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宗教・占い探玄  

はてなblog 「tomoyotanのブログ」に引っ越ししました。変わらぬご愛顧の程、宜しくお願いします。

台密立てが正解

2009-05-21 16:26:03 | 吉野修験雑記
 真言は法華経を殆ど重視しないが、台密は法華経を非常に重視する。謂わば法華経を大王。金胎の本尊を臣下の如く考える。日蓮聖人が現れたのは、法華経の宣揚であり、真言師に成り下がることへの警告である。
台密立てが正解のようである。

秘密曼荼羅十住心論と信仰の証覚度

2009-05-21 15:46:43 | 吉野修験雑記
 弘法大師の十住心論はかなり前にも書いたけど、ある種人間の信仰形態を端的に述べている。動物的心情から人間的心情。非道徳から道徳(儒教)世界。儒教から道教。さらには小乗から大乗。顕教から密教へ。最終信仰形態は密教に置いている。弘法は密教をことさら大日経、金剛頂経などに置いているが、これが間違い。心霊・交霊技法を中心とするスピリチャルな大乗仏教とすれば間違いはなかった。本山博氏も言っているが、金剛大乗仏教は仏教の最終進化形ではある。日蓮さんの本を読めば、密教に非常に関心があることが伺われるし、彼の本意が実はもっと高度な信仰体系に根ざしていることが分かる。寺泊御書に梵語で記されていた法華経は、現在の大日経と法華経であり訳者がそれぞれ抽出した旨のことが書かれてある。高野山に行くと日蓮の旧跡もある。愛染・不動感見記という真筆もある。比叡山の相輪塔には大日経と法華経が一緒に収められている。
要は三大秘法は初心法華行者の観心の本尊ではあっても、「行」としての最終段階ではないようだ。

五條覚澄師の霊験談

2009-05-20 11:32:28 | 吉野修験雑記
 先日故人になられた順教師のお父様であり、初代管長の覚澄師は有名な霊能力者であった。「人生には奇跡がある」など著書もあるので読んでみたらいいだろう。
さすがに「実神」の信仰者ならではの霊験談が豊富にある。
教団には表と裏がある。行事などは表であるが、一度「行」の世界に足を踏み入れた場合、理屈抜きの驚くべき世界が信仰者の前に広がってくる。「顕」と「密」まさに「密」こそ心霊と不可分の世界であり、宗教そのものの世界である。

悟りの霊能と、憑依の霊能の違い

2009-05-20 10:45:45 | 吉野修験雑記
 霊能力も色々あるんだが、現在いる霊能力者の殆ど全ては「憑依霊能者」である。円教寺の性空上人のように相似の位を得た神通力ではない。ただテレビで見ても分かるように大げさなパフォーマンスを必要としない霊能力者は力が強いのである。憑依として行者には狐、龍、天狗が非常に多い。その行者の人品骨柄が憑依の全てを決定する。

表と裏の信仰

2009-05-20 09:54:45 | 吉野修験雑記
 小生は「表」は妙法曼荼羅の信仰。「裏」は完全な密教立てである。
「裏」の信仰での本尊は蔵王権現。役の行者、不動尊を配している。神祇は中央に三輪さん。菅原天神、伏見稲荷を配している。そして、清荒神。
実は、法華行者の守護神は山王神。山王神=三輪さん。そして前にも書いたけど、三輪さんの裏は荒神さん。垂迹説では少名彦神=蔵王。山王=三輪さん=三宝荒神=蔵王権現となる。ばらばらのようで本当は全部繋がっている。
神道も仏教も共に大切な教義なのだ。
法華と密教も中古の天台では一体。最澄も円密禅戒の四宗融合を目指し、円仁・円珍も円密一致を目指した。それぞれの不足部分を補いつつ、完成度の高い信仰体系を期することは後学の務めではないだろうか。
ただ仏教学に疎い人には強いて説明はしないのが懸命であろう。人に説明して自分の信仰観を汚す必要はない。

 ちなみに小生の嫁さんは創価一本なんで、説明しても全く分からんようだ。数年前にも蔵王権現の御開帳のおり、一緒に吉野に行ったんだが「何でピースしてるの?」なんてな。信仰心のないもんは連れて行っても意味がないのう。(笑)

五條順教管長の訃報で考えたこと

2009-05-18 05:59:33 | 吉野修験雑記
 小生が蔵王堂で管長さんのご冥福を祈った時、権現さんが小生の思いを納受してくれたと感じた。正直言うと、今年で小生は宗門から身を引こうと考えていたのだ。それが管長さんの訃報を聞き、蔵王権現さんにお祈りして180度変わってしまった。何故辞めようと思ったのかと言うと、宗門内の嫌な部分をあちこちで見てしまったこと。さらには小生の師僧に当たる方への仕打ちが冷淡であったことからだ。師僧は行者さんであって、事務的なことは苦手だったことが大きな要因であろうが、所詮寺も世間も同じかと小生は感じたんだ。一番大きな理由は、宗内を取り仕切る偉いさんが、小生の師僧を満座の席で罵倒したことだ。それと、師僧が不本意な仕事を黙々とさせられた挙句、左遷させられたこと。これらを見て、小生は山にも登る気がせんようになったし、行事ごとにも参加せんようになった。

 しかし管長さんの訃報を聞き、考え、祈る中で小生は宗門に残ることを決意した。

 

早速吉野に行き、蔵王権現に五條管長の冥福を祈る

2009-05-17 16:42:10 | 吉野修験雑記
 吉野は天候が冴えず、途中小雨になる中、東南院では明日の葬儀の準備に追われていた。兎も角、宗内で見たことのある教師が詰め掛けていた。小生は末端には位置するものの、現在宗門からは身を引いている身分であるからして、心で合掌。
蔵王堂にて師の冥福を祈り、帰路に着いた。
五條管長のご冥福を心から祈り、合掌。

修験の魅力

2009-05-17 08:40:19 | 吉野修験雑記
 密教の行者で本物は須らく「修験者」である。人間が人間なのは「境」に左右されて相対的価値観でしか物が見れないところにある。仏教の意義はこの境を脱ぎ捨てた、自己本来の仏界を体現することにある。そのためには「行」が必要だ。行とはこの「境」を打ち破るために他ならない。シンドイ思いをして奥がけするのも、自然と一体になることで「境」を脱ぎ捨てるうちに自然に悟達するためである。
コンクリートの中で仕事に追われている現代人にとって、修験は欠かせない領域の教義であるはずだ。

日本仏教の危機の中、訃報にあたり考える

2009-05-17 08:07:32 | 吉野修験雑記
 小生は日本の仏教に危機感を覚える。仏教は法理だけではない。衣鉢を尊ぶところにその存在意義がある。理屈も大切なんだが本物の僧侶の存在が必要だ。
信徒は僧侶に優位性を認め、僧侶は法を遵守する姿勢を保つことは三宝を存続させるためには欠かせない。維摩にしても僧侶には遠慮している。これは釈尊以来、仏教が仏教であるための伝統法儀である。宗教団体で宗門に反逆、攻撃を続けるところもあるが、名指しで僧に敵対するなど仏教徒としてあるまじき行為である。
このような世間の有様の中、また修験の巨星が消えたことは大変残念なことではある。

五條順教師の訃報

2009-05-17 07:37:09 | 吉野修験雑記
 昨日、5月16日に金峰山修験本宗の五條順教師がお亡くなりになった。吉野で学習会がある時などは必ず参加して法儀の伝授は管長自らという形式を執っていたようだ。小生もじかに一度お会いしたことがある。厳しく凛とした中に優しさを持ついい管長さんであった。日本仏教界でまた国宝の僧侶が亡くなられた。悲しいことである。
管長さんのご冥福を心からお祈り致します。合掌