只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

雨となりましたね、何もすることなくゆったりとしています。笑

2016-11-27 11:45:40 | 日記
自然薯のむかごです。この約200個のむかごで
来年は種芋を作る計画です。
うまく育てばいいなと楽しみにしているところです。笑




【儲け話は必ず裏があるのですね。
 儲け話が無ければ、儲けることも
 儲けないということもありませんね。】

1日に浮かんで来る念は相当数あり、数える事ができません。
ですが、この今の心はまったく自分ではありません。

過去世です、過去の事で浮遊する心ですね。
これをパンドラの箱と意識すれば、浮かんで来る念に
取り付くことはありません。

例えば「あの人は意地汚い」とか「約束を守らない」、
「返す金を返さない」とかのパンドラの箱が出てきたとします。

そのパンドラの箱は何が入っているかわかりません。(笑)
興味深々で開けて観たくなるのが世の常です。

ですから開けて観ると、このパンドラの箱の中身は
『なぜだろう?』や『どうしてか?』がぎっしり
詰まっているのです。(爆笑)

更に奥には「復習心」や「被害心」や
「自己を責める心」等が詰まっているのです。

つまりパンドラの箱を開けると「解決できない迷い」に
入って苦悩になるということです。

そうならないためにも、“只なる実践”は見て“見ない”、
聞いて“聞かない”、浮かんで来る念を“スルー”
することで何もしないことです。

そして今、今、今と“今”を決して離さないことが
只なる実践”です。




只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


要するに参禅弁道は道理を離れて、真摯に実践することです。
 実践は只管功夫することです。只管功夫に只管打坐と只管活動があり、
 それを誤らせないためには、どうしても参師聞法が不可欠なのです。
 参禅弁道は参師聞法と只管打坐が中心だと言うことです。
 かくして法を自由にする事が出来るのです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
真実は“事実に目覚めた”人から教えを
貰うのが当たり前です。

そしてそのとおりに自分での“只なる実践”が必要ですね。
それだけですので“今を離さず只、やる!”だけです。

何時やるか、明日からやるか、落ち着いてからやるか、
忙しさが終わってからやるか、ちゃんと整ってからやるかです。

でも、残念ながら人生は待ってくれませんね。
そうです、“今この時”しかありません。