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宗教・占い探玄  

はてなblog 「tomoyotanのブログ」に引っ越ししました。変わらぬご愛顧の程、宜しくお願いします。

摩多羅神と正法の関係

2009-04-22 14:14:40 | 吉野修験雑記
 神様は権神と実神に密教では分ける。権神は神道でいえば和魂・幸魂。実神は荒魂・奇魂。になろうか。効果としては権神は効果が緩やかであることと、神威も柔らかい。対して実神は仏性より実際の神の俗っぽいところが多分に出ているため、効果も早いが、神威もキツイ。これらは聖天さんでよく使う理論である。

 摩多羅神は三宝荒神のことで、仏法の守護神である。空海が死後弟子に伝授するのを忘れていたため、夢枕に立ち伝授した経緯も伝わっている。また円仁・慈覚大師も感得したと伝えられている。天台の恵心・檀那流では玄旨灌頂の守護神として尊崇されていた。大神神社、三輪山の裏山に笠三宝荒神がある。大美輪の神の裏は荒神さん。すなわち摩多羅神なのである。ついでに言うと、三輪明神は単身ではなくこれは他の由緒正しき古社に言えることだが、スサノオを祭る熊野権現とも霊的に繋がっている。そして宇宙の実神、大国常立命にコンセプトしている。もう一つ付け加えると、少彦名命は蔵王権現の垂迹とも言われており、大美輪の神くらいになるとあらゆる神々と関係が繋がっており、殆ど創造神並みの神威がある。ただ我々に懸かるのは眷属霊であり大美輪の神が直接懸かることは絶対ない。(高級過ぎて無理)このクラスになると人間の運命はもとより、寿命までも司るんで信仰する者も最低限のマナーは必要である。

 日蓮聖人の法華曼荼羅を日朗上人は「玄旨本尊」と表現したりしている。つまり玄旨灌頂のご本尊と言う意味だ。玄旨灌頂は法華経の奥義を伝授する灌頂儀礼である。その守護神は「摩多羅神」なのだ。謂わば実神の形態で行者を守護する。百六箇抄に山王神が現世・未来永劫、法華経の下種された行者を守護する旨をさらっと記載しているが、仏法の法理ではそのようになっている。

元三大師の功徳

2009-04-20 07:36:22 | 吉野修験雑記
 天台宗総本山、比叡山の横川に元三大師が祭られている。良源は平安時代中期頃の高僧であり、天台座主になった方である。修道、特に仏道修行の成就や寺院建立、興隆に効験があるとされている。故山田恵諦天台座主も著書にその効験を書かれている。家運長久にも効験があると聞き及ぶので、真面目な態度で信仰を継続出来る方は一度訪れてはいかがだろうか。
(ご利益のあるところは信賞必罰。マナー違反は天罰覿面である。元三大師もそうであるからしてその辺は注意されたし)

密教こそ宗教

2009-03-23 23:19:52 | 吉野修験雑記
 映画「空海」で、「密教こそ仏教なのです」と空海が言うんだな。最澄は「仏教は円・密・禅・戒なのです」と四宗融合を説くんだ。結論から言えば両方とも正しいんだが、俺は「密教こそ宗教」と言いたい。理屈なんかは瓦礫だ。祭祀方法も知らない、理屈ばかり言う奴は宗教家ではない。霊学・瞑想法(イメージ法)・言霊を知識で知り、技法を知り、体感出来ている人間こそ宗教人だと思うんだな。

霊学・イメージ法・言霊は密教

2009-03-23 23:03:10 | 吉野修験雑記
 宗教は密教と顕教に分かれる。仏教・神道・キリスト教・ユダヤ教も大きくこの2つに区別出来る。その中で、密教は霊学・イメージ法・言霊の3つが骨子である。招霊も密教に属し、この3つを活用している。先祖供養は招霊でも比較的簡単な部類である。何故なら補助霊に先祖霊は誰にでも憑いているし、先祖も供養を望んでいるからである。また先祖供養で霊と交信がうまく出来るようになると、今度はもっと高度な霊との交信も可能になる。基本は先祖供養にあるし、霊との交信の初級の勉強にもなる。逆もまたしかり。先祖供養が出来ていないと、いかに霊験あらたかな古社にお参りしても、霊験は少ないといわれている。高級霊の仲立ちは先祖霊等の守護霊から、社の眷族霊に。そして高級霊へと伝達されるからである。

人間は憑依を常に受けている

2009-03-23 22:44:30 | 吉野修験雑記
 人間は常に憑依を受けている。特に子供は受けやすい。俺は実家に帰り祭祀を行うとやたらと眠くなる。霊が入り込む感覚も祭祀をすると体感出来るよ。いい霊との交信は前額部に来るんだ。悪いのは背部が多いな。「ぐぐ」と入り込む感覚も分かるよ。急にいらいらしたりするのは低級霊の憑依だな。これら憑依はその時々の想念に比例している。だから六根を鎮める習慣は祭祀者には絶対必要だ。テレビで昔、偉そうに霊落としとかしてる行者は、人品が卑しく人相も悪相が多かった。神霊との交信は人間性一番問われる。鎮魂法とか自分で自分の心の制御が出来ない行者は最後には哀れな末路を送る。人生と一緒だよな。
いらいらしたり、気分が乗らない時は、先祖の祭祀は一時中断した方が良い。

霊と交信しやすい先祖供養

2009-03-23 22:30:49 | 吉野修験雑記
 神仏を祭祀する前に先祖供養で交信する訓練が一番安心である。ただし横死した霊は難しいので、普通の先祖霊を祭祀する習慣が霊学の初歩として勉強になる。
例えば蝋燭の動きで、霊の心情も分かるし、祭祀者の背部や首のツボの痛みや体に寄りかかる感覚など、体感しないと絶対分からない。

招霊はイメージ

2009-03-23 22:07:55 | 吉野修験雑記
 真言宗八祖の一人、善無畏三蔵は玄宗皇帝の命で雨乞いを即興で所望された。龍を呼ぶため、お椀に水を入れ小さな刀でそれをかき混ぜると、龍が躍り出て大雨・突風をもたらした。ここで思うのは簡単なイメージ出来る道具があれば、招霊は可能であると言うことである。これと同じように先祖の招霊はイメージが大切である。密教の瞑想法自体、殆どがイメージであり、祈祷も殆どがイメージである。

 想念から現実化への働きかけこそ密教の密教たる所以であり、無から有を生む原動力である。祈りは必ず現実化するし、物質(物)を引き寄せるし、霊魂も招きよせることが可能であると説いている。

大和の大神様、巡礼記

2009-03-13 18:08:10 | 吉野修験雑記
 昨日、奈良の石上神宮と大神神社に参拝して来た。最高の天気だったなあ。天理市に石上神宮がある。天理教の神殿がで~んと威容を誇っているのに、簡素な造りではある。何かTVカメラを撮りつつ、火事を消し止めましたとか言ってるんだな。家に帰って夕刊を見て驚いたよ。放火されていたんだな。警報が作動して、すぐに消し止めたようだ。しかし、神社に放火なんて、正気の沙汰じゃないよ。この石上神宮は神社通や霊能力者、古代史通の中では極めて重要な神社なんじゃよ。この神社の歴史は極めて古く、天皇家以前の歴史を誇る。霊能者に言わせると「鋭い神気に満ちている、すばらしい神社」であるそうな。燃やされたのは出雲建雄社とのこと。大和なのに、「出雲」。深いでしょ。天皇家より前に、大和・出雲の2大勢力が合体していたんだよな。俺は中学1年の時に、ここで1月15日の成人の日にゼンザイを振舞って貰った思い出が忘れられない。ほんと、いい神社だよ。ここで、亡き先祖の魂上げと自分の家族の安寧を祈願。おみくじも引いたよ。「半吉」だった。今の俺自身の心情を読み取ったかのような文面で、かなり驚いた。人生我慢、我慢だよな。

 次に大神神社に向かった。三輪山の周辺には、景行天皇と崇神天皇陵があるんだけど、征服者満点の建てかただよな。どあつかましい建てかただから、外来征服者ってすぐ分かるわ。控えておればいいものを。
そんな気分を抱きつつ、三輪に到着。途中、みむろの最中を購入。みむろの最中は俺みたいなあんこ嫌いでも食えるんだ。あんこの味がしないんだよ。だから三輪に寄ったら買うことにしてるんだ。それと、神社右側にある三輪そうめんの看板の店には絶対寄る。ここのそうめんはほんとうまい。俺が三輪そうめんを外で食ったのは長岳寺なんだけど、ここのはそこ以上にうまい。

 幽玄な参道を歩き、拝殿にお参りした。ここの神気は「ほわ~」として、とても気持ちがいいな。かなり前に、深見とか言う変な宗教家が休憩室で勝手にセミナーみたいなもんをやっとったけど、来るなボケと心の中で思ったよ。神気が腐るわい。やっぱり俺は大神神社が一番自分に合うな。拝殿に向かい、参拝後、狭井神社へ。本殿から向かって右側が三輪山の参道口になるんだ。ここでも参拝して帰路に着いた。気持ちよかったな。

金峰山修験本宗

2008-08-17 08:05:58 | 吉野修験雑記
 新興宗教に入って悩んでいる方。道心があり、もっと高度な「行」を望んでいる方。あるいは在家で、僧侶になりたい方。これらの方々は是非「金峰山修験本宗」での「行」をお勧めする。元々この宗は天台宗であったが、戦後台宗から独立した。話は変わるが空海の十住心論という書がある。宗派間での、自宗優越を示すためあえて暴論を承知で記述しているので、変な論理構成になっている。しかし、行者の信仰形態発展度を見る指標には、以下の様に理解すればこの人の言いたいことは解かる。①小乗②大乗 大乗の中に①顕教②密教 ①の顕教は理論・理屈。 ②の密教は天台・真言の行の世界。スピリッチャルな世界に感応道交できる技術・方法論。ゆえに密教は優れていると書いて欲しかった。十住心論では経典・宗派も含んで自説を展開するのでおかしくなるのだ。かなり話が反れたが、元に戻す。
金峰山修験本宗は門戸が広い上に、坊さんらもかなりまともだ。修験系は気をつけないと、入りやすい分横道に反れやすい。
新興宗教で友人の入信勧誘など池田大作のおかしな論理に乗らず、修行で自分を見つめる「行」ができる信仰に入って欲しい。
在家で僧侶になりたいと思っている人。お寺としっかりしたコネがないとかなり難しい。おまけに自分の職を投げ打ってとなると、下手をすると取り返しがつかなくなる。何故なら前にも書いたが在家が考えているほど僧侶の修行は簡単ではない。正坐一つでも半日くらい何日も行うし、声明・印・真言を習得するには器用でない一般人は必ず挫折する。これまた話は変わるが新興宗教・阿含宗の桐山さんが日本での四度加行を失敗した原因はおそらくこの辺りにあると思う。ここでは在家のまま、本格派希望者にはそれなりにいくらでも行を進められるので無理がない。
私は一宗の勧誘目的で書いているのではない。信仰にもその人の身の丈にあった宗派があり、道心のある人には「行」の世界があることを、出来る可能性があることを示したいだけだ。