それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

『沈黙の声』第34号(89年9月20日発行)「今こそ死刑廃止の声を」(東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件)

2017-01-25 01:14:29 | 会報『沈黙の声』(その3)

永山則夫支援者だった武田和夫さんが永山さんから追放された後、武田和夫さんが「風人社」という死刑廃止団体を立ち上げ、『沈黙の声』という会報を発行してました。その内容を、下に載せます。ちょうど、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤氏が逮捕された後の内容のようですね。

 


 

『沈黙の声』第34号(89年9月20日発行)

「今こそ死刑廃止の声を」

一 

死刑廃止をたたかう我々の立場が、根本から問われる状況となってきた。 

〝どのような『凶悪犯』でも生かせ〟と言うだけならたやすい。問題は、それをいうとき、殺された被害者にどれだけ向き合っているのかということだ。世論がどうかというのではなく、そのことが、死刑廃止をたたかう我々自身の姿勢として、問われるということである。 われわれは、死刑囚が、〈人間〉として生き直すために、死刑とかたかうのであって、死者を踏みつけにしたままで、死刑囚を『助ける』のではない。またそれでは、真に生かすこともできない。死刑囚とともに、被害者-死者に、どれだけ向きあってきたのかということは、死刑囚と如何にかかおり、「何」を共にするのかという、死刑囚との〈共闘〉の中味の問題でもあるのだ。 

〈人間〉として生きるとは、まず阿よりも、自己自身に―〈罪〉を背負ったありのままの自已に。向きあうことだ。それがとりもなおさず、殺した被害者と向きあって生きる、ということにつながるだろう。たとえ百万語を費やそうとも、自己自身のありようを見失ったところからは、本当の〈反省〉は出てこない。〈生きて償う〉とは、何かで埋め合わせをするということよりも、まず「殺した」自分を見つめ、その自分が『生きる』意味を。死者の側から問い続けることではないだろうか。それが、〝死者を祀る〟ことの意味でもあるのだと思う。 

われわれは、悲惨な事件を「他人事」とせず、死者を〈生〉かしたいからこそ、加害者を抹殺することですべてを精算する死刑に反対するのだ。 (無実事件の場合も、真実を追及することが、事件の犠牲者を〈生〉かす途といえるだろう。デッチあげは、被害者を冒涜するものである。) 

死刑廃止運動が、ほんとうに、生き生きとした軽やかなものとなるのは、実はそのような、人間の共生の実践と、確信によってであって、死者に向きあうという運動の〈重さ〉を回避することによってではないのではなかろうか。

それは、事件が増々「凶悪」化していくことが予想されるこれからの時代に、死刑廃止運動の重要さを更に確信していくのか、あるいは増々しんどくなる状況との対決を回避して、運動を空洞化させていくのか、というかたちでも、問われていくだろう。

 言い方をかえると、今の状況は、死刑囚と我々が、たがいに自己を問い直すなかから、人を生かし。共に生きるために死刑とたたかうのか、自己を問わない「善意」のみの「殺人反対=死刑反対」にとどまるのかを、否応なしに問いかけているといえよう。          

二 

今回、「幼女連続殺人事件」の犯人逮捕をめぐって、二つの反応が存在している。ひとつは、法相後藤正夫を筆頭とした、「死刑にしてもあきたらぬ!」の声高の叫びで、従来の犯罪番組で使い尽くした表現を白々しくくりかえすしかないテレビ報道番組等がこれに照応し、あるいは「社会病理だ」などと注釈をくわえる売れっ子作家も、「自分と別種の人間」としてしか犯人を見ていないという点で、同じ系列にはいるものであろう。 ところで、一般市民の対応には今回、これとは違った内容が顕著である。「犯人逮捕」以降約半月の、主要三紙の投書欄をみてみよう。 

 

 

少なくともはっきりといえることは、「死刑にせよ!」ではすまない、一人びとりの生存領域にたいして事件がもつ深刻さを、各人がさまざまなかたちで、感じとっていることであろう。

大きな特徴として、まず、ビデオなどを通じて流される残虐な映像への批判がある。こうしたビデオの取締りにたいしては、「短絡」との批判もあるが、今のホラービデオや残酷ビデオの氾濫は、人間の身体にたいする感性をおかしくさせかねない。

人と人とが分断され、そこに人間的な感情が通い合わなくなったところに、「相手の身体にたいする暴力」という倒錯した「コミニュケーション」を具象化し、それを際限なくエスカレートさせた映像が大量に注入され、そして現に、それに触発されたとみられる犯罪がすでにおこっているのである。そうした現実に、人々が大きな危倶をいだいている、ということであろう。 

ついで、犯行の原因に目をむけるもの、そしてマスコミ報道への批判がめだっている。『凶悪事件」が発生するたびに、事件をセンセーショナルに書きたて、「犯人」への憎悪をあおるだけで、事件の本質や背景をましめに問い直し、真の解決の途を提起しようとしてこなかったマスコミのありかたにヽ人々は批判の目をむけはじめている。

そして、なぜこのような事件がおこるのかを、皆で考えていかないとどうにもならないところにきているのだという認識を、多くの人々がもっているのだといえよう。 こうしたなかで、死刑廃止運動は、どのような態度をとっていくべきだろうか。

死刑制度が、今回のような事件の防止に、全く無力であったこと、むしろ死刑を容認する社会の非人間性そのものが。「人が人を殺す」非人間的な社会を再生産していくことを、大胆に、訴えていくべきではないだろうか。我々が手をこまねいている場合、社会総体の間化が深まるにつれ、更に事件の凶悪化が予測されるなかで、"何とかしなければ"という国民感情は、支配権力によって、死刑強化、管理強化の方向へからめとられていくことは確実であろうからである。

(抜粋以上)

 

 



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