元永山則夫支援者であり武田さんが発行していた、『沈黙の声』という会報に、たまに「試金石」というタイトルの別枠の評論が入るのですが、それを以下に載せます。今回の内容は、「被害者ご遺族の感情」についてです。
『試金石』(87年10月5日発行)「ご遺族の感情について」(その1)はこっち。
★久しぶりの【試金石】である。
★前回、といっても2年前('87年10月第25号)だが、「死刑は廃止して、仇討ちを認めよ」という「死刑廃止論」を批判した。問題は、「被害者遺族が加害者を殺したい気持は当然」という見方にあった。今回、またこの問題を考える。
★「被害者遺族が殺したいのは当然」という観念は死刑廃止論者の間にも根強い。また他方で、「いざ殺してよいといわれて、殺せるか?」ということも、言われる。このどちらも、本当に被害者遺族の心情を、理解しているのか疑問に思われるのである。
★「殺したい」というのは憎しみ、怒りの心情の、一つの直接的あらわれである。「粉々になるまで切り刻んでやりたい」という、被植民地の少年の、侵略兵にたいする憎悪を読んだことがあるが、むしろこのような『殺しても飽き足りない思い』というべきものがあるだろう。実際に殺すかどうかということは、別問題だ。なかには機会があれば本当に殺すひとがいるかもしれない。
★しかし、人を殺したいまでの憎しみを抱きながら生きるということは人間にとって、なお耐え難いことではないだろうか。おそらく遺族のひとは、死者へのいとおしさから、その思いに耐えようとするのではないか。
★殺してもあきたらぬ憎悪に心をさいなまれ、実際に犯人に殺意をいだくのも人間なら、その心情をのりこえ、なにゆえ殺されねばならなかったのか。『何』に殺されたのかをつきつめて、怒り、悲しみを、犯行の背後にあるより普遍的な社会の問題、人間の問題へとむけていけるのもまた、人間なのである。
★それは少なくとも被害者遺族自身の、自由な選択にかかるべきことだ。ところが死刑は、遺族の選ぶまえに、何の解決にもならない「国家による犯人抹殺」というものをおしつけ、遺族の怒りをそこに釘付けにしてしまうのだ。
★ 「遺族は殺したいのが当然」というきめつけは、こうした死刑の有り様を支えるものでしかなく、遺族にたいする無神経な取材が昨今世論の非難をあびている、マスコミの見方とたいして違わない。
★われわれは、遺族と共に、本当の「報復」をしなければならないのかもしれない。そして死刑を手離さぬ者は、それを怖れているのかもしれない。
(抜粋以上)