梨の木です。ぐんぐん育っています。
木の葉も紅葉して和ましてくれます。
おわかりのとおり怖い時は怖いのです。
悲しい時は悲しいのです。
もちろん楽しいときは楽しいのですね。
嬉しいときは嬉しいのです。
“目覚める”ときが来れば、怖い時は怖くて怖くないのです。
悲しい時は悲しくて悲しくないのです。
もちろん楽しいときは楽しい中にいるから
楽しいことはありません。
嬉しいときは嬉しい中にいるから
うれしいことはありません。
妙なことを言うなと思われるかも知れませんが、
例えばお風呂のお湯にゆっくり浸かっているときに、
お風呂に入りたいとは思いませんね。
食事で美味しいカレーを食べているとき、
カレーを食べたいとは思いません。(笑)
運動会の100m走で懸命に走っているとき、
100mを走りたいとも思いません。
ですからそれに“目覚める”ことは、
それに没頭しているということですね。
「何だ~そりゃ簡単だ!」と言われるうちは
目覚めることができませんので、
弛まぬ“只なる実践”の継続です。
只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。
『始めは「今」を意識して下さい。どう意識するのかですが、
一番普遍的なこの瞬間の吸うだけ吐くだけの「今」、
この瞬間瞬間の作用に着目して見失わないことです。
分かり易く言えば集中し切ることです。はじめは呼吸をしっかり
認めて離さないよう努力するしか方法が無いのです。
そうしないと凧の糸が切れたように心がどこかへ行って散乱し続けます。』
いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
“実践”は今を見失わないよう、この瞬間の“今”に
『へばり付け!』と言われています。(笑)
心は純真ですから、油断するとあちらこちらへと
連れ回されて、この瞬間の“今”に居ることが
出来ないのです。
連れ回すものが、頭の中で勝手に妄想する
「思考癖」だからです。
言葉で説明するのはこのように簡単ですが
「思考癖」は強大な力を持って自分に成り澄ましているのです。
姿かたちも無く、頭の中で勝手に喋りまくり妄想して
“純心”を痛めつけるのです。
ですからこの汚れひとつ無い真珠のような
“純心”を一時も早く救い出さなければなりません。
と言うのは“純心”は、“真の自分”でもあるからです。
「でも、それは空想でしょう?」と言う思考癖が
入らない前のことを表現しているのです。
常に今、今、今の“実践”で明らかになってきます。
木の葉も紅葉して和ましてくれます。
おわかりのとおり怖い時は怖いのです。
悲しい時は悲しいのです。
もちろん楽しいときは楽しいのですね。
嬉しいときは嬉しいのです。
“目覚める”ときが来れば、怖い時は怖くて怖くないのです。
悲しい時は悲しくて悲しくないのです。
もちろん楽しいときは楽しい中にいるから
楽しいことはありません。
嬉しいときは嬉しい中にいるから
うれしいことはありません。
妙なことを言うなと思われるかも知れませんが、
例えばお風呂のお湯にゆっくり浸かっているときに、
お風呂に入りたいとは思いませんね。
食事で美味しいカレーを食べているとき、
カレーを食べたいとは思いません。(笑)
運動会の100m走で懸命に走っているとき、
100mを走りたいとも思いません。
ですからそれに“目覚める”ことは、
それに没頭しているということですね。
「何だ~そりゃ簡単だ!」と言われるうちは
目覚めることができませんので、
弛まぬ“只なる実践”の継続です。
只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。
『始めは「今」を意識して下さい。どう意識するのかですが、
一番普遍的なこの瞬間の吸うだけ吐くだけの「今」、
この瞬間瞬間の作用に着目して見失わないことです。
分かり易く言えば集中し切ることです。はじめは呼吸をしっかり
認めて離さないよう努力するしか方法が無いのです。
そうしないと凧の糸が切れたように心がどこかへ行って散乱し続けます。』
いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
“実践”は今を見失わないよう、この瞬間の“今”に
『へばり付け!』と言われています。(笑)
心は純真ですから、油断するとあちらこちらへと
連れ回されて、この瞬間の“今”に居ることが
出来ないのです。
連れ回すものが、頭の中で勝手に妄想する
「思考癖」だからです。
言葉で説明するのはこのように簡単ですが
「思考癖」は強大な力を持って自分に成り澄ましているのです。
姿かたちも無く、頭の中で勝手に喋りまくり妄想して
“純心”を痛めつけるのです。
ですからこの汚れひとつ無い真珠のような
“純心”を一時も早く救い出さなければなりません。
と言うのは“純心”は、“真の自分”でもあるからです。
「でも、それは空想でしょう?」と言う思考癖が
入らない前のことを表現しているのです。
常に今、今、今の“実践”で明らかになってきます。