只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

今朝の育っている白菜は勢いがありました。笑

2016-11-25 09:31:20 | 日記
自然薯の蔓もそろそろ枯れてきています。
正月の1月1日に大一陣を掘り上げてみます。笑





【物事はすべて思考が創っています。
 ですから自分では無いですね。
 思考自我が自分として離さないのです。笑】


今日はやることが多いので、これで失礼します。

少しずつ山畑が出来上がってきます。

2016-11-24 10:18:03 | 日記

【朝、昼、夜を創作するのが思考癖で、それは幻想ですね。
事実は“今この瞬間・無思考”です。】


ことわざは『思考』ですね。

ことわざにある『口は禍の門』を観てみましょう。
身も蓋も無いように聞こえるかも知れませんが、
事実の『口は口』ですね。

ここの『禍』は自我の創作物で災難とも言われます。
ですから『言葉は災難をもたらす』と
自我は言っています。(笑)

人間業界の「戒め」で事実にはまったく何も無いのですね。
しかし、こうでもしないと幻想世界では
自我が大暴れして無法地帯になるからです。

でも、この「戒め」を創っているのが自我ですから
なんとも面白いものです。(爆笑)

ですから『ことわざ』というものは何の意味を持たないのですね。
こんなことを言ったら、自我から怒られるかも知れませんが
事実ですから仕方ありません。(笑)

しかし、この世界は人間業界ですから、ことわざにある
『口は禍の門』をよく噛締め、余計なことを言わず
何も無いのですから、ただ淡々としていることですね。

無いものは無い”が事実です。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


これを体得することを見性と言うのです。
 悟ると言うも同じです。「道」「法」を得ることは、
 即ち自己を取ることです。自己とは「隔たり」ですから、
 「隔たり」を取った確かな涯際が付く。
 この事を悟りとも法を得るとも言うのです。
 有りの侭の真相がはっきりするから法になるのです
。』


いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
「思考癖」が落ちれば、有りの侭の真相が
はっきりするのです。

自然の様子の“只”しかないということがわかるのです。
文字や言葉で表すと、自分というものが
思考自我の創作物で幻想と認識できるのです。

ですから“真の自分”は永遠の大自然そのものとも
感じるのですね。

感じきるまで弛まぬ“只なる実践”の継続です。

いつも“今”ばかりですね。

2016-11-23 09:56:21 | 日記

【幻想から“目覚める”とは思考癖が無いということです。】

ことわざ辞典を観てみました。
『明日ありと思う心の仇桜』

意味は、明日はどうなるかわからないという、
世の中や人生の無常を説いたことば。

正にそのとおりですね。その人生無常の中に入り
安住するのが“絶対安心”の境地 です。

昨日とか明日はどこを探してもありませんから、
“今この瞬間・無思考”に安住するだけです。

昨日とか明日は文字であり言葉ですから、
「昨日はあった、明日が在る」は幻想で存在しませんね。

ですから昨日のことや、明日の仕事のことを話すのは
幻想と言うことです。

このことは別にいい事でも悪い事でもありませんが、
そういったものは幻想と“自覚”していることで、
心配、不安、苦悩、恐れ等にならないということです。

もし、幻想と“自覚”していないと事実として捉えて、
除々に心配、不安、苦悩、恐れ等になるからです。

ですから、この“自覚”を完全完璧にするため
弛まぬ“只なる実践”の継続です。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


ただ縁に従って自然に模様される様子を法というのです。
 つまりその時その場の縁の様子です。しかも瞬時にその物は
 終わって無くなっている。無くなっているから、
 次の一瞬に縁に従ってどんな音も自由自在に出現しているでしょう。
 この留まらないが故に、あらゆる事が縁にしたがって現成し作用している。
 これを「空」とも法とも言い、又道とも言うのです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
“今この瞬間・無思考”がその時その場の縁の様子ですね。

この世はまぎれもなく“縁と無常”です。
ここを理解すれば“何も無い”ということになりますね。

“何も無い”中に“縁”により雨になったり花が育ってきたりするのです。
そして晴れたり花が枯れたりするです。

この様に“今この瞬間”、“今この瞬間”と流れていくのが
“無常”です。

ですから生きたら死ぬのが当たり前です。
そして春になったら必ず雑草等の芽が誕生してきます。
生物も同じく“縁”により誕生してくるのです。

死があれば生になるのが当たり前です。
その繰り返しで“今”があり宇宙があるのですね。

生が無ければ死もありません、生があれば死があるということです。
そして死があるから生があるということです。

これは宇宙の仕組みであり“真の自分”の仕組みでもあり
“真実”ということです。

ですが、ここには思考がありませんから
何ひとつわかりません。

すべて『例え』ですので“只なる実践”の継続で
真実”を感じ取ってください。


辛さが出てくるのがよく観えると、辛さは消えますね。

2016-11-22 10:13:47 | 日記
今朝眺める自宅にある白菜の生育の状況です。
寒くなってきているせいか害虫がいません。
色艶を観て回ると心が落ち着いて出掛けることができます。笑




【テレビ等で、私は苦しい時代を乗りきってこの様に繁盛しました…と、
 言われる方がいますがしかし、また衰退するときがあるのですね。
 ・・・これ、わかりますか?】


哲学的なことや神様みたいな崇高な言葉も、
すべて自我が頭の中で喋っているだけです。
つまり幻想であるということですね。

騙されないでください、思考自我は例えば
本当に巧みなペテン師なのです。(笑)

ですから世の中の99,9%の人が自分と思っているのです。
それが正しいとも間違いともありませんから別にいいのですね。

ただそれは「思考自我」であると、そこから離れず認識しておくことで
心配、不安、苦悩、恐れ等にはなりません。

認識しておかなければ「思考自我」が暴れまわって
心配、不安、苦悩、恐れ等になるということです。

つまり思い考える癖が無ければ“お気楽”そのものと
いうことです。

人生の仕組みをしっかり見極めると
“絶対安心”の境地で過ごすことができます。
 


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


抵抗も対立も無く、差別無く、手段も何も無くして
 ちゃんと有るこの事実の様子です。つまり神が作ったものでもなく
 仏が作ったものでもなく、誰が造ったものでもない。
 耳に自ずから有る様子を音と言うているだけです。
 それらをもたらす主が有る訳では無いのです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
事実の様子は“真実”ですね。
“真実”には思考がありませんのでまったくわかりません。

ですから『例え』で示すしかなく、それが“空”であり
“無”であり“神仏”そのものとも言われています。

この『例え』はどのように示しても、
本当でも嘘でもないのです。

自然の様子という“真実”は、神が作ったものでも
仏が作ったものでもないと言われていますね。

では一体!と思い考えても絶対に
誰もわからないのです。(笑)

自然の様子は誰もわからないから、本当でも嘘でもない
『例え』で言いますと“只”ということになります。

”なる“真実”は実践の継続で明らかになってきます。

流れていく“今”ですし、動かない“今”でもあるのです。

2016-11-21 10:40:24 | 日記

人として生きることは真面目に、正直に、
慈愛を持って、お気楽に生きることですね。

そして出来るなら思考する癖を落とすことです。

この「思考癖」が苦悩を創り出すからです。
もちろん、楽しいことも嬉しいことも創作します。

しかし残念ながら、楽しいこと嬉しいことの
片方だけを望んでも、「思考癖」を真ん中から
切り開くことは出来ませんね。

ご承知のとおり「苦」と「楽」は切っても切れない
“ひとつ”ということです。

「苦」があることは「楽」があるからです。
そして、逆の「楽」があることは「苦」があるからです。

ですからどうすることもできない「思考癖」ですね。
この難儀な「思考癖」をすべて切り落とすのが
“只なる実践”ということです。

この“実践”は、どうすることもできない「思考癖」
ですので、暴れまわる「思考癖」をどうもしないで
“只、観ておく”ことです。

“只、観る”と消えていきますが、また浮かんできます。
また“只、観る”と消えていきます。
この繰り返しで「思考癖」は除々に弱って落ちていきます。

それと、空から浮かんで来た念に取り付かないで
“スルー”するのです。浮かんで来た念に取り付くと
『想念』になりますから、除々に心配、不安、苦悩、恐れ等になるのです。

ですから、その前に浮かんでくればまったく
何もしないで“スルー”、浮かべば“スルー”の繰り返しです。
この繰り返しで「思考癖」になる前の“念”は除々に浮かんで来なくなります。

この様に、弛まぬ“只なる実践”の継続の結果は、
仏教で言う“涅槃寂静”の境地となるのです。

言葉を変えて言うなら、天心爛漫なお気楽な
“絶対安心”の境地ですね。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


法とは何かというと、有りの侭のこの様子が、紛れもなく
 真理そのものだということです。簡単に言えば、自己が無いことです。
 眼においては見るこの様子です。耳においては音が自ずからそこに出現して、
 しかも瞬間瞬間で終わっているこの様子を法と言うのです。


いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
今この瞬間・無思考”が真実であり、“”も同じで
有りの侭のこの様子ですね。
思考が無いのが自然の様子で本来ということです。

口で言えば噛んだら味が出る様子、
風邪を引いたらクシャミが出る様子です。
さつま芋をたくさん食べたらオナラが出る様子ですね。(笑)

1日中、オナラが出るというわけではなく
瞬間瞬間の様子です。

本来の様子で無いのが、自由勝ってに出てきて
不安等になる「思考癖」です。

また、オナラが出たら嫌がる、
文句を言う「思考癖」です。(爆笑)