それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

1993年2月20日ねっとわあく死刑廃止第18号…旭川刑務所の磯江洋一さん(警官剌殺)

2017-02-04 23:24:37 | 会報『ねっとわあく死刑廃止』

 

1992年12月20日ねっとわあく死刑廃止第17号より

申し訳ないですが、私の時間の関係で、興味が出た部分のみ抜粋します。私がここに載せたからと、内容を私が全部理解してるとか、全部私の頭の中に入ったわけではないので、ご容赦ください。それと、誤字脱字もご容赦ください。 


 

「無期囚」支援の立場から

M記

このたび朴氏の講演「韓国の死刑制度おび廃止運動の現状」(1月23日)について感想の依頼があり、初めて投稿させてもらいました。 私は「磯江さんを支える会」の丸山と申します。

現在無期囚として旭川刑務所に服役している磯江洋一さん(山谷の労働者)による獄中訴訟を支援しています。

この報告は後回しするとして、講演の感想は次の通りです。 

朴氏は講演の冒頭「韓国の明るいところを喋りたいが、明るいところは暗いところがないと明るいところは見えない」と言っています。私はこれを、・監獄のなかで苦しむ囚人を「救済」する立場からの内容と思いました。 

また朴氏の講演は、日本と無関係でないことを気づかされます。韓国の刑法の出生が、戦前日本の侵略ゆえに、現行刑法が「日本の法律をコピーするしかなかった」し、制度化されたこと。深く考えさせる指摘でした。

そして朝鮮半島の南北分断の緊張関係のなかで国家保安法が制度化されていったこと。また「刑法のすべての条文が、『特加法(特定犯罪加重処罰に関する法律)』で加重されると死刑になりうる」という厳しい報告 がありました。

しかし同時に「社会情勢の変動によっては、死刑になったり、ならなかったりすることもある」のです。私はアジアの死刑の現状について、戦前日本によるアジア侵略、大東亜共栄圈と戦後アジア各国の司法がどうなっているのか分かりません。分からないのは、私の無知識もさることながら、今日の日本の情勢と無縁ではないと思います。

そのような意昧から、7月のアジアフォーラムに期待しています。次に「磯江さんを支える会」の活動の報告を少しさせていただきます。 

磯江洋一さんは、1979年6月9日山谷マンモス交番の立番中の警官を剌殺した事件で、1982年7月無期懲役が確定し、同年9月旭川刑務所に無期囚として服役しました。 

普通、受刑者が服役すると分類調査の結果により他の囚人と共に工場で労働します。ところが磯江さんは、初めから工場に出されず他の囚人と共に会話すること労働すること運動することも各種のレクレーションも許されず、24時間たった一人です。

この処遇のことを刑務所では、厳正独居といいます。10年以上もこの厳正独居が継続しています。腰痛、視力の低下、慢性の便秘、声帯の衰えなど磯江さんの肉体的精神的苦痛は、想像を絶します。 

磯江さんは、この厳正独居に対し「肉体的精神的苦痛は計り知れない」として、1987年旭川地裁に国家賠償請求を提訴しました。依頼私たちもこの裁判(厳正独居裁判)を弁護団と共に支援し傍聴してきました。

裁判のなかで国・旭川刑務所は「独居拘禁(厳正独居のこと)に多少の苦痛があるのは、受忍の範囲内」と答弁しています。

また「法に沿っており、違法ではない」としています。国・法務省、刑務所も裁判所さえも法を絶対視ないし万能視するのは当然としても、そこには「寄らしむべからず、知らしむべからず」という前提があるのではないでしょうか。 

厳正独居の実態は、「3ヵ月も続くと、拘禁症状になる」という法学者の見解や「国際人権規約違反」という日弁連の見解など、重大な人権侵害として問題になっています。 

私たちは5年間の裁判支援のなかで、はじめての「人権と監獄」旭川現地集会(70名)や第1次署名(8千名)・第2次署名(現在運動中)と会報「六月の炎」発行による裁判報告と支援の訴えを行なってきました。 「死刑囚」と「無期囚」とは次元が違うと思います。しかし同じ監獄の問題としてともに共有できたらと思います。

1993年2月8日

 



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