それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

『沈黙の声』第38号(その4)(91年9月1日発行)「死刑廃止運動と死刑囚」

2017-01-30 19:42:26 | 会報『沈黙の声』(その3)

(その3)から続く

 

四、「流れの変化」と、とりまく状況

'90年12月のフォーラム90の成功は、死刑廃止をめぐる「流れの変化」を誰の目にも決定づけた。それは単に一回のイベントの成功という以上に、死刑廃止運動がそのイベントを通じてそれまでのあらゆる傾向、そしてあらゆる地域の運動を集約することに成功したためであり、そのことが国会に対して、死刑廃止運動を確固たる政治勢力としてつき出していくことを可能にしたのだった。

この動きは、支配勢力内部の、死刑制度をめぐる政策にどう影響を及ぼすだろうか。 

先にのべたとおり、1950年代後半以降、権力側の死刑制度にたいする路線は、「刑法改『正』―保安処分制度化」であった。これ'82年中曽根政権によって、「死刑制度そのものの強化」へと転換された。 

'81年永山裁判高裁「無期減刑」判決を差し戻した83年最高裁判決を転機とし、それまで年間一名におさえていた死刑執行を'85年一挙三名に、そして「死刑確定ラッシュ」へとつづく死刑攻勢は、「死刑存置」を強力に印象づけるとともに、死刑廃止運動、とりわけ麦の会を中心とする「死刑囚との共闘」を分断解体しようとするものであった。それは、天皇イデオロギーを背景とした「戦争のできる」ハイテク国家による「21世紀世界征覇」を合言葉とした中曽根政権の、国内再編・労働運動解体攻撃と一体のものだった。

(今、永山裁判についてはり年の最高裁差 し戻し以降の圧殺過程のみが語られている。 これは、『沈黙の声』で何度か述べている「81年高裁減刑までの永山裁判闘争」の意味を見えなくし、結果として権力の意図をたすけるものだ。永山則夫を〈生かす〉とは、彼の罪への向き合いが獄外者をつき動 かし、無期減刑をかちとった闘いの延長上に、全ての死刑囚との共生をめざすことなのか、それとも佐木隆三などによる一獄中作家」への囲い込み、「永山特殊化」のなかで、ただ権力の圧殺に『抗議』することなのか。「客観的、具体的にどうなのか」が問題なのだ。)

 こうした支配勢力側の政策は、'89年における東西冷戦の終結とその後の「湾岸危機」といった国際情勢の変化、国内的には、天皇交代。リクルート疑惑等による勢力変化の中で、「国際化」にむけた一定の体質改善が追求され始めている。「天皇イデオロギー」によるハイテク国家化のイメージにかわって、「人権」イデオロギーによる「平和」国家のイメージが顔をみせつつある。これは死刑廃止運動にとって極めて有利な状況であることに間違いはない。もっとも、支配側内部ではあくまで「人権」派はまだ少数派である。また、「人権」ということが、与えられたイデオロギーではなくあくまで具体的な、人と人とが共に生きる基準となるためには、運動内部で死刑囚とどのような関係をつくるのか、死刑囚と「何」を共闘するのか、ということが、問われてくると思う。

(その5)続く



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