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宗教・占い探玄  

はてなblog 「tomoyotanのブログ」に引っ越ししました。変わらぬご愛顧の程、宜しくお願いします。

「行」に生きるも人生。凡人のままも人生。

2009-06-07 10:31:40 | 吉野修験雑記
 修行僧だけが偉いのか?って言われれば、そんなことは当然違う。凡人の中にも赫々たる仏性が存在しているわけで。・・・・ただ宗教に誘われるわけは、哲学とか思想で自分が人生で解決出来ないから、その門をくぐるんであって。酒井師が仏門に帰依した理由も非常に分かる。
 宗教は弱いもんが縋るものと決め付ける馬鹿は、真剣に人生について試行錯誤したことがない奴だ。と言ったのは今東光師であるが、全くその通りである。日本人の幸せは、こうした宗教の中でも、非常に洗練された世界最高の教義を持つ教団があることである。これは日本の先哲に感謝しなくてはならない。具体的に言うと、天台宗はその筆頭であろう。

 凡人は凡人でも、こうした最高教義に縁を持ち、正法を保つ功徳は大切にしたいものである。前にも書いたが日本の存在意義は間違いなく、宗教教義にあると思う。それも神仏混合の宗教観こそ根幹であり、優れた考えであることを再び認識するべきである。

素戔嗚尊こそ救世主

2009-06-04 22:09:21 | 吉野修験雑記
 あれこれ信仰に迷うのであれば、素戔嗚尊を祭神とする由緒正しいお社を信仰されたらよい。関西であれば八坂神社がお薦め。実は大国主命・大物主などの出雲系の神様を祭る神社は全国津々浦々にある。この出雲系の神様こそ日本の自然神である。その随一の神様が素戔嗚尊というわけである。ちなみに宮中に祭られている神様も出雲神が殆どである。要は日本の神仏不二の宗教観は、日本の自然神と仏教、ことに密教の天部が表裏一体となり、信仰する人に利益を与えるわけで、純粋なインド密教とは一線を画すものである。密教の行者はこの辺りはきちんと理解している。
 ここまで来ると分かるよね。「あれは、邪宗じゃ」なんて吠えてる新興宗教がいかに無知で、罪深い行為を行っているかが。でもこんなことはこの人らにも教えてやらんと誰も分からんよな。

慈悲が真実の発心となり、仏道を成就させる

2009-05-24 16:52:12 | 吉野修験雑記
 祈りの奥義とは何か?それは「誓願」である。真実の仏弟子は「誓願」を立て、衆生と自分の仏道成就のために、発心するのである。これこそが本当の出家者であり、これが無い仏弟子は見性も出来なければ、仏道を成就することも出来ん。
ちなみにこの極意は秘伝ですよ。
お大師さん(弘法大師)が「衆生尽き、虚空尽きなば、わが願いも尽きなむ」と言ったのは、広大無辺な四弘誓願を指すんだな。(かっこいいんだな。これが。大師は弘法と言うが、ほんと。素晴らしい一句だな)
だいたい我利我利亡者の戯言に、正神は動かんし、仏天は動かん。動くのは、低級霊ばかりじゃ。それも供養とか、必ず見返りを要求される。
誓願で祈る、祈りは、必ず仏天は聞き届けて下さるし、冥益であれ、顕益であれ、人を利するし、祈る人にも菩提を成就させる種となり、仏となる。
今の仏道者に足りないもんは「誓願」なんだな。現世利益の祈祷は「誓願」の祈りの何分の一しか効験が無い。

・・・・・以下、他のサイトからの引用です。・・・・・



衆生無辺誓願度 (しゅじょう・むへん・せいがんど)。

煩悩無尽誓願断 (ぼんのう・むじん・せいがんだん)。

法門無量誓願学 (ほうもん・むりょう・せいがんがく)。

仏道無上誓願成 (ぶつどう・むじょう・せいがんじょう)。

●第1句 (衆生は無辺なれども 誓ってどせんことを願う) ~ この世の中には迷い・苦しみが多く、助けを必要としているものがたくさんいます。自己中心を捨て、他の優先を常に考慮し、心に誓って、苦しんでいる人・自然環境などのあらゆるものたちに、温かい手をさしのべようと思います。

●第2句 (煩悩は尽きることなけれども 誓ってだんぜんことを願う) ~ 煩悩は尽きることがないけれども、心に誓って、わき起こる欲や煩悩と戦い、迷い・煩いに束縛されない、素直な生活ができるように、精進努力します。

●第3句 (法門は無量なれども 誓ってまなばんことを願う) ~ 仏教の教えを学ぶことは、簡単なことではありませんが、心に誓って、これらの教えを理解・実践するように心がけます。

●第4句 (仏道は無上なれども 誓ってじょうぜんことを願う) ~ おさとりを開くまでには、長い道のりを覚悟しなければならないでしょう。しかし、本来私たちは、いつでもおさとりを持ち合わせていて、それに気が付かないだけなのだ、ということを常に信じて、心に誓って、仏道成就を願いましょう。

憑依と験力

2009-05-24 10:09:30 | 吉野修験雑記
 小生が属する金峰山修験本宗でも、滝行とか好む人がいる。小生も昔誘われたことがあるが、「結構です」と丁重にお断りした。「行」の本質は人間に纏わり付いている煩悩を拭い去ることである。我が宗門は在家行者が多いためか、真実の発心から「行」を志す人が極めて少ない。その根底にあるのは、「験力」の獲得なんだな。一般教師にもこの手合が大半を占める。滝行なんかで験力を得る類は、大体が自分の欲得から「行」で引き寄せた低級霊の験力である。
小生の知り合いにも、宗門から非法人ながらお寺の許可を頂いた教師を知っている。この教師、根は悪人ではないんだが、三毒に犯されている人間であった。非常に滝行を好む人で、小生が誘われたのはこの教師である。
いやはや何とも、宗門も人を見る目がないというか、何と言うかである。
低級霊は通力を発揮して人を上げるんだが、使いもんにならんと、思いっきり落とすんで注意が必要だ。死後、地獄行きは覚悟せんといかんしな。
験無きこそ験なれだ。正神には怪しげな験はない。

憑依霊能者について

2009-05-24 07:21:28 | 吉野修験雑記
 80年代に日本では一大霊能ブームが訪れた。怪しげな霊能者と称する輩がマスコミを通じて現れたのはこの頃だ。今は90年代半ばのオウム事件以来、警察の介入によりマスコミの霊能を殊更煽り立てる報道は自粛を余儀なくされている。
話は80年代に戻るが、「天照大神様からの霊示で・・・」何ていう馬鹿霊能者がいたんだよ。人間に懸かる神霊は、大神さまでもその眷属霊である。偉大な神霊は人間には懸かれない。「私は天照」とか言うのんは低級霊なんだな。こんなんが懸かる人というのは、低級な心情を基とするんだが「我欲」から始めた「行」により低級霊が感応して憑依している。「我欲」とは「威張りたい」「偉くなりたい」「金持ちになりたい」「信者を持つ境涯に」等々である。新興教団の開祖にもこういう人は存在している。話は変わるが、大槻教授が昔は心霊肯定派の研究者であったことはあまり知られていない。ところが180度の変貌を遂げた。科学ではまだ解き明かせないこともあるだろうが、あまりに酷い自称霊能者が多いことに辟易したんじゃないかな。

修験といえども末法は「冥益」が大半

2009-05-24 06:42:12 | 吉野修験雑記
 薫習が浅い末法衆生は、高度な行法を講じても「冥益」が大半である。霊能力の発現にしても悟りからの神通力ではなく、憑依霊能者ばかりである。しかし、修験・密教が「験」が無い訳ではない。きちんと法華円教に根ざした理解から行をした功徳は薫習として蓄積されているんで、今世で見性出来なくても未来には必ず見性出来るはずである。役の行者の伝記にも転生を繰り返し、漸く聖者の境地に至ったものと理解できるし、恵思禅師も法華三昧の功徳の発現を三世までにはと述べられている。中国の唐時代に沢山現れた見性の禅師たちは、短い師匠の教説で悟りを開いたのを見聞すると、薫習こそその謎を解き明かす答えのようだ。
「冥益」の行者を見て、「あ・・駄目だ。ここには真実がない」何て思わないことだ。未来には仏陀になる尊い行者さんたちである。花山天皇の前世が大峰の尊い行者であったことなども薫習の功徳力の賜物であろう。

果たしと使命

2009-05-22 08:32:36 | 吉野修験雑記
 弘法は最高の宗教は何か?を模索し、日蓮は「戒」とは何かを模索した。日蓮の20代に編まれたと言われる「戒体即身成仏義」は最終的に三大秘法に結実した。
要は、人間が仏になるシステム理論を模索していたわけだ。それを日蓮は若い時から「戒体」ではないかと考えた。結論としては法華経の信仰血脈に、その戒体を見出した。三大秘法の行体を金剛宝器戒とも呼ぶ。
 つらつら思うのは、人間には生まれてきた理由があり、前世で解決出来なかったことや遣り残したことの「果たし」を行うために現世に再生するのかも知れない。
それを「使命」とも言うんだろう。
 小生の果たしは何なのか?嫁さんには、先祖さんを掘り起こして供養することなんじゃない。・・・何て言われてるんだけど。(笑)実際、その通りなんで、これも小生の果たしだったんだろう。
自分では日蓮聖人の妙法曼荼羅から修験・密教の世界を俯瞰する宗教観の宣揚と考えてるんだけどね。正法の直道の案内人を「果たし」と考えている。

桐山密教とオウム真理教

2009-05-22 07:04:39 | 吉野修験雑記
 70年~80年代にかけて桐山密教がブームになった。念力護摩とか、変身の原理とかね。ここから派生したオウム真理教も志向しているのは「密教」なんだな。
小生が挙げた心の進化と宗教形態が全然行いと合致していない。だから小生の宗教観は間違いとしないでいただきたい。オウムはやっていることはハチャメチャであったが、金剛大乗仏教を志向したことは間違いではないのだ。ただ我流であり、法脈を受け継ぐ良い師匠に巡り合えなかったのが不幸ではある。

三教指帰・十住心論から見る、心と宗教レベルの関係

2009-05-22 06:14:14 | 吉野修験雑記
 空海の三教指帰では、儒教ー道教ー仏教の3つの教えから仏教が最高の教えであるとしている。十住心論では顕教から密教に関心が移り、密教こそ最高の教えであり、密教に関心を持つ心の働きこそ宗教レベルでは最高とする。密教とは何かと言うと、小生自身教学的には台密を選んでいる。東密は法華経を軽視するんで小生の心情に合致しないのが大きな理由である。師僧も天台で学んだ人なんで、台密である。吉野は天台の影響下の寺院が大半を占めるが、金峰山修験本宗も名前こそ違うが「天台宗」、つまりは台密である。であるからして、法華経が一番であることは専門僧侶は熟知している。(勿論、我が師僧も)
 日蓮宗、あるいは日蓮教団は自分の行体が一番優れているとしているが、身延山に本拠を置く日蓮宗では修験まがいの荒行を経た行者を尊ぶ。つまり、初心法華行者から密教に志向しているわけだ。これについて、小生個人としては正しい見解だと思うよ。
 逆に、日蓮正宗やその影響下の教団、分けても創価学会なんかは、自分の行体が最高であるとして、初心法華行者の枠から進展しないんだな。さらには邪教呼ばわりだからな。これは、位の高い幼い子供が法王に向かって「俺の方が偉いんだぞ」と悪態を付いてるのに等しいんだな。まあ、可哀想な人と思ってこちらも接する度量が大切ではあるな。(笑)
 人の宗教志向は、心の心情のレベルを表すんで、密教を志す心情は非常に尊いことだと思うよ。