山畑の白菜の育成です。害虫等に蝕まれ『もうダメかな~』と
思っていましたが、手入れした甲斐もあり再び立ち上がってきました。笑
【心配、不安、苦悩、恐れ等が来襲するときは、
間違いなく思い考えているのです。
それは心配、不安、苦悩、恐れが「思考癖」だからです。】
仕事が辛く思う時はありませんか?
業績が悪く思い悩むことはありませんか?
うまく出来なくてイライラが出てくる時はありませんか?
何事もそうですが無理は絶対してはいけません。
仕事が辛いときはゆっくり休むことです。
業績が悪いときもこんなもんと諦めることが肝心です。
うまく出来なくて当たり前とするのです。
仕事は辛いものとか楽したいと想わないことです。
業績はその時の業績で、事実には良かった悪かったは
無いのですね。
同じくうまく出来ないも、うまく出来るもありません。
ですから、とにかく考え込まないで事実にお任せすることです。
これは繰り返し述べていますが、頭の中で勝手に
妄想する「思考癖」を遠く引き離すということです。
遠く引き離すことが“只なる実践”の継続です。
その“実践”で引き離せば引き離すほど“お気楽”になってきます。
只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。
『時間も空間も縁その物であり、大小長短関係なく宇宙同体なのです。
宇宙とは全体丸ごとですが、時間軸で捉えたならば「今」の様子です。
「今」の様子をさらに詳しく言えば、留まっていない無常流転の「今」。
しかし無常であっても何処へも行かない不変の「今」。
この絶対の「今」が去りつつ新しい「今」として流転をしているから、
全てが生きて躍動しているのです。だから宇宙も生命も生まれたのです。』
いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
縁そのものが宇宙とも言われていますね。
宇宙の中の時と言えば“今の様子”です。
そして無常流転の「今」と不変の「今」が、
去りつつ新しい「今」として流転をしているから、
全てが生きて躍動しているのです。と言われています。
これは思考ではわからない自然の様子です。
そこに我々は心身一体を預け“今”に生きればいいのですね。
心を持ち、身体を持ちという意識が問題を引き起こすのですから、
これを忘れ去る“只なる実践”の継続です。
思っていましたが、手入れした甲斐もあり再び立ち上がってきました。笑
【心配、不安、苦悩、恐れ等が来襲するときは、
間違いなく思い考えているのです。
それは心配、不安、苦悩、恐れが「思考癖」だからです。】
仕事が辛く思う時はありませんか?
業績が悪く思い悩むことはありませんか?
うまく出来なくてイライラが出てくる時はありませんか?
何事もそうですが無理は絶対してはいけません。
仕事が辛いときはゆっくり休むことです。
業績が悪いときもこんなもんと諦めることが肝心です。
うまく出来なくて当たり前とするのです。
仕事は辛いものとか楽したいと想わないことです。
業績はその時の業績で、事実には良かった悪かったは
無いのですね。
同じくうまく出来ないも、うまく出来るもありません。
ですから、とにかく考え込まないで事実にお任せすることです。
これは繰り返し述べていますが、頭の中で勝手に
妄想する「思考癖」を遠く引き離すということです。
遠く引き離すことが“只なる実践”の継続です。
その“実践”で引き離せば引き離すほど“お気楽”になってきます。
只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。
『時間も空間も縁その物であり、大小長短関係なく宇宙同体なのです。
宇宙とは全体丸ごとですが、時間軸で捉えたならば「今」の様子です。
「今」の様子をさらに詳しく言えば、留まっていない無常流転の「今」。
しかし無常であっても何処へも行かない不変の「今」。
この絶対の「今」が去りつつ新しい「今」として流転をしているから、
全てが生きて躍動しているのです。だから宇宙も生命も生まれたのです。』
いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
縁そのものが宇宙とも言われていますね。
宇宙の中の時と言えば“今の様子”です。
そして無常流転の「今」と不変の「今」が、
去りつつ新しい「今」として流転をしているから、
全てが生きて躍動しているのです。と言われています。
これは思考ではわからない自然の様子です。
そこに我々は心身一体を預け“今”に生きればいいのですね。
心を持ち、身体を持ちという意識が問題を引き起こすのですから、
これを忘れ去る“只なる実践”の継続です。