それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

『沈黙の声』第38号(その1)(91年9月1日発行)「死刑廃止運動と死刑囚」

2017-01-28 02:31:35 | 会報『沈黙の声』(その3)

永山則夫支援者だった武田和夫さんが永山さんから追放された後、武田和夫さんが「風人社」という死刑廃止団体を立ち上げ、『沈黙の声』という会報を発行してました。その38号の内容を以下に載せます。 この38号が最後みたいなんで、気合入れて読みます。

 


 

『沈黙の声』第38号(その1)(91年9月1日発行)

「死刑廃止運動と死刑囚」

 

一、過去の死刑廃止運動と死刑囚

死刑廃止運動にとって、死刑囚の存在、そして運動が死刑囚にどうかかわってきたかということは、つねに大きな意味をもつものだった。

1950年代後半から'60年代始めにかけて、国会への死刑廃止法案提出(56年)を頂点として展開された死刑廃止の動きは、知識人中心の運動だったといわれている。しかし当時も死刑囚の闘いは重要な意味を持っていた。

現行の死刑執行方法を定めた太政官布告65号の無効を争った松下今朝敏氏の行政訴訟、('58年~'61年、その間死刑執行停止とされた)、処遇改善を要求して58年には大阪地裁で勝訴した、孫斗八氏の一連の訴訟闘争(受刑者行政訴訟の初め)は、当時の死刑廃止の動きのもう一方の極を形づくっていたといってさしつかえないだろう。 

このときの死刑廃止の声のたかまりにたいして、権力側のとった対応をふりかえっておく必要がある。まず、死刑囚の闘いに対しては、徹底した圧殺と、獄外との分断が行なわれる。

'63年7月、9件の訴訟審理中であった孫斗八氏にたいし、司法権力は突如、死刑を執行した。「運動だ」と舎房から連れ出し、だまし打ち的に刑場にら致したという。この四か月前の9年3月、法務省は、監獄法で規定された死刑確定者の外部との交通権を大幅に制限する通達「死刑確定者の接見および信書の発受について」を各拘置所に発している。孫氏の闘いを圧殺するとともに、現在に及ぶ死刑確定者と獄外との分断の布石がこの時しかれたのだ。

この他方、'56年の死刑廃止法案提出直後、法務省内に刑法改正準備会が設置されている。獄外の死刑廃止の世論に対しては、改正刑法において、ほとんど条文のみの存在となっていた一部の死刑適用罪削減でお茶をにごすとともに、「保安処分」―死刑にかわる、「治療」の名による、無期限の施設送り―を制度化しようとしたのである。

世論の動向にかんしては、この当時、幼児誘拐事件が大きく報道され、「誘拐事犯に対する重刑化」が論議されたことを想起する必要があると思う。('60年雅樹ちゃん事件、'63年吉展ちゃん事件。後者については'65年逮捕の犯人認定に疑問があることを、「沈黙の声」第36号でのべている。)

死刑囚の動向、あるいは死刑を予想される事件の動向、といったことが、死刑廃止をめぐる状況に大きくかかわってきたのだった。そしてこれらの状況に運動として充分切り結べなかったことが、恐らくは当時の死刑廃止運動の限界を画したといえると思う。

(その2)に続く

 


 

 

管理人のつぶやき

この38号が、『沈黙の声』の最終号になるのかな?



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