【自己主張は大切ですが、他の意見も素直に聞く姿勢を持ちましょう。
でも、それより大切なのは言っては流れて行く
“只の意見”です。】
思考からの支配は本来の自由がきかないのですね。
例えば頭の中で「右手を上げろ!」と言っても
“今”は意識が働いていますから上げませんね。
しかし「嫌だな~」と思うと嫌になります。
「遊びに行きたい」と思うとその気になります。
「仕事は辛い」と思うとつらくなります。
「お金が欲しい」と思うと欲しくなります。
このように大半が思考から支配されるのです。
また逆の「嫌だな~」と思っても『好きになれ!』という
思考もいます。(笑)
「遊びに行きたい」と思っても『怠けるな!』という
厳しい思考もいます。(笑)
「仕事は辛い」と思っても『そんなことでは金にならん!』と
いう耐える思考もいます。(笑)
「お金が欲しい」と思っても『無いものは無い!』と
諭す思考もいます。(笑)
このように頭の中でいくら騒ぎまくっても、所詮は幻想で
解決は“無い”のですね。
幻想思考からの脱出は空から浮かんだ念に
取り付かないことです。
これによって思考自我からの
支配から離れることが出来るのです。
ですから慌てずコツコツと“只”に向かって歩きましょう。
只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。
『事の始まりは、我々人間が個としての自覚を持った事からです。
その自覚現象とは、心意識や念想観を以て相手として眺める状態。
つまり自他の隔歴が生じてしまったことを言うのです。
これが「隔たり」であり縁の侭の「それ自体」とは
すっかり様変わりし冷めた世界に落ちたことを意味しているのです。
だから「隔たり」はそのまま迷いの世界と言うことです。』
いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
幼児の時、お母さんとか認識したときから
自他との隔歴が生じたといわれています。
ここから同じく思考が生じたのですね。
それ以前は“空”であり“無”であり
“ひとつ”の世界です。
この“ひとつ”の世界は“神仏”そのもので
“絶対安心”の境地なのです。
今、生きている幻想世界は思考に支配されて
いると言って過言ではありません。
自分で在りながら思考から支配されているなんて
思いも及ばないことです。
本来である自分の自由が束縛されている
ということですね。
ですから“只の縁”が、「無縄自縛」となり心配、
不安、苦悩、恐れ等になるのです。
「無縄自縛」を創るのが思考自我ですから
これを見極めるため今、今、今の
“只なる実践”の継続です。