只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

今日も“今”で将来にはなりません、ですから未来は未来でありませんね。

2016-12-10 10:24:41 | 日記

【心に負担無く、落ち着いて、お気楽に・・ですね。】


このブログで言ってることは、心配、不安、苦悩、
恐れ等を取り去ることではありません。

本来、そのようなものは“無い”ということです。
“無いものは無い”ということを自覚できるまで
“只なる実践”の継続の必要性を述べているのです。

個々の不安を一時解消しても、後から後から
問題は出て来るような構造になっているからです。

ですからこの構造を消し去らないかぎり、
永遠に幻想の苦の世界から抜け出されないのです。

この構造は、私は男性、女性であり、何歳であり、
名前は誰々で有り・・と頭脳が固定化しているからです。

もちろん、すべてはこのようなものがなければ
通用しない世界ですから、それでいいのですね。

でもそれを邪魔する構造の「思考癖」があるから
幻想の苦の世界になるのです。

繰り返し述べていますが、「無いものを在るとする」
思考癖は、本来には“無い”のです。

幼少の頃、「無いもの強請り」をよくしたものです。
“無いものは無い”ですから親は大変だった
ものと思います。(笑)

ですが成長してからも、思考は「無いもの強請り」が
続いて癖になったようなものですね。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


『「今」が本当に手に入れば、一切自己が無いということが判明するのです。
 「今」とは縁のことです。人と物です。人から言えばこの身体と心です。
 身体から言えば眼耳鼻舌身意であり色声香味触法です。
 見聞覚知であり両手両足と頭に胴体です。全て縁の物です。
 一方外の縁は人を除いた全ての物がそれです。宇宙全体です。
 この消息が明瞭々となればいいのです。
 縁に徹したら縁の無自性空の消息がはっきりするのです
。』


いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
今、今、今と流れるのは“縁のまま”ということですね。

身体があって思考があるのです。
逆もしかりで心があって身体があるのです。
睡眠中は“無心”ですので身体が無いと言えます。

舌があって味があるのです。
もし舌が無ければ味も存在しませんね。

耳があるから音もあるのです。
音が無かったら耳もありません。

このブログも目と思考があるから読めるのです。
この様にすべて縁によって宇宙があるのです。

ですから、縁というものが重なり在って
“ひとつ”と言われる所以ですね。

この世界は単独で出来るものは何もありません。
足があるだけでは歩くことはできません。
縁という地があるから歩く事ができるのですね。

両手も縁という水があるから洗顔できるのですね。
ですが“縁のまま”という固定したものは無く、
無自性空”と言われているのです。

さぁ、今日も思考癖を入れず淡々といきましょうね。