山の安納芋や自然薯を絶えず見守っている
スウェーデン国から来た人形さんです。笑
唯一実存するのは“純粋意識”の“真の自分”です。
“純粋意識“は只眺めているだけです。
意識がありませんので無意識です。
認識することがありません。
何も無く“只、ひとつ”なのです。
そして思考自我を、何も一切しないで“只、観ている”
のが純粋意識の“真の自分”です。
“真の自分”以外は、すべて実体というものが無いのです。
空から浮かんで来るすべての念は、取り付く事さえなければふっと出てきては、
また消えていくものです。
身体も、思考も、感情も、感覚もすべて空から浮かんで来るすべての念と同じく、
一時的な現象でしかありません。
縁が重なって“今この瞬間”に起こっているだけであり
本来、実体というものが無いのです。
“無いものは無い” 実体というものが無い、これは同じで
その本来を心配や、不安、苦悩、恐れたりしているのが
実体がない思考自我です。
つまり幻想ということです。
“只なる実践”は実体がない幻想自我を、“実体が無い”と
腑に落とすことにあるのです。
本来の今の自分が、どんな状況であったとしても何にも問題がまったくありません。
「困った事だ…」と思っている自我が、自分の中にいるだけです。
例えば、幻想であるアメリカのクリントンさんが
「負けて悔しい!」と、自分の中で言っているだけです。(笑)
ですから幻想と同調しなければいいのですね。
只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。
『全ての祖録はこの上で書かれておりますから、
理論や言語や概念や想像や観念では、手の付く世界ではないのです。
謂わば知性や観念的な計らいでは心の諸問題は解決することは出来ないのです。
根本が全く違い次元が全然違うからでです。
そのことを知らせようとして物されているのが経典であり祖録であり
法話なのです。それを如実に実行するのが修行であり参禅弁道です。』
いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
“只なる実践”とは「思考自我」を落とすことです。
汚れは雑巾で拭けば落ちますが、「思考癖」は目には見えない、
どこに在るかわからない実体のないものです。
ですから、この浮遊する「思考癖」を落とすことは
容易なことではないのですが、昔と違ってありがたいことに
祖録であり法話が、身近に観る事ができるようになったからです。
この近代のシステムに感謝しながら、お釈迦様の
有難い教えを“只なる実践”で会得するのです。
しかしこの“有難い教え”は、聞いたり読んだりだけでは不十分なのです。
繰り返し述べていますが、この“有難い教え”に沿い
空から浮かんで来る念を“スルー”することの実践、
取り付いたらその想念を“只、観る”実践です。
そこには文字、言葉、イメージ等は一切無いですから
例えで“只なる実践”と言っています。
スウェーデン国から来た人形さんです。笑
唯一実存するのは“純粋意識”の“真の自分”です。
“純粋意識“は只眺めているだけです。
意識がありませんので無意識です。
認識することがありません。
何も無く“只、ひとつ”なのです。
そして思考自我を、何も一切しないで“只、観ている”
のが純粋意識の“真の自分”です。
“真の自分”以外は、すべて実体というものが無いのです。
空から浮かんで来るすべての念は、取り付く事さえなければふっと出てきては、
また消えていくものです。
身体も、思考も、感情も、感覚もすべて空から浮かんで来るすべての念と同じく、
一時的な現象でしかありません。
縁が重なって“今この瞬間”に起こっているだけであり
本来、実体というものが無いのです。
“無いものは無い” 実体というものが無い、これは同じで
その本来を心配や、不安、苦悩、恐れたりしているのが
実体がない思考自我です。
つまり幻想ということです。
“只なる実践”は実体がない幻想自我を、“実体が無い”と
腑に落とすことにあるのです。
本来の今の自分が、どんな状況であったとしても何にも問題がまったくありません。
「困った事だ…」と思っている自我が、自分の中にいるだけです。
例えば、幻想であるアメリカのクリントンさんが
「負けて悔しい!」と、自分の中で言っているだけです。(笑)
ですから幻想と同調しなければいいのですね。
只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。
『全ての祖録はこの上で書かれておりますから、
理論や言語や概念や想像や観念では、手の付く世界ではないのです。
謂わば知性や観念的な計らいでは心の諸問題は解決することは出来ないのです。
根本が全く違い次元が全然違うからでです。
そのことを知らせようとして物されているのが経典であり祖録であり
法話なのです。それを如実に実行するのが修行であり参禅弁道です。』
いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
“只なる実践”とは「思考自我」を落とすことです。
汚れは雑巾で拭けば落ちますが、「思考癖」は目には見えない、
どこに在るかわからない実体のないものです。
ですから、この浮遊する「思考癖」を落とすことは
容易なことではないのですが、昔と違ってありがたいことに
祖録であり法話が、身近に観る事ができるようになったからです。
この近代のシステムに感謝しながら、お釈迦様の
有難い教えを“只なる実践”で会得するのです。
しかしこの“有難い教え”は、聞いたり読んだりだけでは不十分なのです。
繰り返し述べていますが、この“有難い教え”に沿い
空から浮かんで来る念を“スルー”することの実践、
取り付いたらその想念を“只、観る”実践です。
そこには文字、言葉、イメージ等は一切無いですから
例えで“只なる実践”と言っています。