅宗の表現を使えば見性でしょう。自分が仏の本性を持っていることを如実に体感することかと思います。一時的に体感しても、また直ぐに消えちゃうんで悟後の修行が大切とされています。

日蓮教義に於いて何が間違っているのか挙げてみます。

1・南無妙法蓮華経が唯一仏に成る種であって、南無阿弥陀仏など爾前経が説く教義には仏に成る種がない、と己義を主張したこと。

爾前にも円教があり、また漸進的に妙法に帰一するわけですから、全くの役立たず的な論法は暴論としか云えません。
また、人間には等しく仏性が具わっており、仏法により孵化させるわけです。その原動力は法を聞くことから始まり、信じ、理解し、実践するなど、結論づければ発菩提心の薫習が種と云えるでしょう。
日蓮のように始めから整えられた法理を受け入れなければ仏に成る種に成らないとするのは、法華経方便品の経典内容からも間違いだと云えるでしょう。天台大師も止観に不定、漸次、円頓の三つの止観を説いています。仏道を成就するまでの間、直道もあれば、段階的に進む道も在るわけです。悟道に必要だから天台は説いたわけで。法華円頓の法は確かに成仏の法ですが、まだ観行即にも至っていない、名字凡夫の身で何をか況んやです。諸々の経典は大きな関門である観行即の門を潜るために色々と法を説いているわけです。


2・日蓮が感得した三大秘法は師資相承の法ではない。また、教義自体正統な師匠からの証明がない。

仏教は師から弟子に代々受け継がれるもので、師の証明が無い観想法や教義は意味を成しません。日蓮は己義を構えて他宗旨を批判しています。その中でも戒律は仏法の基本ですが、伝教大師の戒壇を認めた後、現状の有り様を嘆き、それを意味なきものとし、己義の戒壇理論を持ち出しています。しかし、これを許容した場合、無戒に等しく、今までの日本仏教の規範が根底からなし崩しにされるのです。また、戒壇の意味付けを持つ曼荼羅に自身の名前を書き記すなど、前代未聞、空前絶後の暴挙です。
また、詳しい観想法が説明されていません。ある宗派では仏像を否定し、ある宗派は認めています。文字曼荼羅の観想法はその土台となる仏様のイメージや宝塔のイメージが必要かと考えます。それを否定する宗派も在るわけですから、正しく観想法が伝授されていないわけです。また、妙法曼荼羅は時代を遡るごとに進化しており、日蓮晩年期に於いて筆法や諸尊の配置が完成されています。つまり、日蓮個人の独創であるとしか考えられないわけです。
経典や天台教義を持ち出して、持論の正当性をアピールしていますが、とどのつまり日蓮個人の己義に結論づけられているんです。


3・粗すぎる浄土念仏への批判

日蓮の浄土念仏の批判は念仏の凡僧、民衆が当時行っていた左道化した念仏批判で、浄土念仏の高僧と云われた人との突き詰めた法論はなされていません。
何故なら、浄土念仏は観想法も含めた修行体系を持つ、非常に完成度の高い教えだからです。日蓮が浄土念仏で批判しているのは法然の選択集ですが、当初誤解を招きやすい内容であるため、高弟しか閲覧が許されませんでした。内容は名前のとおり阿弥陀念仏を一筋に信じ、他の仏教経典の修行を押し留めたものです。しかし、これには理由がありまして、行と云うのは一本に絞らないと成就しないんですね。道元の正法眼蔵にも、ある弟子が天台の観法や密教や禅をワンセットでやればいいのでは?の質問に、道元は一筋にひとつの行に徹しないといけないと諭しているんですね。それを逆手にとって批判するのは間違っています。
浄土念仏で悟りを開いた僧侶は多く、近代では山崎弁栄がいます。弁栄が講義した内容の本で、「宗祖の皮髄」がありますが、洗脳されている日蓮狂信者さんらにも読んで頂きたいです。しかし、分からない人はクダラナイと思うでしょうね。同じ山を眺めても、あるものは大自然の壮大さに感動し、あるものはただの山でしかないのですから。


4・日蓮教義には論理の組み立てに自己矛盾を孕んでいる。

日蓮の妙法曼荼羅は密教のパクりです。また、羅刹や鬼子母神の下に天照や八幡を配置しています。天照は神道からみれば宇宙の根源的な神様です。日蓮からすればただの女神なんでしょうが。中国で云う太乙、分かりやすく云うと北極星を神格化した意味を持っているんです。仏教で云えば大日如来に相当します。それを羅刹などの下に配置すること自体、神道も分かっていません。
不空の法華儀軌を批判していますが、明らかに参考にしています。
批判はするが自分の己義に叶う教義はパクりで補うパターンが多いです。日蓮の著作を読めばおのずと理解できます。
一本筋が通っているように見えて、実は他からのパクりばかりです。法然にしても、道元にしても、自分が会得した内容を中心に著作していますが、日蓮のは悟道を成就していないためか、借り物ばかりです。


5・予言めいた言動と記述。未来の不的中さ。

元寇により日本が侵略され、その時は日蓮に皆がすがって来る云々の記述が日蓮の御書にはあります。勿論、実現しませんでしたが。また、日蓮の教えがあまねく世界中に弘まると予言していますが、ハズレました。ただ、予知能力はあったんでしょうね。二月騒動と元寇の襲来は的中していますから。法華経を予言の書として説明したのは日蓮で、自分を上行菩薩の生まれ変わりと信じていました。その証拠に保田妙本寺には日蓮自筆で、自分が上行の再誕であると書いた曼荼羅があります。


結論づけて云うと、日蓮はパーソナリティ障害だったのではないか?と思います。
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